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第7章 第9話 Emortional mixing◆

 転移で降りてきたロベリアによって救出され、湖底から水上へと連れ戻された頃には、メグの意識はだんだんと冴えてきていた。無事を喜ぶモンジャの素民たちに嬉しそうにこたえたメグは、ようやく恐怖から解放されたのだった。

 赤井は素民たちから距離を置き、ロベリアに手伝ってもらって湖水で背中の粘液を洗い流している。メグはどことなく肩を落としたように見える赤井の後ろ姿を、何となく放っておけなくて見守っていた。


”何で、ロベリアさまはあの人を怒ってたんだろう……? 私を助けてくれたのに”


 彼は先ほど、ロベリアにきつく叱られていた。普段温厚な女天使ロベリアが、泣きそうな顔で叱っていた。あんなにきつく言うのはよほど彼を思ってのことだろうと、メグは思う。

 彼の背中一面についている赤くてきらきら光る幾何学的な模様が、メグの目に鮮やかに映る。何だろう、きれいだなと見とれる。ロベリアと同じく、彼も人ではないのかもしれないと思ったが、面と向かって問いただす勇気はなかった。


 初対面であるにもかかわらず、あなたに会いたかったと、あんなに悲しそうな顔をしていたのは一体どうしてなんだろう。そんな疑問に胸の内がざわめく。気が付けば、声をかけてしまっていた。


「アカイ、さん」


 一方、この世界に来てこのかた、赤井がメグからそう呼ばれたのは初めてだ。そっと、背筋に冷たい金属でも当てられたように彼は肩をこわばらせた。本名でないにも関わらず、彼女がつけた”あかいかみさま”という愛称は、すっかり彼の身体に馴染んでいたのだと彼は実感させられる。動揺を気取られぬよう一度視線を伏せ、彼はぎこちなくなってしまった笑顔で応じる。


 最初からだ。

 また、はじめから彼女に向かい合うだけだ。赤井と共に過ごした記憶……十年分の記憶を失ったことが必ずしもメグにとってマイナスに働くのではない。メグの心が癒えた今、もう、赤井は彼女にとってこの世界での役割を終えつつあったのだ。


”ある意味、いい機会だったのかもしれない”


 彼は自らにそう言い聞かせる。記憶が消えても、彼女の心に自らの存在がなくても……。


”私がいなくても、もう大丈夫だ”


『はい。メグさん』

「助けていただいて本当にありがとうございます。そのお怪我、もしかして私が助けていただいたときに」


 メグは彼の爛れた皮膚を癒せそうな薬の持ち合わせがないことを悪びれた。


『ああ、なんのこれしき。平気ですよ、そのうち治るでしょう』


 どこから出したかまっさらの白衣に袖を通し、赤井は帯をきつく締める。それでもと気遣うメグにカラ元気で応じて、場違いだったかと思い直したらしく、取り繕うように微笑んだ。


『それより、もう息は苦しくないですか? 体におかしなところは?』

「私はもう苦しくないです。でもあなたの方こそ、平気ではないと思います。手当をせずそのままにしておいたら、もしかすると命にかかわります」


 互いを気遣いあう二人。そのやり取りを聞いていたソミタが、メグの些細な異変に気付いたようだ。


「不死身のあかいかみさまが死ぬわけないじゃないか」

「かみさまって……どういう?」


 メグがきょとんとした顔で呟いた一言に、素民たちの注目が一斉に集まった。メグは類推から彼らの意図を理解しようと努めるが、記憶にないものは思い出せない。


「何、何を変な冗談言ってんだよメグ」

「冗談?」


 そうではないということは、彼女の表情から明らかだった。攫われたときに敵に薬を飲まされたのか。いやいやまだ混乱してるんだ、寝ぼけてるんじゃないか? うっかり忘れだろ、いやいやメグに限ってそれはない。などなど素民たちは様々な仮説を立てるが、どれもしっくりこない。


「ところで俺らの名前は分かるのか? おい、どうなんだよメグ」

「え、うん。皆の名前……」


 戸惑いながらもすらすらと一人一人素民の名前を挙げるメグに、素民たちは事の重大さに気付き絶句する。メグはモンジャ集落では始祖と呼ばれ赤い神と最初に出会った素民であり、赤い神と最も絆の深い民であり、頭脳明晰、記憶力も抜群だ。メグが赤井を忘れるなどありえる話ではない。


「ちょっと、何とか言ってやれよあかいかみさま!」


 当の赤井とロベリアは、素民たちから少し離れた場所で深刻そうに話し込んでいた。

 それがまた、表面上は無事に見えるメグに何かあったのではと素民たちを不安にさせる。


「皆……どうしてそんなことを言っているの」


 素民たちの謎の疎外感にメグは不安を募らせる。メグの疑問に答えるものはない。微妙な空気の中、キララがメグの両肩に手を置き、揺さぶる勢いで問いただした。


「アカイを知らない。それは本気で言っているのか?」

「はい、アカイさんとは先ほどお会いしたばかりです。あなたは知ってるんですか?」

『いいんです、メグさんと私は初対面ですよね』


 素民の輪の中に合流した赤井はキララの言葉を遮り、メグを安心させるように穏やかに頷いた。記憶にもないことを素民に問い詰められ一番不安に思っているのは彼女自身だ。


「あ、あかいかみさままで何てこと言っているんだ」

『メグさんが無事ならそれがなによりです。ね! 皆さん』


 言葉とは裏腹に、素民たちから見た彼はどことなく寂しげだ。そんな赤井をキララは睨み付けると、ずんずんと肩をいからせて歩み寄り赤井の白衣ごと胸倉を掴む。メグの耳には入らないよう、小声で囁いた。


「無事……だと? 悔しくはないのか! メグをこんなにされて、記憶を消されて! メグは戦い、抗うための力を持っていなかった。弱者であるメグが狙われ、心を虚ろにされ、抜け殻にされ踏みにじられたのだ……これが無事なわけはないだろう!」


 口にすれば沸々と込み上げてくる激情。

 それは赤井やメグらと交流を持つことによって、平凡な少女に戻りつつあった彼女が久しく忘れていた感覚であった。キララにとってメグは彼女が唯一、敬意を懐く同年代の女性だった。命尽きるのを待つばかりだったキララを生かそうとしたのはメグで、更にメグはモンジャの民であるにも関わらずグランダの民主化に貢献し、多くの助言をキララに与えてきた。キララがメグに感じている恩は計り知れない。恩人が傷ものにされ、腸が煮えくり返る思いだった。


 キララが激怒しているのは、赤井の存在を記憶から喪失したメグの心の痛みを知っているからだ。

 彼という神との絆は、メグにとって切り離せないものだった。メグが彼をどれだけ慕っていたかも知っている、だから……


「それで平気なのか! ええ!?」

『最深部を目指し、この神殿の主と決着をつけたいと思います』


 噛みつかんばかりのキララに、赤井は俯き加減に曖昧に答えただけだった。赤井の言葉は淡白でしらじらしく、冷めきっていた。キララは失望し、首を左右に振ると力なく手を放す。


「見損なったぞ…………何も感じないというのか? それが神の心なのか、あんなにお前を慕っていたメグを」


 この神は博愛主義者であり、だから誰も愛さない。悪意はないが、だからこそ残酷な二面性をはらんでいる。

 あらゆる意味で人間ではない、人でなしなのだ、とキララは思い知った。


 だが彼女は知らない、先ほどまでの赤井がどれほどの悲しみと憤りに滾っていたかを。ロベリアがすぐに気付いて強い言葉で諭さなければ理性が吹き飛び、記憶を失ったメグの前で邪神と化す寸前だったことを。ロベリアがとどめなければ……。


”悪を憎み、大切な人のために報復したいと思う。それは人として当たり前の感情です。ですがあなたは邪神になってしまいます。特にあなたには感情の制御がきいていませんから、その傾向も強いのです”


 ロベリアの忠告の正しさは、以前より少しくすんだようにも見える彼の赤い髪と瞳、そして膚の色によって裏付けられていた。憎悪と怒りに我を忘れ邪神となった主神は、全身黒く変化し力を失うという。赤井はそうなるわけにはいかなかった。邪神となってしまったらメグを救うことができなくなる。


 堕ちるわけにはいかない。


「……何とか言ったらどうだ」

『今、私の中にあなたと共有できる感情があるのだとしたら。上手く言えませんが……』


 メグの為だ。彼が最初に愛した素民、そして、かつての大切な恋人の為に。

 愛すればこそ、感情を殺さなければならない。


『それはおそらく、同じものだと思います』


 キララは言い返したい気持ちをこらえた。人と神、種族も違えばものの考え方も違う。彼は辛そうな表情を浮かべていた。何かを感じてはいるのか……と、キララは読み取る。それ以上詰め寄ることはできなかった。


『それで、攫われたときのことですが、何でもよいので覚えていますか?』


 ロベリアがおっとりとメグに語りかける。高圧的にならないように。急かさないように。


「ごめんなさい。何も思い出せません、さっき目が覚めるまで何も覚えていないんです』

『ええ、それでもいいの。自分を責めないで』


 悪びれるメグをロベリアは優しく肯定し、その一方で抱擁しながら看破をかけてゆく。赤井の存在しないメグの記憶を赤井に覗かせるのはしのびない。だからロベリアはその役目を引き受けた。ロベリアの看破によると、メグは先ほどの祭壇の上に拘束されて目隠しをされていた間、傍で見張りをしていた黄衣の王の眷属と会話を交わしていたようだ。


 タコヤキの人々を眷属化させ、あるいは生贄を求めるポンデリン湖の邪神。黄衣の王はその邪神と対立関係にあるようだ。黄衣の王は力を得るために指輪を持つものの魂を喰らうが、これまではその喰らった魂から得た力で湖の邪神を封じていたらしい。


 星辰の位置が正しい位置につき、湖の邪神が力を強め復活しそうになっている今、黄衣の王は更に邪神に対抗する力を欲し魂を喰らっているのだという。中でも女の魂を好む。そして禁書の中には、邪神殿の鍵に至る暗号はあってもその他の有益な情報はないのだということも明らかになった。


 その記憶をメグから引き出したとき、ロベリアは胸に引っかかった。黄衣の王の眷属がただの生贄である筈のメグに重要な情報を話すものだろうか。しかるに彼女の直感はこう告げる。


 その眷属こそが悪役構築士・水埜そのひとの化身した姿だったのではないか?

 悪役構築士は区画解放の間表舞台に出てきてはならないという内規があるのだが、メグは目隠しをされていた。

 それをいいことに水埜はメグに接近し、直接赤井にまつわる記憶を消しにきたのかもしれない。


 メグは黄の印と呼ばれる呪われた指輪を気にしている。そう、まだ指輪はメグの指にあった。引っ張ったり押し込んだり頑張っているのだが、何をしても外れない。自分の意志で捨てることができないその指輪は、彼女がまだ生贄であるという証であった。


「そうか、黄衣の王や邪神に関する手がかりは何もないのか」


 メンターイコ町の剣士アオノリが、素直に湖の邪神を斃すしかないのかと、ため息交じりに呟いた。


「邪神の眷属となってしまったタコヤキの民をもとに戻す方法は、一体どこにあるんやろ」


 ヘタレ剣士とはいえ故郷の人々を思う気持ちだけはいっぱしのようだ。メグは縮こまってしまった。


『あるいは……そんな方法はないのかもしれないですよ』


 意気消沈したアオノリを落胆させないように、と一度は言い澱み、ロベリアがメグの弁護をかねて告白した。

 赤井が驚きとともにロベリアに真意を問う。


『ない? 何故そう思うのですか』


 何かしらの救済策が用意されているだろうと期待するのは、エトワールの第一区画という前例と比較したからだ。


『禁書の中に皆をもとに戻す方法があるという噂は、禁書を開かせるための方便だったようです』


 より確信を以て突き付けられたロベリアの言葉の裏に隠された水埜の悪意に、赤井は絶句した。水埜は悪役構築士、第三区画の素民を犠牲にしてもよい。殺害したっていい。だが、素民を欺きいたずらに犠牲者を増やす、構築士が敢えてそんな事をするとは信じられなかった。既にタコヤキの民の半数ほどが邪神の眷属と化している状況だ。いくらなんでも犠牲者が多すぎる。


『どうして……そこまで』


 赤井は苦しげに唸る。正義の主神役の構築士が、数十年を仮想世界で悪役として過ごした構築士の心理を解するのは無茶だ。しかし、彼女は何十年もかけてこの区画を築き上げてきたのだ。それが仕事だから……悪役だから。水埜が今、赤井に全身全霊でぶつけた思いは個人と個人の思いのぶつかり合いであり、主神と悪役の立場の問題ではない。


 赤井が水埜のプライドを踏みにじっていた。

 素民を構築士同士のしがらみで犠牲にしないために、赤井が邪神の眷属と化した素民たちにできる精一杯のこと。

 不可能を可能にする、彼らを救うたったひとつの手立て。


『もう、あれしかないか……』


 彼が思い浮かべたのは、彼の背でただ沈黙している至宙儀だった。


「ちょちょちょ、ちょっと待っとくれや。湖の邪神や黄い奴を斃したって、タコヤキの皆はもとには戻らないって?」


 アオノリは顔面蒼白になっている。知り合いや友人が眷属化しているのだ、黙ってはいられない。


「邪神倒したって無駄ってことやろか」


 ここまでの苦労が徒労に終わるのかと、モンジャやグランダの素民たちにも悲壮感が漂い始める。


『無駄ではありません。これ以上犠牲者を増やさないためにも、二体の邪神は斃さねばならないでしょう』

「まあ、そうですけど……」


 やるせなさを滲ませたロベリアの言葉を嘲笑うかのように、どこからともなく地鳴りが聞こえ始めた。

 赤井と素民たちが足場にしていた浮島が端から崩れ、脆弱化しぼろぼろと沈んでゆく。


「うわ、島が崩れるぞ!」

『っ!?』


 赤井は上空に不吉な気配を感じ、模造の星空のようにも見える湖上の天井を見上げた。……星空の一点が、やけに明るいのだ。インフォメーションボードで模造の星空と実際の星座の位置を重ね合わせると、ぴったりと一致する。外の星空を映したプラネタリウムのようだが――。


『星が、生まれた?』


 その天球座標には、もともと星はないはずだった。赤井が最初に名づけた星座、コテ座の柄の部分。彼のお気に入りの星座だったのでよく覚えている。超新星爆発が起こったのだろうか。天文に詳しい赤井はその原因を推測する。よく見ると、出現した星は一か所だけではない。輝きを強めている星座がいくつかある。素民たちも赤井につられ、地鳴りに気を取られつつ空を見上げた。


「あっ、もしかして」


 星座と地鳴りの関連性に気付いたのはアオノリだ。


「星辰の位置が変わったとき、水中都市が浮上すると言われていますのや」


 この地下神殿に集った素民たちを巻き込んで、邪神による狂気の饗宴が始まろうとしていた。

 赤井は浮力の強い板を構築すると水面に浮かせ、泥船となった足場から素民を避難させる。その頃には湖上には青黒い霧が立ち込め、霧はやがて竜巻のように渦を巻いて人の姿をとりはじめた。


 邪悪なアトモスフィアの気配と共に黄の衣を着た、蒼白い仮面をつけた謎の人物。その正体も知れぬまま、無言で佇む。ローブに突き刺さった枯れ枝のような、どす黒い骨ばった指先をゆるゆるともたげる。

 その爪先で真っ直ぐに指し示したのは、メグだ。

 一度は逃がした生贄を、追いかけてきたというのだろう。白羽の矢を立てられたメグの心臓の鼓動が跳ね上がる。


 緩やかに湾曲した指先をくいと手前に折り曲げれば、指輪の呪いに引きずられメグの身体が宙を舞い引き寄せられようとする。が、それは断固として阻まれた。赤井が黄衣の王に有無をいわせぬ神速で圧縮させた衝撃波を浴びせ、黄衣の腕もろとも吹き飛ばし、メグを抱え込んだからだ。メグは悲鳴も出せぬまま、身を竦め赤井の腕の中でぎゅっと目を閉じた。

 赤井はメグを庇いつつ、強いまなざしで黄衣の王を睨み付け言い放つ。


『彼女は渡しませんよ!』


 二度と手放すものか。そんな決意の込められた、威圧感さえ伴う、腹の底からの芯の通った力強い声だ。その場にいたメグ以外の素民がぞくりと震える。右腕を吹き飛ばされた黄衣の王はく、く、くと首を回し傾げたが、ダメージは与えられていないようだ。

 それもそのはず、黄衣の王にはエネルギーコアがないのだから。赤井はメグと素民をロベリアに託す。


『ロベリアさん』

『承りました』


 ロベリアは彼の意志を斟酌して大きく一つ頷き、素民を守るため強固な結界と物理的防御壁を張ろうとした。

 しかし、結界をすり抜け出て、風のように疾走していった影がいる。


「貴様かあああーッ!」


 現れた怨敵を前に、キララは突進していた。体奥が熱くほてり、放たれた虹色のオーラが全身発火のように錯覚される。高度学習型A.I. スオウ ver 4.1は高い学習能力と他者の痛みを受け入れる豊かな感受性を有し、共感することによって底知れぬ力を発揮するのが特徴だ。


 赤井から骨髄移植を受ける前に、キララは神の細胞を得ることで神通力を使えるようになるかもしれないと聞いていたが、赤井がいる限り、神通力を欲することはもうないだろうと彼女は思っていた。

 だがどうだ、彼女の体の芯に根付き、神の細胞から産生される神通力が発火している。彼女がかつてスオウの巫女王であった頃の、人ならざるものと一体化した超越的な感覚が蘇える。赤井の神通力から供給されるアトモスフィアは純粋で、透き通っていた。体の隅々まで新たに生まれ変わったような、脈動する高揚感。


 彼女は強く床面を蹴り、人間離れした身のこなしで高く跳び上がる。

 圧縮した神通力の塊を足場に踏みつけ、赤井の頭上を超え黄衣の王のもとへとまっしぐらに。


『嘘……でしょ……?』


 素民を守る結界を張り終えたロベリアの声が裏返った。アスガルド大管区にいたロベリアはスオウという日本製A.I.の性能に詳しいわけではない。だが、黄衣の王への怒りが契機となり、何らかの刹那的な変化が起こったのは明白だった。


 キララは大気を踏み虚空を駆け上がると、幾重もの虹色の炎に包まれた拳を黄衣の王の仮面に深々と穿つ。

 彼女の感情はあまりにも未分化で、直情的だった。しかし痛いほどに真っすぐだった。


 炎の拳を起点に爆発の連鎖が起こる。神通力のオーバーロードが発生したその直後。少女の身に異変が起こった。

 耳の奥で、眼窩の裏で何かがはじけた音を、彼女は聞いた。

 それを契機として、空色の瞳に黄金色のリングが花開き、右手の甲には正方形のフレーム、それを貫き緩やかにカーブを描くSの文字、そして燕が組み合わされた刺青のようなホログラフが出現したのだ。


「うおおおっ!」


 渾身の一撃を受けた黄衣の王の仮面は破片も残さず砕かれ、仮面の下の素顔を暴かれた怪物は、穢れと狂気に満ちた咆哮をあげる。神通力に守られたキララでなければ、発狂は不可避だ。素民たちはロベリアの結界に守られたが、仮面を失った黄衣の王から更なる恐怖が、混沌が解き放たれた。


 箍の外れた黄衣の王は、四肢を不定形に分裂させ触手と化し、彼女に絡みつく。

 触手に固く締め上げられたキララの骨が軋み、悲鳴を上げる。


「……っ!」


 キララは歯を喰いしばるが、音をあげない。それどころか諦めず、神炎で触手を一本残らず焼き潰し溶かしてゆく。触手はキララを嘲弄するかのようにうねり、焼かれども焼かれども増殖を重ねる。やがて神通力は尽き、焼灼は追いつかず、キララの意識が触手の中に咥えこまれてゆく。キララの脳髄を冒涜するように、狂気の侵食が始まる。

 脳を犯される心地。彼女の肉体も心も丸裸にされてゆく。


 ――喰われ……る!

 全身あらゆる方向からの大圧力から、僅かでも逃れようと必死でもがいた。だがもがくほどに締め付けられてゆく。混濁する自我。妨げられる呼吸。窒息状態に入り、彼女の孔という孔から吹きだしてくるような原始の畏れ。

 血圧が下がってゆく。寒い。彼女の鼓動がやけに大きく聞こえる。


 嫌だ、負けるものか。負けるものか、負けるものか! 不屈の闘志を擁きつつも、限界は訪れる。

 そんなときに彼女の手首を力強く掴み、闇の中から引き出したのは……。


 切り払われた視界に、穢れなき赤、そして純白の色彩があった。


『キララさん』


 その手を強く握りかえした。彼女をいたわり気遣うように、力強い祝福を一度。注ぎかけられた癒しにこたえ、彼女の身体は息を吹き返す。ただ突進して足手まといになってしまった愚かさが情けなかった。彼はキララの身に起こった変化を目撃し驚愕の色を隠せない様子だったが、以前と変わらずキララを祝福する。

 もはや言葉はいらなかった。ただ、彼女は嬉しかった。


「ま、まだ私は戦える……」


 精一杯の強がりを見透かすかのように頭を撫でられ、穏やかな声がキララの耳朶を打つ。


『もう、終らせます。この命なき怪物は、人の手ではなく私が滅ぼさなければいけない』


 神と邪神。光と闇の、互いに命なきもの。天国と地獄、異次元の世界から齎された名状しがたき存在。

 その一対が、決着のときを迎えたのだ。


 キララが視線を戻すと、触手で全身を覆われた蜥蜴にも似た姿、黄衣の王の正体が暴かれていた。巨大化した体躯を思わず見上げるキララは、禍々しいアトモスフィアにあてられ激しい吐き気を催す。人間には耐えられない。

 赤井が待機させていたインフォメーションボード越しに邪神を見据えると、エネルギーコアは見えないものの、体液だまりが透けて見えている。青ざめた白い仮面を破壊したことにより、先ほどまでは見えなかった弱点が覆い隠せなくなっているようだ。赤井はそれを見逃さない。


『神様、彼女をこちらへ!』


 両手を差し伸べ下方から叫ぶロベリアに応じ、赤井はキララの身に片手をかざして力を注ぎ、綿毛の舞うようにゆっくりと浮かせてロベリアのもとへと託す。


 キララを逃がした直後、均衡は破られた。

 襲来する触手の物量に、同じ物量の光弾で応じる。綾に編まれた神雷の鎖に、邪悪は弾かれ千切られる。身を翻して杖を振りかぶり、黄衣の王の成れの果てを、触手の付け根から切断してゆく。神威で浄された断面はキララの闇雲の攻撃とは異なり再生を赦さない。極彩色の火花が散る、彼の光明が闇と狂気を退けてゆく。

 彼が杖で殴りつけ、蹴り落とせば邪神の巨体は吹き飛ばされ、湖を引き裂く。

 人と変わらない姿をした神が、異形の邪神と対等以上に戦い圧倒し、蹂躙してゆく。


「うわっ、何だこれ!」


 素民たちもぼっとしてはいられなかった。赤井の構築した浮島はいつの間にか翅を持ったイルカ大の怪魚に囲まれ、物理結界をすり抜けて牙をむき襲ってくるのだ。


『皆さん伏せて!』


 ロベリアはすっと腕を伸ばすと、その手のうちに銃弾を構築。素早く放射状に腕を振り、水から飛び出して来た怪魚の群れを即座に撃ち落す。それでもすり抜けて素民に襲い掛かってきた怪魚は、キララ、コハクをはじめ素民たちによって残らず切り捨てられてゆく。キララは怪魚をヒラキに、コハクはぶつ切りに、イヤンは殴り、ソミオとソミタは槍や銛の柄でホームランを打ち上げ飛距離を競い、メグはせっせと肉片を浮島から片づけた。奮闘むなしく、怪魚の群れは一向に減る気配もない。


「埒があかん、数が多すぎるぞ」


 ヌーベルが漏らした。一方、狩人兄弟はおいしくなさそうなものに興味はない。酸を含む怪魚の体液は、彼ら素民の刃物の切れ味を鈍らせる。


「くっそ――、刃がもたん!」

『作戦を変えましょう』


 ロベリアは結界を解き、強化炭素の物理防壁に切り替えた。怪魚の群れは勢いを緩めず、ゴウン、ゴウンと鈍い音を響かせ壁に体当たりを続ける。防壁が破られるのではないか、と素民たちは懸念する。数と重さの暴力を持つ怪魚の群れに外側から防壁ごと押し潰されそうだった。かくなるうえは素民全員を背に乗せ、フレスベルグに化身して上空に避難するべきか。ロベリアはそうも思ったが、上空で戦う赤井の戦闘に差し支える。赤井の攻撃で被弾する可能性もある。


 ロベリアが逡巡していると、素民たちの頭上でひときわ大きな炸裂音が鳴り響き、閃光が迸る。赤井が神通力を乗せた特大の光弾を操り、全方位から一斉に浴びせかけたのだ。神通力の残照とコロナが美しい。幾重にも連なる爆発の後、爆炎が流れたその場には、触手の殆どを奪われ黒焦げとなった怪物の姿があらわになった。

 赤井は直近の攻撃だけで40パーセントの神通力を消費している。使い過ぎだ、とロベリアは青ざめた。まだ、湖の邪神との戦いも残っている、ペース配分が間違っている。赤井は全力での短期決着を狙っているのだろうが、これが決定打とならなかった場合……!

 赤井は隙を見せた異形の喉に、有無を言わさず神杖を突き立てた。表皮を引き裂き、その穴から果敢にも体内に飛び込んでいった。ただ破られただけのその穴は、見る間に再生を始める。


「は? え? え?」


 イヤンの口が丸くすぼまった。赤井が自ら黄衣の王の中に取り込まれてしまった!


「喰らわれに行った……?」


 ただただ、怪魚たちの衝突音が聞こえてくる。

 一つの希望が潰えた絶望が、じわりじわりと素民たちを襲う。


『まだです、まだ終わってはいません!』


 ロベリアは彼を信じ、目を凝らしている。外側からの破壊が困難だというのなら、内側から破るまで。赤井はそう考えたのだろう。そう思いたい。


「見ろ!」


 ほどなく、赤井を喰らった異形が悶え苦しみ始めた。その巨大な体躯は不自然に収縮を始める。怪物の腹の中に、暴走する白光が透けて見える。異形は光球に内側から喰われ分解され、細やかな霧となって蒸発した。その後腹の中から現れたのは、光球に包まれた人影だ。ゆっくりと降りてくる。素民たちは光の主に気づき、歓声とともに迎えた。

 タコヤキの民を苦しめた邪神の一柱が、たった今、彼らの目の前で撃破されたのだ。


「あかいかみさまが……勝った!」


 モンジャ民の歓声があがる。

 そしてふわりと舞い降りた赤井を見上げたメグの足下から、カラン、とささやかな音がした。

 彼女の指から呪いの指輪が外れた音だ。


『メグさん……! 外れましたか』


 僅かばかりの期待を込め、赤井はメグの名を呼ぶ。


「はい、アカイさんっ! あなたのおかげで指輪が外れました。ありがとうございます!」

『……それは、なによりです』


 何度も頭を下げるメグに、赤井は力なく微笑んだ。

 黄衣の王を倒してもメグの記憶は戻らない、ロベリアの予言は的中した。


「アカイさんはところで、どうやって倒したのですか?」


 記憶が消えても、メグの好奇心は健在だった。


『どんな生物であっても、自らの体組織を構成している物質を異物と認識する方法は難しいのです』

「? どういう意味です?」

『これを使ったのです』


 赤井は掌に白い粉を乗せてメグにみせた。これを複数の体液だまりに突っ込んで全身の触手に一気に循環させ、同時多発的に大ダメージを与えた末、神炎で一気に燃やし尽くしたのだと説明する。


「何かの強烈な毒物ですか?」


 不死身の邪神に再生の隙をすら与えなかったという薬物……なんだろう。とメグが前のめりになりながら答えを待っていると。


『ただの塩と、塩化物です』


 メグは唖然とすると同時に、ああ、と何かを思い出しぱんと両手を併せ打った。


「ナメクジに塩をかけるのと同じように、ですか?」

『そのようなものですよ』


 正確には体液だまりの収縮を停止させ脱分極させる塩化カリウムも共に高濃度でぶちこんだのでナメクジをとかす原理とは微妙に違うのだが、メグの口から飛び出したナメクジという言葉に、赤井はたとえメグの記憶が消えていても、彼女の現実世界での記憶が保たれていることを喜ぶべきだと思った。


『キララさん。手をみせてください』


 赤井はまた、キララを労うことも忘れなかった。おもむろに彼女の手をとり、彼女の異変を観察する。やはりくっきりと手の甲に現れた謎の模様を見て、すべすべと撫でたり、顔を近づけたりして困ったように首を捻る。キララも赤井に指摘され初めて気づいたようで、ぎょっとした顔をした。照れ隠しにひらひらと手を振ってみせる。


「な、な、何なんだ? これは。どこからでてきた」

『何でしょうか。違和感はないですか? 気分が悪くなったり熱が出たりはしていませんか』


 赤井は黄金のリングの現れたキララの瞳を見つめ、彼女の額にぴたりと手をあてる。黄衣の王に置き土産として呪いをかけられたのではないかと思っているらしい。


「悪くない、むしろ気分は爽快だ。生まれ変わったようだ。全身が高揚しているというべきだろうか」

『なるほど……そうなのですね』


 何も知らない赤井はますます心配そうだ。ロベリアも近づいてきたが、やはり知らないらしく同じように首をかしげた。


『邪気は感じ取れませんが。何でしょうね』


 どこかで見た模様だな。赤井がそう思うのも無理はなかった。

 彼女のこれらの変化を引き起こしたのは、高度学習型A.I. スオウシリーズのキララという個体が第一覚醒段階へと到達した証として刻まれたものだったからだ。素民と主神を守るため、開発者の蘇芳 桐子教授が各管区のスオウに仕込んでいた裏性能。それは恐怖を克服し感情の昂りが最大に達したスオウのみが得ることができるオーバーロード性能だった。学窓を開く飛燕のマークは蘇芳教授の所属する東京工業大学のシンボルマーク、Sは蘇芳教授のイニシャルをあしらったものである。


 ただ、第一覚醒を果たしたのは日本アガルタ過去数十体のスオウのうち三体しかなく、覚醒後はもれなく命を潰した。神の細胞を持つキララ以外のスオウにとっては自己犠牲を伴う、悲劇の自爆的性能ともいえた。

 そんな背景をキララも赤井も知る由もなく、赤井は頭をいためていた。


『呪いでなければよいのですが』


***


 どんなに辛い日であっても、陽の昇らない朝はない。

 ロイはそう思っていたが、地下牢に閉じ込められた今朝、朝の気配はなかった。明け方になって創造の光板の呼出のボタンが忽然と消えたことに気付く。それは赤い神へと繋がるホットラインだった。


”向こうの世界で何か起こっているんだ”


 赤井は彼のおさめる大陸の時間を何倍にも加速しているので、一時的にロイと連絡がとれなくなる場合がある。その際は通信が回復するよう善処すると知らされていたので、慌てる必要はないと頭では理解している。だが……赤い神と、ロイがモンジャに残してきた素民たちは果たして無事なのだろうか。彼は気を揉んだが、幽囚の身にあれば、気を散らせている場合ではなかった。


”こちらのことに集中しよう。彼に心配をかけてはいけない”


 監視の目をかいくぐって牢獄を脱出することはできそうだ。が、その選択肢は彼の中にはなかった。逃げても、腐敗しきったメローヌ帝国は何も変わらない。暴君、マスク・メローヌという男を論理と正義で打ち負かすと決めたのだ。それはロイ自身が運命と戦い、未来を切り開くための試練でもある。

 にわかに看守たちが騒がしくなり、マスク・メローヌ帝の衛兵らが軍靴を鳴らし牢の前に押し寄せた。彼らは武器を構えたまま中に押し入ると鎖をかけようとしたが、それはロイに触れるなり溶け落ちてしまった。


「な、何をしたんだ!」


 ロイは冷ややかにほほ笑んで両手を挙げ


「拘束せずとも、どこにでもついて行く」


 かくして整然と整列したメローヌ軍の居並ぶ城内の広場に、ロイは脇をがっちりと武装した兵士に固められ連れ出された。メローヌ帝がこの広場にいるらしい。地下牢の暗闇に慣れた双眸で空を見上げる。今朝の太陽はひときわ眩い。

 直立不動の姿勢をとった兵士らの列の前を歩む。横目で睨まれ、あるいは好奇と畏怖のないまぜになった不快な視線を投げかけられながら。


「例の男を連れてまいりました。ロイ・フォレスタと名乗っております」


 メローヌ帝と思しき人物は、随分と離れた城のバルコニーからロイを値踏みするように睥睨しているようだった。

 視力のよいロイでも豆粒大ほどにしか見えない、やせこけた男をロイはただ無表情に見据えた。

 カラバシュの民から暴君と畏れられる一人の男、その正体を見極めんとして。


「……」


 何かを側近に伝えた後、男の手が僅かに上がった。耳を澄ませど、声は聞き取れない。

 彼の真正面に展開していた一糸乱れぬ横隊、兵士らの肩に担がれていた黒筒がロイを的にして構えられる。後列の兵士が火薬の導線に着火。指揮官の号令が響き渡る。


「撃て――ッ!」


 面で浴びせかけられた銃弾の壁。ロイはきっと瞳を見開いた。

 広場に立たされた時から全方位に据え置いていた物理結界が、一つ残らず凶弾を粉砕する。


「それがこの国の挨拶の流儀なのか」


 ロイの皮肉は、男の耳には届いていないだろう。

 遠目に見えるメローヌ帝と思しき男に、動きはなかった。ざっと見積もって数十シンは離れている。この距離があれば、ロイがメローヌ帝に殴りかかることもできず、何かあっても前衛が肉壁になる。その余裕を、ロイは挫いておくことに決めた。


 この愚かな男に知らしめなければならない。

 人間の間に貴賎などなく、偉大なる神の前に誰もが平等なのだと。


「距離が離れているから安全だ……とでも思っているのなら」


 ロイの言葉を裏付けるかのように六筋の神雷が迸り、メローヌ帝のバルコニーに程近い掲揚台の上で気持ちよく風に靡いていた帝国の六棹の国旗の真ん中全てを射抜いた。旗は燃え、火柱が立ち、それら火の尾を引いた国旗の残骸が風に煽られ灰となり雪のようにはらはらと舞い落ちる。


「それは間違いだといっておく」


 そうは言っても、ただの挑発だ。ロイは赤井と約束したとおり、メローヌ帝にも兵士たちにも危害を加えるつもりは毛頭ない。ロイが預かった神通力で人を殺めてはならなかった。赤井ならばどう力を使い、彼らにどう接するかを常に念頭におく。

 ロイはいつだって神であり父である彼の背中を追っているのだ。


 メローヌの側近と思しき兵士が、メローヌ帝の言葉を伝えるために彼方から怒鳴る。


「貴様は一体何者か。魔物の手先か、神の眷属か。とく答えよ、と陛下が仰せだ!」


 これには間髪入れず、ロイは息を吸い込むと、


「まず、そこから下りて俺の前に来い! 臆病者が!」


 メローヌ帝を怒鳴り飛ばした。


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