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第7章 第11話 Old man and sea◆

 メローヌの悪しき心に巣食っていたジンを質量兵器で一撃のうちに葬り去り、メローヌへのジンの憑依を解いたモンジャ集落の青年ロイ・フォレスタ。

 その姿を目の当たりにしたのは、痺れ効果つきの礫を被弾し、石床に累々と丸太のように転がっていた、身動きすら許されぬメローヌ帝の部下たちだった。


 彼らはおのずと、この青年が人智を超えた強大なる力(神の杖)を手にメローヌ帝国、ひいてはカラバシュ全土を紛れもなく武力によって掌握したのだと悟った。

 新たな、若き、人外の王が生まれたのだ。

 抗うことは無謀であった。兵士たちは降伏を余儀無くされ、裁かれる立場に立たされる前に身の振り方を迫られる。死んだふりをしてやり過ごそうとする愚か者もいたが、一時凌ぎ以外の何物でもなかった。


 ロイはそんな彼らにはお構いなく、メローヌの患った不治の病は何かとあらゆる想像をめぐらせながら、呼吸を整える。

 そして警戒を怠らず、倒れ伏したメローヌの傍へと近づいた。

 最後のあがきにと、卑怯な手でロイを封じ込めようとしているのではないか……あらゆる可能性も排除せず考慮する。まだ、決着はついていないのだ。だがもはや警戒の必要はなかった。

 メローヌの右腕は見るも無残に朽ち果て、なくなっていた。

 今や暴君メローヌは、暴君の名を冠するには憚られるほど覇気を失い、動かなくなってしまった。メローヌは瞼を動かすこともできない。目を見開いたままだ。

 しかし、それでも生きている。


 ロイの接近に身構えることすらなく、何も映さない眸をあらんかぎり見開いたまま力なくその場に横たわる老人に、ロイは彼を手にかけようという気を殺がれてしまった。彼はあまりに”かよわきもの”へと変貌していた。ロイが声をかけることすら躊躇うほどに。

 彼に何が起こったのか……。


【メローヌはもう、いないのよ】


 ロイの疑問に、至近距離から答えが与えられた。

 ステルス状態のままその場から離れなかった信楽焼▲▲▲が骨伝導で、混乱するロイに伝えたのだ。


”いない?”

【そう、いないのよ】


 いや、メローヌは”いる”、生きているじゃないか。ロイは心の中で反論した。


”何故動けないのですか? 意識はあるのに?”

【そう、意識はあるのに。今、彼にできるのは、息をすることだけ。まさしくそうよ】


 言葉遊びをするように、囀るように彼の無力を暴露する信楽焼▲▲▲。天女はその美しさの中に、素民に対する残忍さと徹底した無関心を滲ませていた。


 彼女にとってメローヌは、最初から取るに足らないものなのだ。いや、メローヌだけではない。ロイに対してもそうだ。神々にとって人間(素民)とは本来平等に無価値なものであり、そこに何やら価値を見出して慈しみ育て、全身全霊をかけて見守っている酔狂な神は、赤井ぐらいのものだ。

 しかし彼はこの世界の創造者であるので、一応、使徒たちは赤井の命令には従う。


 赤井がロイに気を配り、信楽焼▲▲▲をこの地に差し向けなければ、信楽焼と強羅大文字焼はロイに何があっても、無念のうちに異国で果てたとしても、ロイを助けはしなかっただろう。そういう関係なのだ、信楽焼とロイは。思い通りに動いてくれると思ってはいけない。


【メローヌは、ジンの力なくしては既に自力では何もできない状態にあったの、ありとあらゆる意味でね】


”あなたは、メローヌの病がただちに命にかかわるものではないと仰ったが……”


 信楽焼の立場を慮り、ロイは複雑な思いを抱えながらメローヌのみに視線を落とす。


【ええ、命にはかかわらないわ、ただちにはね】


 メローヌは純然たる悪であり、メローヌは殺されても仕方のないほどの残虐非道な蛮行を無辜の民にはたらいてきた。だが、多少懲らしめてやりたいと思うのは人情であってロイも否定はしないが、ジンの憑依から解放することがメローヌをこうまで弱体化させるとは、計算高いロイにも想定の埒外だった。


「おい……死んだのか。死んだんだろう?」


 事の顛末を物陰から見ていた、文官の一人から声があがった。無力な瀕死の病人へと変貌したメローヌに、彼は忠誠を捧げる様子もない。更にロイを驚かせたのは、裏切り者、不忠の臣下は一人ではなさそうだ、ということだ。


「いや、死んでいないぞ」

「今は死んでいないとしても、その様子だともうくたばるんだろう?」


 礼儀を忘れどこかメローヌの死を期待したような言葉に、ロイは不快感を覚えた。


「お前たちの戴いた王なのではなかったのか、メローヌは」

「俺たちはただジンの言うなりに従っていただけだ。メローヌ自体を王と認めていたわけではない……どう考えたってそうだ、分かるだろう」


 彼らも歯切れが悪い。ジンの恐怖が去ったことが、彼らの立場を忘れさせ保身に走らせている。


「……そういうことか」


 取り巻きの人間たちがメローヌを見る視線がすっかり変化していたのを、ロイは遅まきながら感じ取った。ロイがここで立ち去ったとしたら、彼らは痺れが取れようものならメローヌをただちに私刑、ほぼ確実に息の根を止めにかかるだろう。彼らもまた、弱肉強食の価値観に染まり、判断力を失い精神は荒廃しきっている。

 ロイは暫し躊躇った後におもむろに手を伸ばすと、彼らから遠ざけるためにメローヌを背に負った。


「マスク・メローヌは今ここで廃位した。この男のことは忘れ、新たな国の代表者を選べ」


 その言葉を聞き、彼らは意外そうに顔を見合わせた。メローヌを失脚させたからには、侵略者たるロイが新たな王となるのだと考えていたらしかった。権力をあっさりと放棄するこの若き青年が、世間知らずの田舎者なのだろうと彼らは推測した。

 それに、メローヌ帝国には王位継承者は一人もいなかった。

 未来永劫に帝王はただ一人だけとするために、王家に連なる血族全員をメローヌは葬り去っていたのだ。父王も弟たちさえも。


「王を滅ぼした者が、新たな王になるものだが」

「俺がそうだというのか」


 ロイは事情が呑み込めない、というように問い返した。傍迷惑なことだ、と感じたからだ。


「そうだ。王位継承者がいない場合はそうなる」

「しきたりからいくと、そうだ。降伏したという形になる」


 兵士たちは納得のいかない顔をしているが、敗戦を喫した以上はとしぶしぶ頷く。


「俺には今は帰る場所があり、もう一度会いたい人達がいる。だからそのつもりはない」


 ロイは迷わずそう言った。帰る場所とは、赤井の大陸であり、会いたい人たちとはモンジャ集落の素民たちだ。


「そうまでしてこの国は帝政でなければならないのか? ならば王がいないのでは、メローヌ”帝”国は滅亡したということになるな」


 ロイが確認すると、それでは彼らも不都合のようだった。


「姫君がご存命だが……」


 姫は他国への侵略をやめるよう進言をしたために、メローヌの逆鱗に触れ、現在も幽囚の身にあるとのこと。また、女には皇位継承権はないとのことだった。ロイはまじまじと肩にあごを乗せたメローヌの顔を見やったが、表情の変化や反応は特になかった。


「訊ねたいことがある。重要なことだ。メローヌはある時を境に豹変したのか?」


 それはおそらく、王妃を亡くした時に。


 彼らは、もはやこれまでと思ったか、重い言葉を紡いだ。


「……概ね、状況は解した」


 メローヌはかつて妃と仲睦まじく暮らしていた気の弱い王だった。妃は美しさもさることながら話術に長け、夜毎に寝物語などして、孤独で疑り深いメローヌの心を慰めていたという。その王妃を暗殺によって失った。その時を境にメローヌが心の安定を欠いてしまったことには間違いない、と彼らは言う。


 暗殺者の正体が判明しなかったがために、彼は身近にいたありとあらゆる人間に疑いをかけ、殺害した。

 表面的な原因は、確かにそれだといえよう。その時を境に、彼は復讐心に憑かれ、疑心暗鬼となりジンの力を頼んだのだろうか。メローヌの残虐かつ凄惨な過去の行為をどう看做すべきかと、ロイは苦慮していた。兵士からどれほど事情を聞いたとしても、背中に負っている当の本人から真相を聞きだせそうもない、ということも公平性を欠き、悩ましい。また、メローヌの赤い神に対する執着も、本当はどこに由来しているのか探りたい。


「とにかく、この国の代表者はいてもいなくとも構わない。軍に即時撤退を命じ、カラバシュの侵略支配をやめさせろ。さもなくばここで……」


 ロイは彼らが痺れで身動きの取れないこの機に乗じて、わざと脅してみることにした。


「よ、よせ、わかった、それはやめろ!」


 さして凄みがきいていた訳でもないのだが、再び天から火柱が襲来してはひとたまりもないと思い知ったのだろう。彼らには効果覿面であった。兵士らはそれぞれ顔を見合わせた末、最終的に同意した。


「そのことだが、我が帝国民にはもはや領土がない」

「一体どこに撤退すれば……」


 そもそもカラバシュは三つ葉様になった群島であったものの、メローヌ島が海底に没してしまったためメローヌ帝国がヘチマ国への侵略を開始したという話であった。なので、メローヌ帝国民は撤退しようにも故郷を失っている。


「お前たちが謝罪をして、ヘチマ国かゴーヤー国の国民になるしかないな……彼らがそれを許せば」


 メローヌ帝国軍はヘチマ国を属国とし、ヘチマ国の男を皆殺しにしたという経緯がある。残されたヘチマ国民たちのメローヌへの怨恨たるや、壮絶なものがあるだろう。メローヌ帝の所業ではあるが、ヘチマ国民からの復讐は必至だ。


「……飲めるか、そんな話が」

「武器を手放しでもしたら、ヘチマとゴーヤーの奴らに殺されるんだ」


 急転直下、兵士たちは虐げる者から虐げられるものへと立場が逆転した。だからと言ってロイに挑みかかる度胸のある者はない。人外の存在には抗わず、従うべし。それは彼らが一貫してとってきた立場だ。


「どのような処遇を受けたとしても、それはお前たちが彼らにしたことの報いだ」


 とは言ってみたものの、武装解除などしたら今度はメローヌ帝国民が虐殺の憂き目にあうのは明白だった。メローヌの意志とは無関係に暮らしていた一般国民にまで連帯責任を負わせるには忍びなく、不条理でもある。


「だがそういえば、まだ誰の土地でもない広大な土地がある」


 確かモンジャ集落の北部に、メローヌ帝国の人口を優に受け入れ可能な面積の土地があった筈だと、ロイは思い出した。


「なんと! その土地はどこに」 


 ただでそれを教えるというのも、虫が良すぎた。彼ら兵士たちがメローヌ帝国という名のもとに侵略と虐殺を行ったことは事実として消えない。


「武装解除が終わったら、その場所を教える」


 期待を込めた眼差しを避けるかのように、ロイはふいと顔をそむける。


「その言葉を信じていいのか」

「ああ、約束だ」


 ロイは真顔でそう言うと、物言わぬメローヌ帝を担ぎ直しくるりと背を向け、ざくざくと歩み去る。彼らにとっては大事な情報は意図的に伏せた。今、敢えて告げる必要性をロイは感じなかった。条件の悪い土地を押し付けようという腹積もりでもない。


 ――そこが人喰い肉食獣ブリルのいる手つかずの荒野だということは、彼らが身をもって知ればいい。


 他国に侵略をはたらいたメローヌ帝国に、ヘチマ国の民に代わって意趣晴らしをすることもできたが。猛獣の住まう荒地をいちから開墾するくらいの労力で、不満は言いっこなしだ、とロイは思う。何故ならロイもまた、肉食獣エドのいる過酷な荒野を生き抜き、モンジャという集落を守り、拓き、発展させてきたのだから。


「兵をまとめていろよ、すぐ戻るからな」

「どこへ行くんだ」


 ロイは背を向けたまま、親指で担ぎ上げた男を差した。兵士たちは、人目のないところでメローヌを殺すのだろうと邪推した。

 そうだとしても、誰も止めなかった。


「話をするだけだ」


 ロイはそのままの言葉の意味で、話をするだけのつもりだった。

 いよいよ暴君と向かい合うときがやってきた。人気のない場所を求め、ロイとメローヌは見張り台と思われる石造りの建造物の外階段を上がって屋上に出た。


「おお?」


 そこには人工庭園があり、海がひらけていた。庭園には天から吹き降ろされるような優しい風が吹き渡っている。背の高く青い多弁の花が花壇に植え込まれており、満開を迎えていた。かぐわしく甘い香がふわりと潮の、鼻孔にねばつくような匂いに溶けた。この花の種を取ったら、メグが喜ぶだろうな……そんな他愛のないことを想い、望郷の念を強める。


 ロイはずり落ちそうになるメローヌをしっかりと負ったまま、しばし庭園と海原の美しさに見惚れていた。敵を背に負うなど無防備極まりなかったが、もはや危険は感じない。そして庭園の向こうには海、海の果てには……


「……神様の大陸だ……」


 目を凝らせば、のったりとした海原の向こう、赤い神の大陸と思しき海岸線が霞の中に確かに見えていた。そういえばカラバシュは漂流する群島であるという話を、マリとピケから聞いていた。そしてカラバシュに住まう民は一度も、カラバシュ以外の陸を見たことがなかったのだとも。

 

 舟で漕ぎ出せば、そこに届くだろう。

 神に祝福された場所は確かにあって、その存在はユメではないのだ。

 メローヌは眩しそうに目を細めたが、それがただの反射によるものだとはロイは気付いていない。ロイは深く頷き、諭すようにこう云った。


「メローヌ、聞こえるか。……俺はあの場所から来た」


 今はそう、メローヌにとっては、近くてあまりに遠い場所であった。


「ここがいいな」


 眼下に海を臨む庭園の一角。そこにある石製の長椅子を見つけ、ロイはメローヌの痩せた躰を横たえた。


 自らは地べたに坐し、足を投げ出して寛いだ様子でロイはメローヌを見詰める。彼はメローヌの腹のうちをさぐる交渉が苦手だと自覚していたので、落ち着いた環境で対話をしたかった。メローヌは呼吸をするのも精一杯のようで、抵抗する様子は覗えない。

 ならば、そのうえ更にメローヌの命を奪うまでの報復は、ロイにとって無価値に思われた。ただこの地で権力を掌握できないように放逐すればいい。ロイはそう考えていた。それにメローヌは何もしなければ死ぬのだ。


 一人の老人は顔を横に向け虚ろな瞳で、力なく海を、その水平線の果てを見ていた。霞の立ち込めたその場所には、彼の求めた野望の全てがあったのだろう。


「聞かせてくれ」


 ロイは彼の過去に触れようと試みる。


「何がお前を変えた。王妃の死か?」


 虚心坦懐に問いかける。だが辛抱強く待っても、答えはなかった。


 メローヌが特に発語困難であるとは思わないので、会話を拒んでいるのか。ロイはそう判断して、創造の光板を赤井と通信した時と同じ念話モードにして立ち上げてみた。


”何かが、届いているな”


 ボードの中央に差出人不明で、メッセージが挿しこまれていた。それはメローヌの過去にまつわる、ロイが最も知りたかった情報だった。

 ロイは信楽焼からのメッセージだと推測したので、彼女の気まぐれに感謝しつつメッセージを読み進める。

 ――実際にはそれは、信楽焼が送ったものではなかったのだが。


 もともとメローヌは幼少時から根暗な性格と虚弱な体質で、父王や王家の人間からは忌み嫌われていた。彼はやがて、重要でない王家の傍系から病気がちの妃をあてがわれた。愛されることを知らなかった彼は、政略結婚を迫られ望まぬ結婚を果たした妃に同情し、心を寄せるようになった。

 惨劇が起こったのは、父王が崩じ、メローヌが王として即位した直後のことだった。メローヌの妃は何者かに暗殺を企てられ、高所から突き落とされた。死体はあまりに損傷が激しく、彼の妻のようではなかった。


 死は最愛の人間を、いともたやすく物体に変える。いつか自分もそうなるし他人もそうなるのだとメローヌは悟った。それは果てしない、耐えがたき恐怖のはじまりだった。彼は喪に服すうち悪夢と幻覚に悩むようになり、物忘れが激しくなり、事実を事実と認識できなくなった。メローヌはこのとき、自分自身が分解してゆく妄想に襲われる。


 彼は、とある、現実世界においては旧世紀までありふれていた病を発症していた。かつてそれは認知症と言い、現代社会においては百年も前に滅びた、旧世紀の病である。

 アミロイドベータ(Aβ)の脳内への蓄積によって神経細胞が死滅、脳の委縮が起こり、日に日に病魔は彼を蝕んでゆく。判断力と記憶を失い、薄皮を剥がすように自分自身が少しずつ、こそげ取られてゆく。メローヌは国中の薬と万能薬を求めた。そして隣国からは万病を癒すという赤い神の伝説を伝え聞いた。

 彼の弱みにつけこむかのように、メローヌの前に、どんな願いも叶えるジンの召喚方法を知る呪術師の男が現れた。苦しみから救って差し上げると呪術師はそそのかし……メローヌは深く考えもせず、甘く怖ろしい罠に飛びついた。

 呪術師から手渡された古書に従い儀式を行い、ジンが現れた。ジンの召喚を見届けると、呪術師はいつの間にやら姿を消した。


 それ以降、メローヌはジンと契約を結び、民を支配する絶対的な力を得たが、自我はやはり緩やかに侵されていった。彼の身近にいる人間誰もが信じられず、それゆえに人を遠ざけ、無実の人間を死刑に処した。

 ジンの囁くままに国軍に火法を齎し軍事大国を築き上げ、王家の血に繋がる者を根絶し、人民と異民族を暴力で支配した。


 この間、彼の実際の意識は鮮明であるようでありながら、その機能の殆どを失い、異物へと置き換わりつつあった。彼はジンにまやかしを見せられ続け、最後までその変化に気付かなかった。そしてジンが滅んだ後、本来のメローヌの脳だけが残された。


 認知症の末期、失外套しつがいとう症候群となり大脳皮質の機能が完全に失われた脳を持つ、人間。

 外見はメローヌでありながら、メローヌの人格がごっそりと抜け落ちた……。


 ロイが目にしていたものは、そういう存在だ。

 メローヌが患っていたのは確かに信楽焼▲▲▲の言ったよう、ただちに死に至る病はない。が、確実に死に至る不治の病であった。


「そんな……もう、間に合わないだなんて」


 ロイは事の顛末を知り絶句した。メッセージを読む前には、メローヌとの対話により事実を知ったとしても、見捨てることはできない、そう思っていた。どこかで、劇の幕引きを。落としどころを考えていた。

 しかし、何もかもが手遅れだったのだ。

 メローヌに、何故素民を殺戮してはいけないのかを伝え、悔悟させることすらも不可能だった。メローヌは何も理解しないまま、このまま終焉の時を迎えるほかにない……。


「おい、……」


 ロイは心臓が止まりそうになった。先ほどから、メローヌが呼吸をしていなかったということに気付いたからだ。彼は呼吸すらも忘れ、いっときの時間が経過していた。彼は静かに息をひきとっていたのだ。

 ロイは膝から地に崩れ落ちた。


 老人の瞳は、それでも海の果てを見ていた。ロイはそっと瞼を閉ざしてやる。

 彼は逝きたくなかったに違いない。しかし何もかも忘れてしまっている……自分が誰であるか、ということさえ……もう、彼は既に逝っていたのだ。


「孤独だったんだろうな……」


 ロイは創造の光板にある、ありとあらゆる機能を調べ尽くした。赤井を呼びだそうとしたが、この時は赤井は呼び出しには応じなかった。

 第三区画解放中では、他区画からの通信を受け付けないのだ。


「俺は、どうすればよかったんだ」


 もしも、メローヌが呼吸を忘れることなく生存していて、赤井がここにいたら……赤井は彼をどのようにして救ったのだろうか。

 深く項垂れるロイの視界に、創造の光板に新しく出現した文字が明滅していた。


【第五区画解放。任務終了……確認】


 何が何だか分からないまま、救いを求めるようにロイは現れたボタンを押した。

 ジンと”暴君”マスク・メローヌの死をもって任務は完了する。

 それはロイが構築士赤井に代わり、区画解放任務を完遂したということを意味した。

 たとえそれが、不慮の死であったとしても。


 そんなとき。

 第五区画の時間は、完全に凍り付いた。


 ……雲も、風も、光も音も薄ぼんやりと実感を失った。

 ロイは空の中のような透明な世界に落とされ、平衡感覚を失う。一切の無音の中。幽かな共鳴音のような音が聞こえるが、それはロイの頭の中で響く音色だ。

 無音の世界は、耳鳴りがしているように錯覚されるのだ。


”時間が止まっている。世界が壊れたのか……?”


 ロイは瞬き一つせず目を見開いていたが、意識は驚くほど清明だった。

 赤井が何らかの意図をもって時間を止めている。

 そう考えて心を落ち着かせる。赤井神は時間を加速させることも停止させることもできると聞いている。きっとそうだ。


 ロイは創造の光板の情報を参照しようとしたが、いつの間にか閉ざされていた。閉じた覚えはなかったのに、だ。これはいよいよおかしい。これは本当に赤井がしたことなのだろうか。

 もしも事実は異なって、この閉じた時空から脱出を図らずにいると、果てることになる。ロイが焦りを感じていると。

 

 パチ、パチ、とやけによく響く拍手の音が聞こえてきた。

 なぜそんなことができる。とロイはいぶかしむ。時間が停止しているとすれば音(振動)の波が進むことはできないので、音が聞こえるはずがない。ならば幻聴なのだろうか……とロイが戸惑っていると。

 一人の男が、凍り付いた時間の中を、ふわりとロイの目の前に降り立ち、庭園の石畳を音もなく踏みしめた。

 彼は白い履きもので脚を覆い、薄青の機能的な上着を身体にぴったりと着て、やや褐色をおびた肌と、そして濃茶の髪と瞳をしていた。


 ロイは初対面であるはずの男を見て、何故か言いようのない既視感を覚えた。

 この男に……いつかどこかで会ったことがある。

 そんな気がしたのだが、何度思い出しても、その記憶は見当たらなかった。


 男はどうやらロイに用があるようだ。

 彼は落下してきたのではなく、浮遊してきた。よってロイは警戒した。それが善きものか悪しきものか、瞬時に判断するのは困難で、さらに彼は動けないのだ。開口一番、男はこう切り出した。


『おめでとう、よくやった』


 何がめでたいものか。目の前に、息をひきとったばかりの死者が横たわっている、これは断じてめでたいことではない。反感を覚えながらも、ロイは相手の正体を知るまで露骨に表情に出すことはしなかった。


『ああ、そうか。その男の事を考えるのなら』


 確かにめでたくはなかったな。と男は悪びれる。自然に読心術をかけられたことで、なるほどそうか、とロイは勘が働く。念で問いかけた。


”あなたは、異界の神ですか?”


 赤井、蒼神や白椋らと同じ存在であろうということは一目瞭然だった。


『ざっと、そのようなものだ』


 男の肩には、一匹の小さな小動物――見慣れない白い毛で赤い瞳のそれがちょこんと乗って、しきり

に前脚を揉み合わせ、尻尾と口をちょこちょこと動かしていた。


『ロイよ、お前はこの世界の中で、どう感じている? この世界は素晴らしいと思うか?』


 ロイはただちには答えられなかった。確かに、赤井の治める場所は平和に満ち、誰もが幸福のうちに暮らしている。だが、彼の手のうちを一歩外に出れば、グランダもネストも……いつだって世界は死と絶望に満ちていた。赤井が、世界を生まれ変わらせてきたのだ、ロイはそう思っている。カラバシュも例外ではない。

 答えがないことを受け入れ、男は穏やかで落ち着いた眼差しで問いかけを続ける。


『全てを知り、手に入れたいと思ったことは』

”何を、お訊ねになりたいのですか?”


 質問の裏に隠された意図を、ロイはどうしても探ってしまう。

 そういえば蒼雲との一問一答も、こんな状態だった。神々はロイが暴君となる可能性を危惧しているのだ、ということぐらいは彼にも読めた。

 だから慎重に答えるべきなのだ。

 ヘタをうってロイが野心を持った危険な存在であると彼らに看做されれば、いつ瞬殺されてしまうともしれない。


『お前にとって、この世界で生きてゆくことは幸福で、ずっとここに住みたいと願うのだろうか。そう思ってな』

”……俺はこの世界に生まれ、そして今は幸せです。そう、強く言えます”

『そうか』


 男は初めてにこりとして、目を細めた。が、ロイを哂っているのかただ微笑んでいるのか、ロイには読めなかった。


『そう緊張せずとも、意地の悪い質問をして試そうなどとは思っていない』


 必要なことは、会えばわかるから。だから、直接顔を見たかった、男はそう言う。


『苦労をさせて、すまないと思っている』


 ロイは彼に問いたいことが山のように積み重なってゆくのを感じた。

 しかし、一言も言葉が出てこなかった。

 この男がロイの重要な何かを知って接触しているような気がするのに、だ。

 創造の光板が立ち上がらない。悔しかった。

 名を問うことすら許されないなど……。


『時が来れば、お前は外への憧れを強くするだろう。準備が整ったら迎えに来ようと思う。だから』


 男は一方的に別れを遂げる。


『また、いつか会おう』


 キン、激しい閃光と何かを劈くような音と共に彼の姿は消え、ロイは耳鳴りから解放され、時は動き出した。

 ざあ。と思い出したように潮騒が聞こえてくる。

 暖かな空気が流れ始め、ロイはひゅっと大きく息を吸った。

 これがメグたちの見る夢……白昼夢、というやつなのだろうか。そう、実感しながら。


『ロイ! おいロイ! 聞こえてんのか!?』


 ロイが気付いたときには目の前に、思いがけず焼人の片割れ、黒いツナギを着た強羅大文字焼▲のモヒカン頭があり、何やら怒鳴られているところだった。

 至近距離から呼びかけるには必要ないほどの大声で呼ぶので、ロイは鼓膜が破れそうだ。

 つい今しがた妙な体験をしたばかりだというのに勘弁してほしい、そう思いながら肩を竦める。

 信楽焼▲▲▲も強羅大文字焼▲の背後にいて、ステルス状態を解いていた。


 素民にその姿を見られてはまずいのだが、この庭園には今、人の目がない。

 メローヌの死亡が確認されているからだ。姿を隠す必要を感じなかったのだろう。


『何、ぼっとしてんだ? 区画解放が完了した。船を出す頃に時間同期されているだろうから、赤井の大陸に戻っていい。じゃ、俺らは伝えたからな。戻ろう、姐御』


 信楽焼▲▲▲と強羅大文字焼▲はロイにさっさと必要な情報を伝えて、現実世界へと撤収する予定だった。

 退勤……といっても、焼人は24時間常駐しているので、シフト交代の時間である。


 ロイは上の空だった。


『聞いてなかったわね。もう一回話した方がいい?』


 信楽焼▲▲▲がロイの不注意をなじる。


「あの……今の方を見ましたか? どなたでしたか?」


 つい何気なく、二人の焼人のどちらかから答えが得られるものと安易に想定しながら、ロイは彼ら二人に尋ねた。


『何が』


 強羅大文字焼▲は険のある口調でわざとらしく訊き返す。


「見えて、いなかった?」


 ロイの鼓動が跳ねあがる。鳥肌が全身にひろがってゆく。


『待って。それ、お前それ何を持ってるの? どこからくすねてきた?』

「? くすねたって何のことです」


 信楽焼▲▲▲に指摘されるままに、ロイはまるで他人事のように自らの手元に目を落とした。彼の手が力強く掴んでいたのは、白い封筒だった。


『手紙かしら? 開けてみなさいよ』


 中から出てきたのは幾何学模様の刻み込まれた、純金のカードの束。


「何でしょう?」

『と、言われてもねえ』


 封筒には現実世界の文字で”肌身離さず持っているように”と書かれていた。強羅大文字焼が何気なく手を伸ばした瞬間、カードは未知の反発力を発揮し、強羅大文字焼を数メートルも吹き飛ばした。


「なっ」


 ロイは硬直し、信楽焼は身を乗り出す。


『……これ、やべえ神具だわ。強烈な触性抗体がついてる。抗体型は不明だ』


 一筋の血を口の端から垂らしながら、強羅大文字焼は一言呻いて失神した。


『何故、お前が触れるのよ? ロイ』


 神具には、どれであれ触性抗体というものがついている。つまり認証キーだ。触性抗体は、構築士一人一人違うものが定められている。だから、他人の神具を拝借するには、持ち主の許可を得て触性抗体の変更を行う必要がある。


「え……触れることが、驚くことなんですか」

『それが仮に神具だとすると、誰かがお前に譲渡しようとしてるってこと……』


 信楽焼▲▲▲はステルスを解いた。

 ロイの手におさまった神具を、貴重な宝石を見るような羨望に満ちたまなざしで見つめる。


『でも、それは誰で、何のために? ちなみに私も、それが何なのか知らないわ』

「さっきの方が……俺に、くださった?」


 プロフェッサー・ケネス・フォレスター愛用の神具にして、アガルタ界最強の威力と処理速度を持つ……


 超神具 Fullerne Au42(フラーレン・オーラム42)。


 触性抗体の変更のきかない超神具を授けられ、それに触れられたということは、ロイとケネスの紛れもない血縁を証明しているのだが……。


 焼人達とロイがそれを知るのはもっと後のことだった。

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