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第7章 第10話 Thrown from far away◆

 厚生労働省、アガルタ27管区担当室。

 その朝、制御ルームに出勤したプロジェクトマネージャーを待っていた構築士、関谷は仮想世界にダイヴをすることなく、いつになく思い詰めた様子でまっすぐにPMのデスクに向かった。

 関谷は第五区画担当の構築士である。


「おはようございますプロジェクトマネージャー。少しお時間よろしいでしょうか」

「おはよう関谷さん。伺いましょう」


 デスクの周りには防聴シールドが張り巡らされるが、27管区スタッフ達の意識はおのずと第五区画構築士に向く。ロイが迷い込んだ第五区画がどのような状況下にあるのかは誰もが気にかけており、新プロジェクトマネージャーも構築状況を把握しているはずだった。


「黒澤さんも、よろしいですか」


 関谷は改めて、ロイがメローヌ帝と接触をした件を報告し、現在、第五区画は赤井の注文で区画時間を最大限まで減速させているが今後の運用をどうすべきかと新PMと黒澤に打診した。

 基本的に区画の構築は各構築士の裁量に任されてはいるとはいえ、上司に報告は怠らないものだが、関谷が直接デスクに向かったのは何か含むところがあるのだろう。


「区画時間を止めるタイミングではあると思います」 

「ご報告をありがとうございます。関谷さん。分かりました、これまでにしましょう。私も区画時間を止め、赤井構築士を待つのがよいと思います」


 報告を受け、区画時間の停止を快諾した新プロジェクトマネージャーの名は、八雲と言った。

 八雲は他管区からの出向PMであり過去の年齢、経歴等は一切不明。

 厚労省では前職が構築士である場合は偽名の使用が認められているものの、八雲が姓なのか名なのか、構築士名なのかすら判然としないという有様だ。


 八雲着任の経緯は27管区スタッフの与り知らぬルートを経ている。

 日本アガルタのプロジェクトマネージャーとして抜擢される人材は構築士経験のない官僚というパターンもあるにはあるが、八雲PMは外見が若い。彼は伊藤より更に若く見える。

 さらに純粋な日本人ではなく、北欧系の混血であるというのは見るも明らかだった。

 彼は海外のアガルタで十分に経験を積んだ構築士あがりのプロジェクトマネージャーだったのではないかと噂になっている。いずれにしろ日本アガルタでの経歴が不明ということで、二十七管区スタッフ達は八雲の腹をさぐりさぐり構築を進めていた。


 八雲の27管区運営方針はというと、表面上は伊藤の路線を継承するという形を取っている。

 二十七管区に限り変則的運用で赤井主導で、という方向性も同じで、特に独自色を打ち出してくることもない。

 しかし伊藤の路線をそのまま踏襲しているように見えながら、食えない男だという空気を醸し出していて、スタッフらはその異様な雰囲気にのまれていた。


「今のタイミングで止めるしかねえだろうなあ、これ以上遅れたら一触即発になる」


 いつもは景気よく軽口をたたく黒澤も、八雲の前だと歯切れが悪い。

 というのも、伊藤PMの代役が八雲に務まるということは、八雲は敢えて言わないが27管区有事の際に主神級のアバターを駆りログインすることができるということだ。


 アバターは0-JPN1(伊藤/天御中主神)、0-JPN2(神坂/赤井神)、に続く第三のゼロナンバーズ、0-JPN3として登録されていた。


 黒澤がその権限において覗き見た0-JPN3のアバター名は、古今東西、アガルタ世界で見たことも聞いたこともないものであった。

 だいたい、アバター名は27~29管区のような非宗教管区のそれでない限り、神話にちなんだものであるはずなのだ。

 なのに、どの神話に由来するアバターなのか、皆目見当がつかない。

 ゼロナンバーズに連なる無名のアバター、なおさら不気味だ。

 八雲は人当りのよい青年で、敏腕構築士としての片鱗を窺わせないが。


「八雲PM。ひとつ、思いついたんですがねえ……」


 関谷は声のトーンを落とし、自身の唇にすっと人差し指の先を添えて相談をもちかけた。


「何でしょう?」


 好奇心に満ちた八雲の紅茶色の瞳が関谷を見つめる。

 この、現実世界においても看破されているような錯覚を覚える八雲の視線を、関谷は苦手にしていた。それは現実世界ではガードができないだけに、"見透かされている"という危機感を覚える感覚は関谷にとって我慢のならないものだった。


「……もしこのまま区画時間を止めずにロイちゃん単独で第五区画を解放できないものか、と思いましてねぇ」

「なるほど?」

「バックアップポイントは作成してゆきますし、焼人はロイちゃんのもとに待機しているのですよね。彼が最悪死んでも問題のないように配慮したうえで。いかがでしょうか、八雲プロジェクトマネージャー」


 関谷は第五区画に迷い込んだロイに、自らちょっかいをかけようというのだ。

 人間のいる起点区画ではこのような実験的試みに許可は出ない、しかし幸いにして第五区画にいるのはロイとA.I.だけだ。ならば第五区画の区画時間を止め、赤井を待ってロイを起点区画に戻すのでは面白くないでしょう、と関谷は笑う。


「つまり、第五区画のあれとロイをぶつけることになりますが……」


 八雲はいい顔をしない。 

あれというのは、関谷の構築した第五区画のクリーチャーで、百年後以降の主神との、互角以上の戦闘を想定しているため気合の入った作品である。

今の赤井が相手でも厳しいだろう。

至宙儀でも使わない限り、攻略方法はごく限られている。


「ロイちゃんは今やインフォメーションボードも持っていますし、神通力もバイタルロックもありますでしょう。一方的な展開にはならないと思うのですよ」


 関谷なりの分析なのだろうが、客観的説得力に欠けた。


「十分、一方的な展開になると思いますが。それにロイは、不老ではありますが不死ではありません。バイタルロックも万能ではない、運が悪ければ死んでしまう」


 赤井の希望でロイに付加されたバイタルロックというのはコードゼロ、即ち致命傷を認識して即死を回避するセーフティガードプログラムである。

これは受傷後自動的にインフォメーションボードが損傷の治癒を始めるというもので、一般構築士には標準装備されているものだ。

第五区画内でロイは既に一度、背後からの被弾に対しバイタルロックで命を救われた。

しかし、このプログラムにも欠点があって、肉体の損傷が著しい場合には作用せず即死判定となり、ログアウトを余儀なくされる。

この点でロイは分子レベルに分解されてすら不死身であるアガルタの神や、ログアウトのできる一般構築士とは根本的に違う。


「死んで何か問題がありますか? 私はバックアップを用意していると申し上げました」


 関谷は強気の姿勢を崩さない。

見かねた黒澤が何か口を開こうとしたが、八雲がそれを制した。


「確認しますが、第五区画を赤井構築士の代わりにロイに攻略させるということですか?」

「そうです。ロイちゃんが攻略できた場合には赤井さんと基点区画の素民の両方にメリットがあります」


 赤井が第三区画、第四区画を解放し第五区画にロイを迎えに行くまで、どれだけ無茶を通して急いだとしても十年は要する。

その間第五区画を停止して、ロイの体感時間はほぼ停止していても、ロイは基点区画で十年単位で不在の状態になる……。


「しかし……」

「集落の長であるロイちゃんが十年も基点区画に戻ってこない影響はモンジャの素民たちにとって計り知れず、ロイちゃんを連れ戻さない赤井さんへの非難も高まるのでは?」

「確かにそれは否めません。……第五区画が第四区画より先に解放した場合、区画間の整合性は?」


 八雲の心が関谷の意見に傾きはじめた。黒澤は信じられないという顔で立ち尽くしている。


「第五区画は基点区画の大陸から孤立した浮島です。ストーリーコンセプトは独立していますからね。そのあたりは、第四区画が後からいても問題ありませんよ。文明レベルが多少前後しますが、まあそのあたりはいいでしょう」 


 関谷は饒舌に語り、些細な問題だと分析している。また、ロイが赤井を厚く敬っている状況では第五区画の素民の赤井さんに対する信頼率に影響しないでしょうしね、と駄目押しの一言だ。


「でも、やめといたほうがいいんでないか」


 ここで見かねた黒澤が割って入る。

27管区の運営は既に他管区と比較しても定石を外れまくってはいるのだが、これ以上は容認出来ないとの考えだ。


「あらぁ、ロイちゃんは現時点で一般構築士より恵まれた条件を持ってるんですよ。赤井さんが彼を構築士として育てたいなら、素養を見るための試金石となる筈です。赤井さんがそばにいては、彼の真価は発揮されないでしょう?」


 ロイが持つ武器はというと

 区画時間を内側から止める緊急停止ボタン。

 構築と分析を可能とするインフォメーションボード。

 バイタルロック。

 赤井の神通力と物理結界。

 そしていざというときのセーフガード、焼人の庇護。


「はっきり言って、恵まれすぎです。これだけ恵まれた条件を使いこなせないようでは、構築士としては落第でしょ?」


 確かに、彼が赤井から離れて行動している今、高度学習型A.I.の性能を試すには絶好の機会ではある。しかしロイには戦闘経験がほぼなく、彼を試すには時期尚早というほかにない。


「どうして許可できないのか分かりませんねえ。バックアップポイントが正常に動くなら、具体的に何か損失がありましょうか? 失敗すれば元に戻せばいいではないですか。彼は患者様や構築士と違って、人間ではないのですから」

「……確かに、仰ることはわかりますが」


 八雲は関谷の提案を退けるだけの反論材料を持っていなかった。

 また、僅かな好奇心も首をもたげてくる。

 この関谷の一言を発端として、27管区に残された最後の高度学習型A.I.に対し、主神に代わって第五区画を解放させるという世界初の試みが課されることとなった。



 ***


 ロイの挑発によって、皇帝は多くの共を連れ玉座から降りてきた。

ロイを力づくで従わせることができなかったからだ。メローヌ帝の装束はアラブ圏のデザインをした黒づくめの長衣、頭部に銀のターバンのような布を巻いている。足取りは悠然として、威圧感さえ伴っていた。

 ロイは身じろぎひとつせず、しかし油断なく彼を見据えながら皇帝が接近するに任せていた。

その距離は、わずか数歩分。


「お前がマスク・メローヌだな」


 ロイは落ち着いた声色で暴君と恐れられる男に問いかけた。

その顔立ちと表情を、その眼光をつぶさに至近距離から観察した。メローヌ帝は不自然に痩せた中年の男で、顔の全面に縦横に走るケロイドが印象的だ。


「いかにもそうだが、王に対する口のきき方がなっていないな」

「お前は俺の王ではないだろう」


 毅然として反論する。


 無辜の民を殺すような男が、いかなる資質があって皇帝の座にあるのか。

ロイは人民を苦しめる暴君の思考を理解し、悪しき例として学ぼうとしていた。

目を背けたくとも学ぶ理由がある、何より彼自身が暴君となり悪しき道へと突き進まないためにだ。


”ん、何だ……何か、変だ”


 観察の中で、メローヌの眼光に人間離れした気配を感じ、ロイは警戒を強めた。

 男の眼は獣の眸そのものだ、人のそれではなかった。

 野生動物と対峙してきた彼の感性は鋭敏だった。

 マリとピケは皇帝が火法を使うと恐れていた。

 ロイは火法という語感から爆薬を扱う技術だと勘違いしていたのだが、確かにメローヌは何か得体の知れない異質な力を抱えた人間のようで、邪神ギメノグレアヌスと同質かそれ以上の邪気を感じる。

 マスク・メローヌは右手を睨むロイに気付き、愉快そうに鼻で嗤う。


”……こいつ、腕が”


 光板を透かして見たメローヌ帝の腕の上に、悪魔の右腕のようなものを幻視することができたが、肉眼では見えない。

 創造の光板は虚構を暴き、真実を透徹するためだろう。


「何をまじまじ見ている。貴様も同類であろうに」

「同類なものか」


 一緒にするなと噛みつくように否定したロイを、メローヌは物色するように目を細めた。


「ほう。では、人間だとでもいうのか?」

「……分からない」


 完全な人間ではないと赤井に告げられたからには、ロイはその責任と自覚を持ちつつある。

 あまりに正直で率直な答えに、メローヌは髭に手をやりながら失笑した。


「分からないとは滑稽だ」

「お前は人間なのか」

「ジンの力を得た帝王を、人間というのなら」


 メローヌは挑発するような笑みを顔面にはりつけている。

 人間の抜け殻に、別のものが棲みついている……ロイは、メローヌの人格は彼本来の人格ではないと断定した。カラバシュという島を救うには一筋縄ではいきそうにない。

 マリの話だと彼は不治の病を患っているというが、メローヌは病人というより廃人のようであった。


”メローヌの皮をかぶった何者かが……それがジンってやつなのか”

「つまり貴様は赤の神の神体を得て眷属となり不老不死を得たのだな」

「それは違う。赤い神は関係ない」

「そうか……」


 メローヌはまるで聞こえていないかのように、虚ろな表情で嗤った。

 暴君の瞳は黄ばみ、狂気に血走っている。

 ロイは得体の知れぬ生理的嫌悪感を催しながらも、冷静を保つのに精一杯だった。

 先ほどから皇帝はロイの身元などには興味がなく、神の眷属としてのロイの肉体、ただその一点のみに興味が向いているらしい。ロイはさらに問い詰める。


「祭壇のような場所であれほどまでの人間を殺した理由は何だ」

「あれらはただの供儀だ。それらの魂をジンに喰らわせるためのな」


 犠牲者たちは人間ではないとでも言わんばかり。暴君には他者への共感が欠落しているようだ。


「ジンとはなんだ」


 ジンというのはアラブ世界の魔神をモチーフにしたクリーチャーであるが、ロイが知る由もない。

 ロイは文脈から、ジンとは邪神か、そうでなければ悪霊のようなものだろうと推測した。

 メローヌは質問には答えず


「赤の神の神体と魂は永遠の生命を齎すというではないか。貴様が赤い神の眷属だというなら、貴様の身も同じ効果を齎すのだろう」

「それは迷信だ」


 遮るようにロイは断定する。

 神を喰らったとしても永遠の命は得られないとの答えを、当の赤井から得ているのだ。

 メローヌに赤井の神体をどうこう言われることすら、敬愛してやまない存在を穢されたように感じ、気分が悪かった。


「一事が万事、この目で確かめるまでは何も信じられぬのでな」


 メローヌが言い終えぬうちに、ロイの背中に冷感がはしった。

 マスク・メローヌのその一言を受け、背後に潜んでいた兵士に襲われ青黒い液体がロイに浴びせかけられたのだ。ロイは猛烈な脱力感に襲われ膝をつく。


「くっ」


 毒薬かもしれないと認識するより早く、全身が弛緩しはじめていた。メローヌの嘲笑が聞こえる。組成の分からないその液体は服に染み込み、べったりと背に張り付いてゆく。こうなっては取り除くのは容易ではないが、そうであれば終わりだ。


「神封じの秘薬は眷属にも覿面に効くようだな」


 メローヌは得意げに頷いた。


「……何だと」


 ロイが赤の神の眷属なのか否かをメローヌが執拗に確認していたのは、そのためだったのだと気づく。言われるまでロイは思い出しもしなかった。不死身の赤井にも決定的な弱点があるということを。グランダに伝わり、神を一年間にもわたって拘束せしめた神封じの呪具の一種……類似のものがここカラバシュにも存在したのだ。

 マスク・メローヌが少ない共を連れロイの前に立ったのは、切り札ありきだったのだ。


「くっ……そ」


 液体を浴びせられたものの、痛みや痺れがあるわけでもない、ただ不自然なまでに力が入らない。

 創造の光板は抜かりなく待機させている。

 奪われたのは肉体の筋力だけだが、気力も削がれ、何も打つ手がないかのように錯覚される。


「どうした神の眷属とやら。先ほどまでの勢いは」


 ロイが呪いに組み伏せられたことを知り、嗜虐的な声色でメローヌが嘲弄する。


「喰らってやろうか。そうだな、どこからがいい?」


 そのままの意味で、皇帝はロイを喰らう腹積もりのようだ。

 人肉を喰らおうなど、人間にできる発想ではない。


“こいつは……”


 やはり人間の皮をかぶった人ならざる捕食者なのだ、とロイは竦んだ。

 しかしいかにメローヌが挑発を重ねようとも、無防備に見えようとも、簡単にロイに触れることはできない。

 彼を包む神の物理結界が、力強く守り抜くからだ。


"落ち着け、結界があれば時間は稼げるはずだ。自暴自棄になるな"


 ロイは冷静さを取り戻し、次の一手を探り始める。

 どんな絶望的な状況におかれても、彼はパニックになるということがなかった。


「喰らう前に、訊いておかねばならぬ。赤の神はどこにいる」

「誰が言うものか」


 絞り出すような声で、這いつくばったまま呻く。

 赤井がこの男に敗北を喫するとも到底思えないが、赤井らの居場所を知られるわけにはいかない。何があっても、彼らを売ることはできない。


「そうか。では言いたくなるようにしてやろう」


 メローヌ帝はろくでもない事を思いついたらしく、側近を呼び寄せた。

 短く命じれば、ほどなくロイの伏した床を含む石畳が広範囲にわたり深く墜ち窪み、大広場は陥没した円形闘技場へと様変わりをしてゆく。 

 窪みの内部は足場のない円形構造であり、人間が這い上がるのは絶望的な深さだった。


『こりゃ、どうすりゃいいんだ』


 ロイが絶体絶命の危機を迎えていたその頃。

 広場を見渡す城壁の上に、視聴覚廓清ステルスモードの二体のアカウントがいた。

 黒いツナギを着たバグ処理専門アカウント、通称「焼人」、強羅大文字焼▲と信楽焼▲▲▲である。

 ロイの警護と監視を任されていた彼らは、ロイがとうとうマスク・メローヌと一戦交えてしまった事態に際し戸惑いを見せていた。そろそろ区画時間が止まる頃だと踏んで気を抜いていたのに、ストップシーケンスが開始されないと思っていたらこの有様だ。


 二体の焼人は空中で頬杖をつき首を傾げながら、


『おっぱじめやがった……マジかよまだ区画上時間止めねーのかよリアル側は。主神が使徒と共に百年後に戦う予定の相手だぞ、分かってんのか。単独でやらせんのかよ』


 強羅大文字焼はそわそわしつつ、現実世界側から何か指示がないかインフォメーションボードを睨んでいる。彼ら焼人は27管区の専属アカウントでも構築士でもないため、どこまで介入してよいのか判断しかねるのだ。

 できれば管区の運営には手出しをしたくない、がこのまま見過ごすにも抵抗がある。


『時間は止めないみたいねぇ、危なくなったら助けていいのかしら? いけないわよねえ、指示が出ていないんだもの。どうすんのよ』


 信楽焼は外部と連絡をとるべきかどうか悩んでいる。コールボタンに指先が伸びていた。


『というか、ロイは動けないみたいだぜ』

『もーやだぁ……』


 ロイの護衛を任されていた手前、信楽焼がロイに手を貸そうかと思わず闘技場の脇に降り立ったそのとき。

 分厚い黒雲が渦巻き、広場の上に集中豪雨が降り始めた。


『あら、こんなときに雨?』


 雨に打たれたロイはよろめきながら立ち上がり、ずぶぬれとなって肩で息をしている。

 その瞳にはまだ闘志の炎が宿り、諦めてはいないようだ。信楽焼はやることをなくした右手をぴたりと頬にあて、きょとんとして首を傾げた。


『今の、あんたがやったのよね?』


 信楽焼が空中で唖然としている強羅大文字焼に疑いの眼差しを向けた。濡れ衣を着せられた強羅大文字焼は慌てて首を振る。


『え、俺じゃねえよ。何だ、ロイのやつ動けたのか』

『この雨が偶然じゃないとしたら、神通力で雨雲を呼び、毒薬を雨で洗い流して動けるようになったのかしら』


 信楽焼が安堵したついでに、やるじゃないのと感心すると、根性あるなぁあいつ、と強羅大文字焼も気の抜けた声を出した。

 液体を取り除くには、大量の水を調達しなければならないのだが、降雨は一気にそれを解消する妙案だった。


「はあっ……はあっ……」


 信楽焼と強羅大文字焼がすぐ傍で見守る中、豪雨にうたれたロイは、毒薬のしみこんだ上着をかなぐり捨て身構えていた。

 徐々に徐々に、全身の脱力が解けて感覚が戻ってくる。

 少しでも回復の時間を稼ぎたい。

 しかし彼が息つく間もなく、金属の軋む音がどこからともなく鳴り響きはじめた。

 闘技場の壁面に填め込まれていた鋼鉄の門が、ゆっくりとその咢を開こうとしていたのだ。

 門を隔てた暗闇の奥から、赤黒い鱗のびっしり生えた、大型の四足歩行の猛獣が姿を見せる。

 それらはしわがれた咆哮をあげ、体躯を門に打ち付けて興奮し、ロイを獲物と認識し門が開くのを今かと待っている。


「……くっそ!」


 食われるか、嬲られるか。

 抗わなければ、命はない。


「そやつら、ザラムは地下洞に住まう邪悪な獣だ。もともと執拗な性質だが今は少しばかり空腹でな、狙いを定めたら死ぬまで追うぞ。さて、どうする」


 メローヌの声が闘技場に反響した。

 降伏するなら今だというのだろうが、ロイは応じなかった。鉄格子門が完全に上がり、ザラムと呼ばれた六頭の猛獣が闘技場に解き放たれる。張り詰めた空気の中、ロイはそれらを迎撃すべく右手を軽く握り込み、呼吸を整える。


 ロイはこれまで赤井やモンジャの仲間たちと共にいたので思い知る機会がなかった。

 たった一人で敵と対峙することが、孤立無援であることが、これほど恐怖を伴うのだとは。それでも、赤井と交わした約束を守る為に生還しなくてはならないのだ。


”俺は、こんなところで死ねない。生きて帰るんだ”


 帰りたかった。

 彼が自ら飛びだした、懐かしいあの場所に――。


「きたれ」


 眼前に待機させていた創造の光板に、麻酔薬の構築を命じる。

 しかし、予想だにしない事態に見舞われた。


”物質構築禁止結界内です”

 

 化学式の入力が弾かれ、エラーメッセージが出現。

 ロイが目にした初めてのエラーメッセージだった。


「は!?」


 よく視れば闘技場の石畳全体には幾何学的紋様が刻み込まれており、光板はその紋様の輪郭をトレースして浮かび上がらせていた。

 その紋様が効力を発しているのだろう。


「くっ……そんなことが」


 ならばと神雷を呼び獣に命中させようとするが、地上に落雷する前に電流は威力を失い、あえなく消滅してしまう。

 二度、三度と失敗が続く。

 ザラムを追い払うべく神炎を呼ぼうとしたが、炎はすぐに立ち消え上手くいかない。

 極限の緊張の中、焦りばかりが募る。


”神雷も神炎も無効化されているのか”


 この場では赤井神の神業への防御策が予め徹底的に講じられている、そうとしか思えなかった。

 ロイは思考を切り替えて身構えると、最初に襲い掛かってきた二頭を同時に、後から飛び出してきた獣たちも物理結界で力任せに弾き飛ばした。

 しかしロイが扱う物理結界は防御には長けているが赤井の扱うそれほどには強力ではなく、重量があり固い鱗に覆われた獣を粉砕してしまうだけの威力もなかった。

 したがって物理結界は長時間維持することはできず、勝負はロイの体力が尽きた時に決まる。


”出来ないことより、出来ることを考えろ……どうすればいい。物質創造も神雷も神炎も使えないとなると。あとはなんだ”


 それはほぼ手がかりゼロの状態から、目の前の獣の習性を理解することだ。

 ロイは獣の形態を観察しはじめた。動植物の形態と習性は棲息する環境に最適化されているのだという、赤井の言葉を思い出しながら。確かに草原に生きるエドは脚が速く、大型で、筋肉が発達している。岩地に棲むブリルは皮膚が硬く足裏が丈夫だ、寒冷地に特化したシツジは長い毛に覆われている。


 ロイは形態の観察と先ほど漏らした兵士の一言と赤井の教えから、これらの猛獣の眼があまり見えていないのではないかと踏んだ。


“地下洞に棲息しているって言ったしな”


 そういえば目が異様に小さく、退化しているようにも見える。

さらにそれと思わせたのは、ロイが物理結界を張ったことによって一時的にロイを見失っているらしく、鼻をひくつかせているからだ。

物理結界は術者の周囲に真空を造りだすため、音もにおいも遮断されているのだ。つまり


”視力で識別しているのではなく、俺のにおいと物音を感知して襲ってきているのか”


 ならば……と、ロイは剥落した石床の一部の欠片を拾い上げ、わざと大きな音が出るように遠くに投げ床に打ちつけた。破砕音と同時に、数頭が一斉に物音のした方へ向けて走り出す。あたかもそこに獲物がいるかのように物音に対して過敏な反応を見せたことから、ロイはこの獣に視力がない、最低でも弱視であるという事実を見逃さなかった。


 迷いの中で、再び雷を呼ぶ。

 間断なく続けざまに、賑やかしく、紫雷を天空に迸らせる。

 雲間に光の大樹が出現する。

 落雷させ獣に命中させるのではなく、雷の爆音を利用する。雷鳴音で獣の動きを撹乱して足音を消し、物理結界でにおいを遮断すれば、これらの獣は完全にロイの居場所を見失う筈だ。


 予想は見事に的中。

 獣たちはロイを見失ったかのように、てんであべこべの方向に徘徊をはじめた。そのうちの二頭の獣が、闘技場の脇に吸い寄せられてゆく。執拗に、ある場所を嗅ぎまわっていた。


”二頭が、同時に?”


 彼は獣が吸い寄せられた座標に目を凝らす。肉眼でその場所を見ると何も見えないが、創造の光板で透かして見ると風景がぼやけて見えることに気付いた。


 それこそがまさに、光学迷彩だったのだ。


”見えない、でも何かがある! あの場所に”


 ほんの微かな兆しにすぎなかった。だがその可能性に全てを賭け、ロイは駆け出した。


「うぉおっ!」


 彼は物理結界を纏った拳でザラムの頭部を殴って気絶させ、次にその拳を開きおもむろに手を伸ばす。かの座標にいたのは、ステルス状態で無防備に立ち尽くしていた信楽焼である。彼女はがっしりとロイに手首を掴まれた。


 信楽焼とロイの目が合った。


『ひっ!?』


 思わず彼女の口から悲鳴が漏れてしまった。

 その声を聞いたロイは、姿は見えないながら声の主が信楽焼であることを聞き分け、安心したのだろう、ふと表情を緩めた。


「あなたでしたか。お力をお借りします」


 信楽焼の蓄えていたアトモスフィアがごっそりと奪われてゆく。

 幸いにして、デバッグアカウントである焼人のアトモスフィアはとりわけ大容量であった。


『ちょ、なにするのよっ!』


 信楽焼は驚いてロイの手を振りほどいたが、既に遅かった。

 ロイは信楽焼のアトモスフィアからチャージを完了し、全身に気力と体力が充実するのを実感していた。今なら何でもやれる気がした。おおっぴらにはできないにしろ、信楽焼が見守ってくれていると知り、気が大きくなったのかもしれない。


「よし……いいぞ」


 ロイは巨大獣に向き直り、その背を数ステップで駆け上ると、最後に強く蹴りつけて踏み台にし、驚いて身をよじるその背から大きく跳躍をうって、闘技場の高壁の端に指先を掛けた。

 そのまま腕力で壁上へと這い上がり、闘技場から脱出したのだ。

 創造の光板に、構築可能エリアであるとの表示が戻っている。もう、同じ失敗は繰り返さない。


”ほかのことは後だ。先にメローヌを無力化する”


 特大の爆音とともに、渾身の力を込めて放った神雷がメローヌを射る。完全に油断をしていたメローヌは反撃もする間もなく、大雷撃が直撃し乾いた音を立てた。

 やったか。そう思ったのもつかの間、メローヌが倒れることはなかった。


「愚か者めが。多勢に無勢、おまけに丸腰で何ができる」


 余裕をにじませた声で、メローヌは兵を差し向ける。


「取り押さえろ」


 ロイ一人に向け、その場にいた百を超える武装した兵士たちが地響きを立て全力疾走してくる。

 メローヌに恐怖で支配された彼ら相手に、ロイ一人で対処できる数ではない、数の暴力により捻り潰されてしまう。ロイは鋭く、決然と一言を発した。


「きたれ!」


 ロイは、創造の光板での構築によって空中から半物質の棒……、彼にとっては長杖を造りだし実体化させ、感触を確かめるようにぐっと握りしめる。

 アトモスフィアを預かったからには、その手に呼ぶものが武器であってはならなかった。

 はからずも、彼はそうあることを求めたのだろうか。杖の形状は赤井の手にしていたそれに、非常によく似ていた。


 彼は腰に結わえつけていた袋から、グランダで用いられているなけなしの痺れ薬を取り出し惜しまず全てを杖先に塗り、襲いかかってくる兵士の胴を、手前から順にくるりとターンしながら一心不乱に薙いでいった。

 半物質の杖は兵士の肉体を無傷のまま貫通し、体内に痺れ薬の成分をぶち込んでゆく。

 痺れて倒れ累々と重なる兵士たちで辺りに人垣を作り、壁とする。

 ロイの周囲に高らかに築かれた人の壁で後ろは渋滞を起こし、大軍もロイに接近することができない。

 

 そうやって僅かな時間を稼ぎながら、ロイは半物質で彼の周囲に無数の礫を造りだした。

 個々の礫の背後に、圧縮空気をセットしてゆく。

 創造の光板の情報では、数百を超える礫を連続的に構築したことで凄まじい勢いでアトモスフィアを消耗してゆくが、焼人から奪ったアトモスフィアはまだ消耗を補って余りある。


 準備は整った。


「貫通しろ!」


 自らを守り固めていた絶対防壁であるとともに、攻撃においては完全に障害となる物理結界を解除。続けて、創造の光板で圧縮空気を解放。半物質の礫は弾丸となってロイに襲いかかろうとしていたほぼすべての兵士たちの身体を瞬時に、放射状に貫通し射尽くした。むろん、半物質の弾丸は彼らの命を奪わない。


 実質的には、散弾銃そのものだった。

 彼は、カラバシュに入り銃というものを目にしてより、圧縮空気で投射物を加速しただ飛ばすというだけの単純な機構が思いもよらぬ威力を発揮し、同時に数の不利をカバーするものだと気づいた。さらに半物質の弾丸との組み合わせにより、対人としてはほぼ完全ともいえる非殺傷兵器が完成したのだ。


 勝負は発射した時点で決まっていた。どんな盾も半物質の貫通を防ぐことはできない。場の時を止めたかのような鮮やな決着。哀れな平兵士たちは、何が起こったのか知る由もなく、貫通した弾痕から体内に否応なく注ぎ込まれた麻痺薬によって武器を取り落して空をかき、うめき声をあげその場に崩れ落ちる。自由を奪われた一人一人をつぶさに見下ろした後、ロイは残った一人に向き直った。


 場に立っているのは暴君、マスク・メローヌただひとりだけだ。


 ロイは半物質の杖を右手に持ちかえ、左手に物理結界の盾を持ち、メローヌにゆっくりと歩み寄ってゆく。歩みを進めながら、ロイは考えた。


”赤井様なら、この男をどうやって救うのだろう”


 焼人のアトモスフィアというエネルギー源を得た今なら、暴力で屈服させ恐怖で従わせることはできるかもしれない。

王座から追放し懲罰を与えることもできる。だが、それでは意味がないのだ。彼は、赤井ならそうはしないだろう。神は信じていた。

悪人はいないのだと。


「人間業ではないな……さすが、神の眷属だ」


 驚くでもなく、ただ脱力して立ち、腕組みをしたままのメローヌはロイの手並みを見て、至極満足そうだった。

まだ言うか、とロイは目の前の男に哀れみの眼差しをむける。


「マスク・メローヌ。お前の目的が見えない。お前は何がしたいんだ」


 差し向かいとなった今、率直に問いかけた。

 それはメローヌにとって意外な言葉だったのだろうか、呆然とした表情で口を僅かに開いた。


「不老不死のすべを得たとして、あと数十年、数百年を生きて、お前は一体何がしたいんだ」


 何のために、彼は生きながらえようとしているのか。――ロイは子供だった頃、漠然と死を恐れていた。死は自らが虚無となる現象であり、自らの生きた歴史が、そして自我が失われてしまう、確かにそれは恐怖だった。だが、彼は成長して、多くの事を学んだ中で死に対する意識は変わった。神と自然の摂理に反し、無目的に永遠を生きたいかというとそうではなかった。


 生きるということは、「死なない」ということではなかったのだ。


 人はどこからきて、死の先にはどこへゆくのか。

 世界の真の姿はどうあって、赤い神の完成させる世界はどうなるのか。

 ただ、それを知らずに死んでゆくことが無念だった。


 赤い神とともに永遠を生きると知った今、気の遠くなるほどの時間の先に、ロイには果たすべき目的がある。

 完成するであろう世界をあますところなく見わたして、真理を知ることだ。

 そして、この時代に生きた「はじまりの人々」の願いを胸に、終わりのときを見届けることだ。だからロイは、この先どんな障害や困難が待ち受けていたとしても、身近な人々との出会いと死別を繰り返しても、この時代を生きる人々とのつながりが薄れていっても、赤い神と共に乗り越えてゆけると信じている。


 メローヌは何をよりどころにして、どんな信念あって永遠を生きようとしているのだろうか……純粋に、ロイは知りたかった。


「それは、永遠の帝王であるためにだ。そうでなければならぬ」


 メローヌの答えは非常に無味乾燥として、つまらないものだった。王という地位に固執する理由も理解できなかった。


「そうあろうとするのは、国のためにか、我欲のためにか。どちらだ」

「愚問だ。王があって国と民があるのだ。王にはそれだけの権力が与えられている。王はただ人ではないのだからな。その権力を、永遠のものとせねばならぬ」


 だから、特別な存在である王の為にならば民がどれほど苦しみを押し付けられても構わないという考え方のようだ。ましてや、彼は異民族を人間とも思わず、増えようが減ろうが、死のうが生きようが意に介さない。

 民に信頼されて認められていなければ、それは王ではなく、王の地位は国民の総意に基づくものだと、モンジャ出身のロイは当然のようにそう思う。また、身を挺してグランダを救おうとしていたキララも、ネストにかけられた呪いと満身創痍になりながら戦い続けたネスト王パウルも、ロイと同じ考えだろう。だから、純粋に我欲、自己顕示欲のために永遠の王位に固執するメローヌは、これまで赤い神の大陸にはいなかった、まったく新しい人種といえた。


「権力は王のものではなく、民の為にこそ用いる力だ。王は民の幸福のために心をくだき、民の声をきく、もっとも謙虚な国民の代表でなければならない」


 ロイは冷ややかな怒りが込み上げてくるのを感じながら、一言一言、噛みしめるように、この暴君と呼ばれる男に諭して聞かせた。感情的にならず、つとめて冷静に。どこかでこの男の良心を呼び起こし、理解してもらえることを望みながら。

 その心を忘れ邪悪な力をたのんだ王は、王位を退き、相応しき者に治世を委ねるか追放されてしかるべきだ。ロイは言い切った。


「ジンに選ばれし帝王が愚民の声を聴くなど、ばかげたことだ」


 メローヌの心にロイの言葉は響かなかったらしい。どうやら、マスク・メローヌがこれほど強気に出ているのは、ジンの力を後ろ盾にしているからのようだ。


「そうか。お前は選ばれし王ではない、取り憑かれているだけだ」


 ロイはたった一つだけ、目の前の男を救う方法を思いついた。それは彼のよりどころであるジンの力を取り上げ、メローヌをただ人に戻し、改めていち個人としての王の資質を問うということだ。立場が変われば、考えも変わるだろう。ただ気になるのは、メローヌの患っていたという不治の病――。

 瀕死の状態であるところを、ジンの力によって命長らえているというのなら……彼を人間に戻すということは結果的に殺害してしまうことを意味する。それは避けなければならない、赤井と交わした約束を守るためだ。

 とはいえロイはメグと違って疾病に明るくないし、創造の光板も病状まで解析する機能はなさそうだった。


 どうすべきだ。ロイの中に迷いが生じたとき、彼の右のこめかみに人の指のような弾力のあるものが触れた。払いのけようとする前に、指の先から声が聞こえた。妙な表現だが、そうとしかいいようがなかった。


【黙って聞きなさいな。メローヌの不治の病のことなら心配、いらないわよ】

 

 指の持ち主が信楽焼だというのは即座に分かった。だがその声は念話ではなく、音声でもない。ロイが見えない指に触れられた部分から、音が聞こえるのだ。

 何故、どうやって、と無言のまま固唾をのんでいると。


【骨伝導で、お前の体内に音を響かせているのよ。念話を使うのは、不都合だから】


 ロイはメローヌに気取られぬよう、僅かに頷いた。音は空気を伝う振動によって生じるのだということは、赤井に聞いて知っている。ならばその振動は体内を伝うものであっても良く、それでも音は聞こえるというわけか、とロイは素早く理解する。信楽焼は指先に振動を伝えて骨伝導を起こしているのだろう。


 声に出して応答してはならないというのは、信楽焼には信楽焼の事情があるということだろうか。大っぴらに助けることはできずとも手を貸してくれるといった意味合いならば、彼女の言葉に従い助力を仰ぐのが得策だとロイは考えた。


【お前の考えているようにメローヌからジンを引きはがしても、すぐに命がどうこうなる病ではないわ。だからメローヌのことは気にせず、死に物狂いで戦いなさい。でないと】


 でないとどうなるのか、と神経をとがらせる。

 信楽焼は一切の油断を捨てろとの警告を発した。


【死ぬわよ。脅しではなくて。完全に手合い違いなの】


 血の凍るような一言。


【来るわ、よ?】


 メローヌが右手を振りかざすと、メローヌに重なっていた影が崩れて砂煙となり舞い上がり、不定形の煙は黒影を映じてゆく。ロイはその姿に釘づけになった。


 メローヌ帝の片腕から放たれた赤黒い膚のクリーチャー、ジンというのは火炎魔神だ。その正体は闘う気力が削がれるほどの、想像を絶するサイズの人型の怪物だった。筋骨隆々としたその怪物は悠然と、光のない黒く鋭い双眸でロイを捉えていた。ロイはそれを見るなり、創造の光板で目の前の魔神に解析をかけながら、人気のない広い城内の庭園へ向け猛然と駆け出した。怖気づいて逃走を図ったのか、メローヌにはそう見えただろうが……


”ここでやったら、兵士たちが巻き添えをくう”


 メローヌは兵士のことなど意に介さないのだろうが、ロイは半物質の散弾に射抜かれ、自由を奪われた兵士たちが避難もままならないことを念頭に置いていた。

 灼熱の息吹の第一波が浴びせかけられる。

 筋肉は硬くこわばり、死を覚悟し今にも動きを止めそうになっていた。

 ロイは萎える気力を奮い立たせてジンの攻撃の方向を読み、横っ飛びにして辛くも回避。息吹の直撃した庭園の並木は紙屑のように燃え上がり、炎の海と化す。わずかに数度、息を吹きかけただけで庭園に植えられていた植物という植物、可燃物が焼き尽くされてゆく。付近一帯の酸素消費は著しく、熱された煙が肺に飛び込んでくる。火炎での攻撃を巧みにすり抜ける彼をめがけ、ジンの掌手が容赦なく振りおろされ、ロイを叩き潰そうとする。ジンの拳は庭園の石畳を抉り、地盤ごと波打たせ、足場を崩してゆく。


 回避するたび、次は死ぬだろうかと生きた心地がしない。

 信楽焼の忠告が、死と隣り合わせにある瞬間瞬間を生き抜いているという現実が、身に迫っていた。

 一見、防戦一方の展開ではあるが、それでも回避の合間にロイは反撃の糸口をさぐる。創造の光板でジンを透かし見ると、コアと思われる熱反応が後頭部に存在する。頭部が弱点とみるや、実体で礫、実質的には砲弾ともいえるそれを構築し、ジンに向け放った。


”たのむ! いってくれ!”


 しかし、異様な巨躯そして頑強なジンの頭部にロイの攻撃は届かなかった。全弾命中するも赤黒い皮膚にかすり傷もつかず、攻撃は止められる。


 圧縮空気での加速にも、その威力には限度があるのだ。

 ……かといって並大抵の方法では貫通しないだろう。ましてや腕力での攻撃は無意味にも等しい。


「だめか!」


 かくなるうえは。

 元素番号74(タングステン)を主軸に、彼が考え付くありったけの超硬合金の構築を創造の光板に入力した。それを、ただその場で構築するだけではなく


”高度60万シンにて合成開始”


 ロイの思念入力を受け、創造の光板の構築シーケンスが力強く反応した。


”構築後は、指定の対象へ誘導”


 物質構築を行う座標は、合成の始点と終点を正確に指定できる。その性質を活用し一点突破を試みる。合成完了までの一秒一秒が、たまらなく長く体感された。


”早く……まだか!”


 体力の消耗により動きの鈍ってきたロイにジンの拳が脇腹を掠め、彼は燃え盛る木の幹に背中からしたたかに叩き付けられた。邪悪なアトモスフィアを孕んだ火炎が服に燃えうつり、激痛を齎す。そんなとき、待ちに待った構築完了の表示が出現。


「さあ、こいっ――!」


 ロイは炎に煽られながら、天に高々と手を突き上げ絶叫した。


 彼の願いにこたえるように、大空の彼方から輝く光芒が、遥か高度千キロメートルもの高さからジンをめがけて降ってきた。

 彼が構築したのは、タングステンを主原料とし超硬度を持つ数トンの棒状の合金であった。しかしそれは構築後、落下速度にして時速1万キロにも達する質量兵器と化す。それを目にしたものは、大気を割れんばかりに震わせ、空気との摩擦によって生じた幾層もの炎の層に包まれ、長い長い光の尾を引き巨大な隕石が降り注いできたかのようだった。


 ロイは持てるアトモスフィアの全てを費やし、ジンを取り囲むように円筒形に物理結界を展開しその瞬間に備える。カラバシュという浮島の地底を衝撃でぶち抜いてしまわないように、底面を結界で裏打ちすることも忘れなかった。流星が地上に到達する直前、ジンを包囲した結界内部は激しい閃光と爆音に包まれた。爆発的に上昇する内圧に耐え、ロイは結界中に衝撃波を閉じ込め被害を防ぎきった。

よって結界内に閉じ込められたジンに向け超高密度で、核弾頭にも匹敵するほどのエネルギーが圧縮され集中的に浴びせられた。ロイの防壁がなければ大爆発に巻き込まれ、カラバシュという島は熱と衝撃波であとかたもなく沈没してしまっただろう。

 辺りに静寂が戻りロイが力尽きるように結界を解いたとき、エネルギーコアごとジンは粉砕されてもはやその姿はどこにもなかった。


『神の杖……じゃねーか』


 上空からその一部始終を目撃していた強羅大文字焼が、一言呟いたきり圧倒されていた。

 それは、米国が半世紀前に衛星軌道上に配備し、全地球を網羅した落下運動エネルギー兵器、「神の杖」を彷彿とさせる攻撃、まさにそのものだったからだ。

 ジンと撃ちあうには決定的に劣る膂力と実力差を、ロイは変則的な構築方法で簡単に補ってしまったのだ。


 たかだかA.I.が、仮想世界アガルタには存在しない宇宙そらの高み、その空間の拡がりを想定したこのような発想を繰り出すことができるものなのか……と強羅大文字焼は戦慄した。

 それは目を見開いたまま無言を貫く信楽焼も同様だった。

 そして彼ら焼人は漠然とした思いに至る。

 このような発想を打つA.I.を、果たして現実世界に出してよいものか。

 現実世界で軍事システムを掌握し同じことをされたなら、人類はひとたまりもないではないか――と。


 かくしてモンジャの青年、ロイ・フォレスタ。

 またの名を高度学習型A.I. R.O.Iは、およそ百年後の主神との対戦を想定した第五区画のクリーチャーを1時間24分という記録的スピードで撃破し、マスク・メローヌへのジンの憑依を解いた。


 ロイの選択した戦術とレコードは、彼を見守っていた27管区スタッフらを震撼させたのだった。

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