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第6章 第5話 届いた願いと、届かない祈り◇◆

 私がヤクシャさんを倒し27管区に戻ってきた直後に再開された水泳競技!

 だったんだけど……男子決勝戦は大荒れしました。

 原因はモンジャ民のマルマルが決勝戦で無呼吸潜水に切り替えてきたからだ。

 スタートした瞬間、マルマルの姿は水面下に消え、次に彼の頭が現れたのは30シンも先! 彼は深呼吸すると再び潜り、二度ほど息継ぎをして堂々と一着をもぎ取った。


 「なんだ今の! はええ」、「まるで魚みたいだったよな!」とざわめく観客席。

 つか今の潜水は泳ぎじゃないだろということで、大会実行委員から物言いがついた。水泳競技は100シン水泳自由形だ、半分近くも潜水ってのは確かに問題かもしんない。


 んー。私的には別に潜水だろうが何だろうが泳いでる限り構わないと思うんだけど、ルールに潜水禁止など書いていないのが悪い、マルマルの順位は有効だろうとモンジャ漁民が弁護。次回のグランディアはルールを整備しないと今に血を見るか、と次回の課題が残った。


 何でマルマルがあんな泳法なのかってと、普段から仕掛け罠を水底の岩陰に仕掛ける為に危険を冒しわざわざ潜水してるからだろう。私は危険だからと止めたことがある。

 実際彼は急潜水と急浮上を繰り返して時々失神したりしてたし、真似しちゃう素民の子がいた。

 罠は紐つきで舟の上から静かに湖底に沈めてはどうでしょうと説得したよ。

 でも潜水をすることによって彼は岩陰に潜む大物を狙って着実に罠をしかけて仕留めることができる、それが彼のアドバンテージなんだろう。

 この時代、皆と同じことをやっていては差がつかないし、ってことで私は黙認してきたけど。


「じゃあ、来年から潜水してもいいってことなのか? え?」

「いいに決まってるだろ、なあ」


 不満くすぶるグランダ民に、マイペースなモンジャ民が対立してる。


「潜水ありにして来年死人がでたらどうするんだ! 責任とれるのか?」

「グランディア開催中に死人なんて出るかよ、神様がいるのに」


 ガヤが入りまくってるし。


「もはや泳法とか関係ないじゃないか」

「そんなわけないよなー」

「な~」

『みなさん揉めないでください』


 あわや場外乱闘、という局面も迎えつつ、やり直すか失格にするか優勝にするかさんざっぱら揉めた結果、やっぱりルールが後出しになってはいけないのでマルマルが優勝だということになった。表彰式の直前、マルマルが表彰台に駆けあがり


「今の、なし。潜水なしでもう一度勝負をしないか!」


 拘泥のない様子でマルマルが提案すると、決勝戦に出た全ての選手が乗っかった。

 彼の申し出は聞き入れられ、泣いても笑っても最後のやり直し決勝戦の直前。

 読心すると、マルマルは勝負に執着していないみたいだった。

 マルマルが肩をほぐしながら近くを通りすぎたので、声をかける。


『差し出がましいようですが、本気で勝負をしてくださいね。あなたにも、相手にも悔いが残るでしょう』

「あかいかみさまのくせにわかってないな。そんなことは問題じゃない」


 彼はそんな言葉を残し、助走をつけカルーア湖に飛びこんだ。彼はグランダに気を遣って負けてあげるつもりなんだろうか。


 私が首を傾げているうちに、舟の上から決勝戦の旗が振られた。横一列に並んだファイナリストたちは一斉にスタートを切る。

 最初に浮かび上がってきたのはマルマルだ! 2ビートに一度の息継ぎで、手を気をつけの状態にしたドルフィンキックが力強い。追い上げるリソットは平泳ぎとバタ足に似た、私の目から見ればコンビネーション泳法だ。流体力学的に見ると、リソットの方が多少有利か。

 手を伸ばした状態での潜水ドルフィンキックは最速だけど、水泳競技は自由形だから別にどんな水着を着てどう泳いでもいい。全裸はダメ。ちなみに現実世界では流体力学とシミュレーションの見地から泳法や呼吸法の改良が進んでて、今やオリンピックの自由形の主流はもはやクロールじゃない。


 45シンを超えた頃、リソットが頭ひとつ飛びだしリードを広げた。

 顔が真っ赤に充血してる、もう必死だ。息継ぎの回数を相当抑えてバタ足の回数を上げてきてるらしい。

 リソットが集団から体半分出てきた頃には、マルマルは完全に後方集団に飲み込まれていた。手を抜いているわけではない、でも彼の本来の泳ぎを禁じられたために、ぎこちなくなっている。さらにリソットの波の煽りを受け、後方集団は徐々に遅れをとる。逃げ切るか、に思えたんだ。

 

 残り10シンになった。勝負あったか、と誰もが思った時。マルマルが泳法を切り替えた――っ!

 持ち前の腰の強いドルフィンキックに手のストロークをつけてきた。 


『うわっ! ドルフィンキッククロールだ! 出たよ!』

『ドルフィン!?』


 モフコ先輩が身を乗り出して叫ぶ。跳びあがって興奮してるし。


『いやでも、さすがにその泳法では……!?』


 もう別人かってほど速い! この泳法って昔オリンピック選手も使ってたんだって、モフコ先輩は仰る。短距離には超強いらしく、追い上げる追い上げる!


「どっちだ!?」


 ライバル二人のフィニッシュはほぼ同着だ! 私の目で見ると微妙に差はついていた気がするけど、素民の目で差は見抜けない。力尽きた二人ともその場でぷっかり浮かんでいた。慌てて救助班が二人を引き揚げにいく。


「どうなるんだこれ。神様ぁ、どっちが勝ってました?」


 同着すぎて舟の上の審判が困ってる。私の神眼はビデオ判定みたいに利用されてる。


『同じでしたよ。同着一位、でよいではないですか』

「やったー! 快挙だ!」


 リソットはグランダ民に胴上げされ、


「マルマル、よくやったぞー! 褒美に俺の肉をやろう! しかもエド肉だ!」

「しかも最高級のモモの部分だ」

「肉より魚派だから」


 マルマルも負けじとモンジャ民に胴上げされていた。


「せーの!」

「うわ~なんだなんだ!」


 そして湖に真っ逆さまに落されていた。リソットは賞品として絶対に切れない丈夫な網をリクエストしてきたからその場で作って手渡しする。マルマルに賞品はと聞くと、奥さんのモリモリにアクセサリーだって。愛妻家な一面を覗かせてて和む。


『リソットさんもマルマルさん、とても速かったですよ。互いの健闘を称えます』


 表彰台に、ちょっとよそよそしく距離をあけて立つ二人の頭に勝利の冠を載せてあげる。


「お前、わざと同着にした?」


 リソットが、表彰台のマルマルに尋ねてた。結果が腑に落ちなかったんだろう。


「ま~さか!」


 と、一旦否定はしたものの、ぽりぽりと照れくさそうに頭をかいて


「しいて言うなら、仲良くしましょうってこった」

「誰がモンジャ漁民なんかと! お前ら商売敵だろう!」


 リソットは悪態をついてた。


 そういえばマルマルは誰もいない場所を選び、好んで漁をしてきた。グランダ漁民と漁場を争わないように、だったのかな。

 一番よい漁場は私の神殿前の参道で、投網を打つとお魚さんたち一網打尽にできる。ヤスさんは参道の人気スポットで釣り糸を垂らしている。参道の水面下は日陰で魚群が休んでいるし、私のアトモスフィアに惹き寄せられて大小様々の魚が集まり、いつも入れ食い状態だ。

 敢えてマルマルがそこ避けてるのは、珍しい魚の獲れる漁場に拘ってるのもあるだろうけど、競争を防いでるのかもしれないな。

 

 マルマルは、神殿の真ん前に高く聳え立った表彰台の階段を降りると、ふと立ち止まって踵を返し


「なあ、前からロイが言っていたように、モンジャとグランダの漁師で漁民組織をやらないか。カルーア湖で争いが起きるのはよくないと思うんだ。乱獲するとカルーアによくないし……」


 マルマルは真面目な顔でリソットに持ちかけていた。環カルーア湖漁業組合、というかトラストに似た国際組織を、ロイは立ち上げるべきだとモンジャ漁民、グランダ漁民に言っていたんだ。


「モンジャ漁民の方が多いんだから、どうせそっちのやりたい放題やるだろう。乗れるか!」

「それはない。決め事は話し合って平等にやればいい。いざとなったらあかいかみさまに仲裁に入ってもらえばいいし。なあかみさま?」


 お、パスきた。私は営業用のスマイルでにこやかに


『それは問題ないですよ』


 女子決勝戦の準備をしている間、漁民たちが集まりあーだこーだ言い合ってたけど、するすると話がまとまっていった。


「魚を獲る量を話し合いで決めて、値段も決めるってわけか」

「組織の名前を決めないと。どうする?」


 和気藹々と盛り上がる漁民たちを見下ろしながら、蒼さんがにやにやと頬杖ついて冷やかす。


『陸上競技だけじゃなく、やってよかったじゃん、水泳競技』

『はい、よかったです』


 いや別にこういう展開があるとは思ってなかったけど。確かに水泳競技がなければ、お互い口も利かないような険悪な仲だったんだけど、結果的にはよかったかな。


『仲良くしてくれますよ、きっと』


 最終的に漁業組合は、カルーア漁民連合という何か昔の暴走族のチームっぽい名前になってた。


 ***


 どれほど眠っていたのか、浅い眠りから醒めると先ほどまで部屋にいたエトワールはいなかった。

 彼女のいる神殿の休憩室の天窓から、優しく淡い光が入ってくる。

 鎮静剤で寝かされてはいたが、キララにはメグとエトワールの会話は聞こえていた。


”私の身体を正確に知っているのは、エトワールだ”


 元邪神ギメノグレアヌスであり、キララを幼いころより知るエトワールに、助からないと言われた。

 それは彼女にとって重い死の宣告だった。

 気分が冴えない、吐き気がする、強がってはみても、身体は正直だ。

 もう長くはないのかと、嫌でも気付かされる。白すぎる天井を眺めているうち、温かい液体が頬を伝って落ちた。


「滅んでしまうのだな……」


 私も、グランダも。

 彼女はうわごとのように呟く。

 同じ部屋で、少し離れて座っていたメグの存在に気付かないらしい。メグは息を潜めて医学書を読みながら彼女の呟きを聞いていたが、ややあっておずおずと口を挟む。


「そんなこと、ないです」


 少女たちの視線が合う。

 助けるから、何とかするから。

 メグとキララ。異なる理由で、この世界からいなくなってしまうと宣告された二人。メグは、歳の近い彼女を、他人だとは思えなかった。蒼い神にもエトワールにも助からないと言われたからこそ、何とかしたかった。神々の定めた運命に抗えるだなんて、思い上がりも甚だしいとは思っている。それでも、キララに対して何をすればいいか、メグは知っている。知っているかもしれない。


 私は何をすればいい? 何をすれば?

 キララは不治と言われる病気が治れば、死ななくていいのだ。

 でも、メグ自身は何をすれば向こうの世界に連れて行かれないのか分からない……ならば、せめて彼女だけでも。そんな思いでいっぱいだった。グランダという国のためにではなく、恐らくはメグ自身の為に、キララ個人の為に、彼女は何かをせずにはいられなかった。


 人は確かにいつか死ぬ、それが自然の摂理だというエトワールの言葉も分かる。

 それでも拳を突き上げて、天に叫ばずにはいられないのだ。


 ――これはいったいどういふわけだ 息がだんだん短くなって――


 生きたい、私たちは生きたい。

 メグの思考を、どこかで聞いた詩のようなフレーズが侵食してくる。それは夢の中で聞いていたものだ。


  ――いま完全にとまってゐる とまってゐると苦しくなる――

  ――折角息を吸ひ込んだのに こんどもだんだん短くなる――


 生きたい。私たちはただ生きたいだけなんだ。

 抗うように、首を振る。


   ――睡たい 睡たい 睡たい――

   ――睡たいからって睡ってしまへば死ぬのだらう――


   ――こいつはだめだ 誰に別れるひまもない――

   ――もう睡れ 睡ってしまへ――

   ――いや死ぬときでなし――(宮沢賢治「病中」より抜粋)


 焦燥に駆られていたメグは先ほど見えない医学書の表紙に、3つのボタンがついていたことに気付いた。

 それは、電子書籍には大抵の場合標準装備されている言語切り替えボタン。

 現実世界で言う日本語、国際語、英語を選択できるボタンだった。

 彼女はずっと日本語版を読んで殆ど分からず難渋していたのだが、国際語を選択したとき、医学書の内容が幾分読みやすくなったことに気付いた。それどころか、どの単語を見ても知っているような気がする。

 記憶の淵に、知識の欠片が引っかかっている。


”Mi es ellanme mes du, si ille pregna udalta passo ducta. Vi di situ ses 200mg/kg,……”


”Di di carci bin Sheimer's dis o devop evy 68 secin JN,”


”Ze ir 5.4 million tl 13.5 mil pat”


 そう、彼女が現実世界で学んできた医学知識は全て国際語で記憶されていた。

 西暦2120年代から人文科学系を除く医学、工学、理学、殆どの分野の専門的カリキュラムで、国際標準語が用いられてきた。

 彼女は国際語表示にしてより、かなりのスピードで医学書を読み解くことができるようになった。

 その記憶は虫食いになってはいるが、意識して引き出そうとすればするほど鮮明になってくる。

 獣医学とは多少異なるものの、共通している部分もある。彼女は夢中になってページを繰った。


 彼女は格闘の末、知ったのだ。彼女の病を癒せるかもしれない、ある危険な方法を。

 メグの孤軍奮闘を知ってか知らずか、キララは没後のグランダの心配をしていた。


「我らスオウの血筋がここで途絶えてしまうからには、新たな政体構築のために遺言を残しておかねばならぬ。父の親族から新たな王家を立ててもよいが、血筋はさして重要だとは考えない。そなたもロイも、平民ではあるが優秀だ。そのような者をこそ取り立てたい。国を動かすのは、必ずしも王家でなくともよい」


 グランダの文官か武官の中から誰か一人を統治者として選んでおくということもできる。

 だが、次の代の統治者は誰にすればよいのだろう。文官、武官全員で政治、となると決議権がないので会議は紛糾しそうだ。

 グランダでは家柄が重要視されてきたため、文官、武官の中にも優秀でない者もいる。

 メグは頷きながら黙って聞いていたが、ふと何かに思い至ったらしく


「みんなに選んでもらったらどうですか」

「それはどのように?」


 国の代表になりたい者が政策を決め、代表候補の中から任せたい人を民が多数決で選ぶ。

 選ばれた人が政治をする。

 定期的に選挙をして、支持がなければ落されて他の人が国の代表になる。メグが提案したのは、大統領制に似た何かだ。キララはほうほう、と興味深そうに目を細めた。


「ロイが集落の長になったのは、皆が彼に長になってほしいと思ったからです。ロイにもし子供ができても、皆はロイの子だからといって集落を任せたりはしないと思います。その時に集落に必要だと思う人を、皆で選ぶんです。選ばれる人は一人でも、たくさんでもいいと思います。ロイは代表者を二人以上にしたいと言っていました」

『なるほど、それは興味深いですね』

「あ、あかいかみさま?」


 どこから現れたとも知れない、赤い神が部屋の天井に浮かんでいた。転移術で頭をぶつけたらしく、こっそり後頭部を擦っていた。水泳大会女子の部が始まる前に時間があったため、彼はキララのもとにお見舞いに来たのだ。


「どこから来ました?」


 扉は内側から閉められていた筈だが、とメグは首をかしげる。

 さっぱりとした短髪、動きやすそうな機能的な白衣、膚にはまだ癒えていない生傷。

 風貌が劇的に変わった彼にキララもメグも驚き戸惑っていた。


「昨日と随分雰囲気が変わったな」

『ああ、髪の毛を切って服を着替えただけですよ。あと、ちょっと擦りむいたり』


 3か月間、亜空間で地獄の特訓を受けてきたという事実は語られない。


「何故そんなに強くなった」


 キララもまた、驚愕していた。今、そこにいる赤井がまるで別神のように感じる。

 彼女の知る彼は、お世辞にも強い神ではなかった。

 力がなくとも誰よりも信念を貫く、そんな直向きな姿勢に心打たれ彼女はギメノグレアヌスへの信仰を破棄し彼を敬愛したのだ。

 彼ははぐらかすようにふと表情を緩めたが、応えはなかった。

 

『どうですか調子は、熱があるようですが』


 何事もなかったかのように穏やかに語りかける赤井に、キララはそっぽを向く。


「どうということもない。それより水泳競技はどうなった。女子の部は見に行くぞ」


 キララは忘れることなく結果を聞いていた。こんな時でも容体が悪いのを隠すなんて、とメグは胸が痛む。そっと、メグはキララの肩に手を添えて諭すように首を振った。


「無理しちゃだめですよ」

『グランディア水泳競技男子決勝戦は、モンジャとグランダが同着一位でしたよ』

「グランダが勝ったのか。それは何よりだ」


 彼はキララの為に、結果を詳しく丁寧に解説していた。モンジャとグランダの漁民が和解する運びになりそうだということ。聞き終えたキララは、気が晴れたようだった。


「ではなおさら女子の部を見に行こう!」


 キララが腰を上げたときだった。


「かみさま、お願いがあります!」


 メグが慌てたように赤井に呼びかけた。


『何でしょう』

「この本には、キララさんの病気を治すにはこつずいの移植をすればいいと書いてあります。皆の骨髄の型を、調べてもらいたい、もしくは調べる方法を教えていただきたんです。その人の細胞をキララさんに移植すれば助かると思うんです、それで」


 彼は、最後まで言い終えないうちにメグが何を言いたいのかを察したようだった。


『そういうことでしたら、私のを使ってください』


 彼は屈託なく言い切った。

 むしろ、メグの目から見た彼は喜んでいた。

 嬉しいのだ、人の役に立てるということが。

 苦痛など何とも思っていないのだ、メグはまざまざと見せつけられる。

 呆れるほどの、慈善を超えた超えた一方的な慈悲を。


「かみさまの? ……そんなの……。それに、拒絶反応が」

『拒絶反応は出ませんよ。人間の免疫では異物として認識できませんからね』


 生物種が異なる同士の細胞を移植することはできないはずだ。

 免疫系が異物として認識するから。

 免疫という項目を読めば、異種移植を行った場合、急性拒絶反応、そして遅延性拒絶反応というものが出る。赤い神がネストで語ってくれた免疫系の話とかぶらせながら、メグはやはり同種移植が安全だと確信している。


『私の造血幹細胞がお役に立つなら、どれだけでも差し出しますよ』


 メグは思い出す。

 ネストの城で彼が何十種類という毒物を自ら獲りこみ、抗体を産生し、それを人々に分け与えていたことを。血液型の違いですら問題ではなく、彼らのうち誰一人として神の血液に拒絶反応を示したものはなかった。キララもその一人だ。

 神の血液とその細胞は人の糧となり、特別なものなのだろう。

 神の身体を医学で暴くことはできない。

 思わぬところからひょこり現れたドナーに、メグはエトワールの言葉が実現したことを思い知った。


”君の神に祈るがいい”


 エトワールの言った通りになった……彼は不可能を可能にする神だ。

 そうだったのかもしれない、キララにとっては。


『では、約束通り女子決勝を見に行きましょうか。まだ間に合いますよ』


 彼は軽々とキララを抱き上げて背中に負った。


「む、どういうことだ? 何を言っているのか分からぬぞ」


 一人、話の飲み込めないキララに、メグは震える声で朗報を告げる。


「あかいかみさまが助けてくださるんです。神様の身体の一部を貰って、あなたは長生きできるんです。おばあちゃんになるまで」

「何、そうなのか!?」


 思わずぎゅっと背後から赤井にしがみ付いた。

 キララは赤井の肩のあたりに顔を埋め、そのまま身体を震わせていた。


「よかったですね!」


 ……生きれるんです、私よりずっと。

 ほっとすると同時に、メグは笑顔がぎこちなくなるのを自覚しつつ、無理やり笑顔を作った。

 メグは赤い神に祈りを捧げ感謝を絶やさない。

 祈りを続けて彼を信じていれば願いは叶うだろうか。

 この世界から離れたくない、遠くに行きたくない。


 助けて、あかいかみさま。

 しかし彼女の切ない願いは、彼の手によって首からさげられた看破を遮るペンダントに阻まれ、赤井に届くことはなかった。



 ――睡たいからって睡ってしまへば死ぬのだらう――


 振り切ろうとしても振り切ろうとしても、まだあのフレーズが、呪詛のようにメグの脳髄に響き渡っている。


  ***


 話はグランディア開催の暫く前にさかのぼる。

 ミトは、ネストの平民の少女である。

 年の頃は15歳ほどだろうが、定かではない。

 彼女は痩せこけて貧相な娘だった。

 洞窟の集合住宅の最下層に近い場所に、父と二人で貧しく慎ましやかに暮らしていた。

 数年前より渇水による大飢饉がネストを襲っていた。

 父は飢えをしのぐため、ミトの為にと食糧を求め、呪われしネストの森に降りてしまった。

 一日たっても二日たっても帰還せず、父はそれきり帰らぬ人となった。

 赤い神がネストを訪問し森が浄化された頃には、彼女は天涯孤独の少女となっていた。


”何もかも、遅すぎました。神様が来るのが遅すぎました、どうしてもっと早く来て下さらなかったの”


 ネストの慰問に訪れた赤い神に、神をも恐れず、思わずそう言ってしまった。

 そのとき赤い神はただ一言『本当に申し訳ありませんでした』と謝罪をしてくれただけだ。

 心がこもっていたのか、口先だけのものだったのかは分からない。

 ただ、ミトはその日以来、失望のうちに赤い神への祈りを絶やした。

 信心が人を救うわけではないと、ミトは気づいたからだ。


 ミトは身よりもなく、父は貧しかったため、遺産は勿論畑も家畜も所有していない。

 だからといって痩せこけて貧相な見てくれでは、縁談もなかった。

 ネストの男性は豊満で艶美な女性を好む。

 彼女は生計を立てる為、浄化されたネストの森で茸類をかき集め、それらを売る為にグランダの市場に赴くことにした。籠を背負い、精霊モフコの架けたという立派な高架橋を通ってグランダに入る。


 城塞都市グランダは世界一の大都だ。モンジャ、グランダ、ネストの中核都市として、世界中の人々が集まってきていた。旧城壁の壁沿いにグランダの市場が軒を連ね、活気に溢れている。彼女は市場にスペースを見つけ、午前中たっぷりかけて大小、赤青緑のカラフルな茸類を売り、わずかばかりの共通通貨のテツを手にした。モンジャ織りの色鮮やかな手提げ袋と、食糧を買った。


 道端で、赤い神の神殿という看板を見つけ、何となく辿って行くとミトはカルーア湖のほとりに出た。湖の上に長い長い、一直線の白い道が見える。

 道行く人々に聞くと、神殿へとつながる桟橋だという。

 桟橋の袂には、カルーア湖という真新しい石碑が立っている。


「水たまりだ……なんて大きな」


 涼しい風が沖合から吹いてきて、ミトの不揃いで重たい、茶色の前髪を揺らした。


「水はこんなに、あったというの……」


 ミトはたまらなく、きゅっと胸が苦しく締め付けられる。

 見渡すかぎりに大きな水たまりで、対岸が霧に霞んで見えた、向こう岸にあるのはモンジャだ。


”神様って、不公平で意地悪だ……”


 さらには


”ミシカ様が勇気を出してグランダに飛んで行かれなければ、神様は助けに来なかったのかな?”


 そうかと思えばぽろぽろと涙が出てきて、彼女は力が抜けてしゃがみこんでしまった。

 カルーアの水があれば、父は死なずに済んだ……それどころか、ネストの誰も飢えずに済んだ。

 神様はネストの民に何と辛い試練を課し給うのか。

 朝に晩にと祀り、祈りをささげてきたのに。

 見て見ぬふりをしておられたのだろうか。彼女が参道の袂で声を殺して泣いていると、ぽんぽん、と背中を背後から優しく叩かれる感触がした。


「ん!」


 涙を拭い、顔を上げて振り向いてみるとどうだろう、背の低い少女がこちらを心配そうに見ているではないか。口に何かをもぐもぐしながら、黄色と紫のしましまのワンピースを着て、上着としてシツジの毛織物を着ている。

 衣装がモンジャ民に似ている、それも、ネストに赤井神と共に訪れたメグが持っていたのと同じ衣装だ。メグはネストに、いくつか乾燥に強い作物を齎した。

 ネストの民は彼女に感謝をしている。

 彼女は一匹の大きな何かを焼いた串をミトに差し出した。

 黒くこんがりと焼けたカルーア湖の美味な魚だったのだが、ミトは魚を見たことがなかった。

 塩がまぶしてあるのか、尾はぱりぱり。

 見たこともない料理に、ミトが戸惑っていると。


「ん! あげる!」


 ずいっと突き出した串を握らせようとしいるのか、さきほどより更にミトに近づける。

 ミトは思わず手に取ってしまった。


「食べてみて、ほっぺた落ちるから」

「う……うん。でも、一串何テツするの? というかこれは何」


 田舎者を狙った押し売りかもしれない。ミトははっと気づき、返そうとするが


「これはお魚。テツなんていらないいらない。ほら、かして! 身をとってあげる」


 小骨に苦戦しつつ魚を一串ずつ頬張りながら、彼女らは通行人に邪魔にならないように桟橋に腰かけ、カルーア湖に脚を投げ出して水にあそばせ世間話をする。


「すごく……おいしかった。ありがとう」

「元気でた? あれはピチピチってお魚なの」

「……どうして、声をかけてくれたの」


 するとお人よしの少女は楽しそうに笑って


「モンジャってさ、どこからともなく時々人が流れ着いて来るんだ。昔からそういう人たちを集落で受け入れてて! だからほっとけないんだ、泣いてる人とか見ると。かみさまも、困っている人は助けてあげてくださいってそう言ってるし。気にしないでね、モンジャの民の性分なんだ。あたしじゃなくても、誰でもそうすると思うよ」


 さばさばとした口調で、カラカラと快活な少女だった。茶色の髪の毛を、おさげにしている。


「赤い神様がそう仰ってるの?」

「うん、いつも言ってる。何か変かな」


 変じゃないけど……、とミトは複雑な気持ちになる。

 微妙な沈黙になってしまったので、ミトは話題を切り替えて


「モンジャの人で、メグ、ロイ、ナズって人がネストに来てくれたけど、元気かな」

「ああ、メグとナズはあたしのあにさまとあねさま。あたしと違って出来のいい二人でさ! すーぐどっかいっちゃうの、かみさまと一緒に。あたしは小さいからいつもお留守番、まあお留守番、好きなんだけどね」


 二人で並んで、時間を忘れ雑談をするうちに、孤独だったミトの心がほぐれてゆくのを感じていた。

 午後になると、トンカントンカン、グランダのはずれのほうで大きな音が聞こえていた。


「あの、大きな音が出ているのは何をしているの?」

「グランディア世界大会がはじまるのよ。皆とっても楽しみにしてる、初めてのお祭りだから」


 確かに、ネスト王パウルから、グランディアに出たい者は出るようにとおふれがあった。


「誰でも出られるのよ! あたしも水泳じゃないけど出るし。ミトも出たら?」

「私は、そんな」


 足も遅いし、武器など取ったこともないし運動神経も悪い。これといった取り柄もない。関係のない話だと思っていた。


「グランディアで優勝したら、かみさまが好きな賞品をくれるんだって」

「好きな賞品って、どんなものでも?」

「んー、特に制限はついてなかったけど。何でもいいんじゃないかな、かみさまケチケチしないし」

「例えば、死んだ人でも? そんなわけ、ないか」

「うん? あたしのあにさま、かみさまに生き返えらせてもらったんたけど?」


 うっかりとカイがそんなことを言ってしまったものだから、ミトは真に受けてしまった。


「!?」

「……えと、ミト? 痛い……よ?」


 気が付けば、ミトはカイの両手をきつく掴んでいた。




 そして――


 グランディア女子決勝を終え、表彰台に彼女は立っていた。

 ――ネスト唯一の女子水泳選手は、勝利をもぎ取った。

 赤い神の手によって勝者の冠を戴いた。誇らしいとは、思わなかった。だってそれだけの努力をしてきた、目的のための勝利だったから。


 カイの話を聞いた後、モンジャの集落に泊まり込んで昼夜を問わずカルーア湖で泳ぎの練習した。カイはそもそも、現実世界の流体力学にかなった泳法、クロールを知るメグからそのままの泳法を教わってきた。そんなカイはミトにとって最良のコーチだった。

 ミトはモンジャの集落で漁を手伝い、雑用と下働きをしながら、腹筋、背筋などの筋トレも怠らなかった。持久力を付ける為にカルーア湖の周りを走り込んだ。

 全ては亡き父に会いたくて、ただそれだけのために辛い練習にも耐えた。スピードは努力で補えるし、相手は女子だ。カイもメグも水泳競技に出ない為、クロールで泳ぐ選手はほかにいない。特に、女子水泳は選手自体が少ないため、第一回という状況がミトに有利に働いた。

 大差で、とまではいかなかったが、頭一つ抜けてゴールした。


『おめでとうございます、ミトさんの栄誉を称えます。何を望みますか?』


 この時を待っていた。


「……父を。生き返らせてください」


 ドキドキと胸を高鳴らせながら、彼女は希った。


『それは、無理です。一度亡くなった人間の肉体を再びこの世に連れ戻すことはできません』


 彼は悲しげに首を振った。

 ああ、あの時と同じだ……神様はいつも、私に意地悪をする……頭の中が真っ白になる。

 彼女のたった一つの願いは、音をたてて消え去った。

 ショックのあまり言葉も出ない彼女に、代わりにこれを、と赤い神は碗のような白い石器を彼女の手に握らせた。


『それで、おいしい水を飲んでください』

「はい……」

 

”欲しいのは、これじゃないです……これじゃないんです……”


 言えなかった、それだけの勇気はでなかった。

 違う。欲しかったものではない。

 あなたが見て見ぬふりをした、元気な頃の父を返してほしい。

 彼女が悔しそうに赤い神を見上げるが、彼は他の方向を向いてしまい、それきり視線が合わなかった。はぐらかされたように感じて、ミトは表彰台をとぼとぼ降りた。


 じっと、美しくはあるが何の価値もないであろう白碗を眺めた。


「喉、かわいちゃったな」


 緊張と興奮、疲労が蓄積し、喉が渇いたのも確かだ。

 彼女は水を求め神殿にふらふらと入った。

 柱列を抜けると聖水を湛えた石台がある、誰でも好きなだけ飲んでよいとされている、世界一清浄な冷水だ。

 苦い勝利を噛みしめるなら、この聖水が相応しい。

 碗をそっと差し入れれば、透明な液体が充ちる。

 口をつけようとして、水面が青白く輝きを放っていることに気が付いた。

 碗の中の水は限りなく澄み渡り、鏡面のように平らだった。

 中から幻聴のように、何かが聞こえてくる。


『いつまでもしょぼくれた顔をしているんじゃない』


 聞き覚えのある声が彼女の耳朶を打つ。

 忘れもしない彼女の父の声だった。

 慌てて覗き込むと父の姿が水面の向こうに映り込んで、笑顔を向けている。


『優勝、おめでとうミト』


 彼女が与えられたのは、ミトの父のいる世界とこちらを繋ぐ窓だった。



 *


 というわけで、夕方までには女子決勝戦も無事に終了。

 優勝したのはミトってネストの子だ。

 キララも嬉しそうに観覧していたし、無事に表彰式も終わった。

 この子の優勝賞品は亡くなった父親って聞いてたから、モフコ先輩と相談して父親のデータにアクセスできるようにしてあげた。

 どうだろ、気に入ってくれたらいいけど。

 観客はぞろぞろと引けて、私達構築士は片づけに入る。

 モフコ先輩がカルーアマラソンのコースを跡形もなく消去し、ブイも漏れなく回収する。

 明日から漁師さんたちも普通にカルーア湖で漁ができる筈だ。

 私も片づけを手伝う為にインフォメーションボードを開こうとしたときだった。


『あれ? あれあれ?』


 おかしい! 何でボード開かないの。

 角度を直角にしてみたり、四苦八苦しているとモフコ先輩が


『どしたの赤井さん?』

『私のインフォメーションボードが故障中みたいなんです』


 スクウェアを描けど描けど、開いてくれない。

 こんなの初めてだよ、地味に困るよインフォメーションボードの情報も機能もかなりあてにしてるからね。モフコ先輩は色々と試してみてくれたけど


『ロックかかってるよ? 現実世界の人が赤井さんのボード間違えてロックしちゃったのかな? すぐ解除してもらおう』


 仮想世界側じゃ埒があかないから、ということで黒澤さんに連絡して数分後。


『え、私のボード、誰かが開いてるからロックかかってるんですか!? 誰が?』

『それがな、ロイだ』


 ロイが――!? 

 なにそれやめてよ! どうやらロイが第五区画でボードを開いてるらしいけど、遂に私の神通力でボード開けるまでになっちゃったの!? 

 絶叫する私らと、慌てていたのはシステム担当の現実世界の技官の人たちだ、てんやわんやになっている。

 第五区画と基点区画の時間の流れは違う。

 第五区画は再生速が何倍か早くて、夜中になっているとのこと。

 てかどういう状況でロイが私のボード開いてるわけ? 

 そんな、日常生活送ってて自然にスクウェアを書くことってある? 

 国民の皆様もありませんよね。

 「おべんとうばこのうた」歌うときぐらいか?


 第五区画の構築士に言って閉じてもらうか、ロイがボードを閉じた瞬間に私が開いて逆にロックをかければいい、と黒澤さんは仰る。

 確かにインフォメーションボードは神通力を供給し続けないと開きっぱなしにはできない。

 神通力ないときは指でずっと触れとかないと勝手に閉じる。

 つまり、ロイは絶対にボードを閉じるわけだ。


 私は暫く考えて、ある賭けに出ることにした。


『黒澤さん、お願いがあるんですが』 


 ***



 ロイはインフォメーションボードを見て直後、消えてもなお硬直していた。

 畏れというよりは好奇心、魅せられていたというのが正しい。

 彼の人生において初めて出会ったAR(拡張現実)の、人工光のボードだ。

 彼の指は迷うことなく再びスクウェアを閉じる。


 ぷっかりと頭上に現れたボードは見慣れぬデザインで白い飾り枠がついていた。

 先ほど見たボードと微妙に違って、機能性では一段劣るもののレイアウトが整っていて美しく、見た目にシンプルだ。

 ロイはボードに顔を近づけ夢中で文字を辿った。

 ボードに描かれていたのは神聖文字ではなく彼の慣れ親しんだ、そして彼自身が中心となり創り上げてきたモンジャ集落の文字だったからだ。

 整然と美しく整ったフォントを見れば、感動すら覚える。

 人間の手では、こうは書けない。


『どうでしょう』


 聞き覚えのある声に弾かれ、ロイはぴんと背をそらせた。


『気に入っていただけるといいのですが』


 ボードの一部に四角い窓ができていて、白衣を着た青年がロイを見守っている。

 誰と確認するまでもない。彼はその声をよく知っている。赤い神であった。


「――!?」

 

 そう。

 ロイの見ていたものは赤井が黒澤に注文した、特注のインフォメーションボードだ。

 モンジャ語対応で、しかもロイが使い易い彼専用のインフォメーションボードを作ってあげてほしい、と彼は黒澤に注文した。

 赤井は賭けに出たのだ。

 一度インフォメーションボードの存在を知った以上、取り上げるような事をすれば逆に不信感を懐かせ、彼の心をこわばらせてしまうだろう。

 インフォメーションボードの存在について、ロイの納得のゆく説明を赤井は持ち合わせていない。

 ならばいっそロイに使わせてみてはどうか。

 ただし機能制限つきで、構築スキルの一部分は使えず、物性解析と演算ができるボードだ。

 ついでに、通信機能もつけてくれと、こまごまとオーダーした。


「神様……っ、あの……あ、」


 画面越しに変わらず穏やかな彼を見て、ロイは思わず顔をそむけてしまいそうになった。

 彼は怒ってはいないようだが、合わせる顔がない、謝罪をしなければならない、神雷を送ってくれたことに感謝をしなくては。

 だが、感情が洪水のごと押し寄せて、口から出てくる音は定まらない。


「あり、……んなさい!」


 ありがとうございましたとごめんなさいが一緒になって口から出てきた。

 ロイにしては珍しい失態に、赤井は気の抜けたような顔をしたが、そこは空気を読んでつっこまなかった。


『元気そうですね。無事で何よりです。私への書簡は読ませてもらいました』


 ああ、とロイは悲嘆にくれる。

 結局、どこまで行っても偉大なる神から逃げ遂せることのできる場所などないのだ。

 彼の手の上を這い回るちっぽけな存在でしかない、飛びだすことも、行方を晦ませることも不可能だ。彼の支配力を言外に示されロイは慄然とする。

 一体どんな罰が待っているのだろう。


『旅に出たいという旨、よくわかりました。しかしできることなら、私はモンジャに帰ってきてもらいたい』


 彼の行動を見ていたかのごと、赤い神は熱を込めた様子でロイに告げる。


「赤井様は、俺が何故逃げ出したかご存じでしょう。いつか自分が変わってしまうかもしれないと考えると、そこに待ち受けるのは恐怖だけです」


 ロイはコハクから聞いた話をぼかしつつも、いつか彼を裏切ってしまうかもしれないと危惧していると素直に伝えた。

 そしてまた、ロイ自身が不老にして長寿だというのは本当かと赤井に問うた。


『ええ……そうです。あなたの身体は特別です』


 赤井は辛そうに視線を伏せ、しかし避けずに厳かに答えた。

 よく考えば妙だと思っていた。

 赤い神が自分にだけ神通力を持たせてくれたこと、身に過ぎたる知識と力を、特に自分にだけ与えてくれたことを。


『しかしそれが何だと言うんです。そして今現在・・・、あなたが私に何か謝らなければならないことをしましたか』

「…………………………」


 ないはずだ。

 と、ロイはここまでの行動を振り返る。赤井を心配させただろうが、疾しいことはしていないはずだ。自らの信念と神の信頼に叛くことはしていない筈だ。


『あなたがまだ疾しいことをしていなければ、何も後ろめたく思う必要はない、仮にそうなったとしても』


 彼の言葉が固くなっていたロイの心をゆるりとほぐしてゆく。


『何が起こっても私は不滅ですし、息子のように思っているあなたを決して手にかけたりなどしません。ですから何も問題ありませんし恐れなくてもよい。なにせ先は長い。命永き者同士、道連れとしてのんびりと歩んでゆきましょう』

「赤井様……俺は」


 神託を理解し、飲み込むまでに暫しの時間を要した。


『あなたが見上げ、骨を埋めると決めた神殿の神樹に、私が最後どのような花を咲かせるか。私の完成させる世界がどのようなものか』


 赤い神の一言一言が、ロイの胸に深く深く刻まれてゆく。


『この世界を去る生きとし生ける生命の代表として、あなたにたゆまず見届けてもらわねばなりません』


 自分は一体何を畏れていたのだろうと、そこまで言われてロイは自らを恥じた。

 彼を裏切る運命にあること、彼に粛清されてしまうこと。

 それはつまり、彼を信頼していないと言っているようなものだ。

 モンジャの民の顔を次々に思い出した。

 彼のウィンドウの背景は、夕暮れのカルーア湖をあかあかと映している。

 懐かしい、全てが懐かしい。

 あの場所に帰りたい。

 自分を受け入れてくれる場所に、そして何より、彼の創り上げる世界から目をそらせたくない。

 彼はそう思った。

 もはや、迷いは消え去っていた。


『帰ってきてくれますか?』

「……はい」

『それはよかった。私もですが、皆があなたを待っていますよ』


 徐々に肩の力の抜けてきたロイは、赤井にカラバシュという島の置かれた現状を伝えた。

 惨状を見てしまった以上、ただモンジャに戻るわけにはいかない。


『そのことですが、私はそちらに行けないのです』


 赤井は申し訳なさそうに応える。

 彼はこの世界をまだ掌握しておらず、世界を造り上げてゆくためにはルールがあって計画通りに構築し、世界を治めなければならないのだと。


『私は少しずつ世界を繋げ、一つにしてゆきます。カラバシュにまだその時は訪れていません』


 だからカラバシュの地に赤い神は踏み込めない、しかし遠からず赴く予定だと。

 そして知ったのは、赤井神がカラバシュにロイを迎えに来ない限り、ロイもまたモンジャに戻れないということ。

 世界が断片化しているからだ、と赤井は言う。


『大陸とカラバシュの間にある時空の歪みに、あなたは呑み込まれてしまったようです。ですから私がそちらに行くまで、あなたはその島から出られない筈です』


 カラバシュから出られないし他の島にも行けない、カラバシュに逗留するしかない。

 ロイは納得して深く頷いた。

 場合によっては年単位で迎えに行けなくなるかもしれないとのこと。

 それを聞いてロイは、ますますカラバシュを自力で何とかしなくてはならないと奮起するのだった。


「神様が世界のことわりに束縛されているということはよく分かりました、そしてカラバシュにお越しになることができないという事情も理解しました」


 まだ機が熟していないから危険なことはせず隠れていてほしいと言われたが、ロイは聞き入れられなかった。

 彼らを見捨てられなかったのだ。


『そうですか。……ではあなたがカラバシュにいる間、あなたに守りを授けておきます。あなたが見ている、その光の板です』

「これは、どういうものですか」

『物質を解析し物質を造りだす、私の神技の一部です。使用法は説明しますから、慣れるとよいでしょう』

「俺に、使えますでしょうか」


 使えますとも、と赤井は太鼓判を押す。

 あなたがかたときも休まず培ってきた、ことわりの知識があるではないですか、と言って笑うのだ。


『ただ、悪しきことには用いぬよう。あなたが力をどのように使ったか、遠く離れていても私は見ています』 

「承知しました。大いなる恵みに感謝します」


 赤い神から丁寧に、インフォメーションボードの使い方の説明を受けた。

 飲み込みのよい彼は、直感的に理解してゆく。


『ロイさん、ひとつだけ厳命します』


 赤い神は真剣な表情でロイに向かう。

 ロイは緊張して唾を呑む。

 彼が命令という言葉を添えてロイに話しかけたのは、これが最初だった。


『生きてください』


 神意を知り、長い通信を終えた。

 彼は暫く放心していたが深呼吸し心を整えると、インフォメーションボードを起動し構築モードへと移行させる。

 大きな白いウィンドウの中に、小さなウィンドウが出現した。

 小さなウィンドウには原子番号順に、モンジャの記号の書かれた球体、そして小さな棒がずらりと縦一列に並んでいた。

 彼は丁寧に8番目の元素、1番目の元素を一つずつ大きなウィンドウにドロップして、それらを組み合わせ、数量を指定し出現させる。

 それらを構築するために必要な神通力の量が表示される。

 構築に必要なエネルギーは、ロイではなく赤井のアトモスフィアから差し引かれる。

 決して無駄遣いはできない。

 ロイは掌一杯分の水を望んだ。


「赤い神の御名において」


  27管区世界の化学式にして1(2)-8の元素、つまり水だ。


「きたれ」

 

 ボードに左手を置いて実行を念すれば、柔らかく湾曲させた彼の右手に、空間の隙間から清らかな水が零れてくる。

 きらきらと発光し輝くそれはまさに、赤い神の秘蹟と呼べるものであった。


 かの神がこれまでに成してきた神業そのものが、自らの手の裡にある。

 神の見ていた世界を、少しだけ垣間見ることがゆるされたのだ。

 ロイは歓喜に震え、そして偉大なる神の力を畏れ、その水を一気に飲みほした。


”神様……俺の願いを叶えてくださったのか”


 それは新たな契約の証であった。


 夜が明け、日が高く昇るまで、ロイはインフォメーションボードの研究に勤しんだ。

 液体、固体、気体……思うがままだ。

 幼少期より化学を学んできた彼の記憶が、赤い神と遜色のない迅速な構築を可能とさせた。

 そればかりでなく、インフォメーションボードはウィンドウの領域内にとらえた物質の構造を解析し、その組成を暴き出し化学式として出力する。

 ロイは自らの手をターゲットに解析した。

 すると、情報の洪水となって視界に飛び込んでくる。

 自らの肉体が、生体分子という分子情報の塊によって成り立っていると彼は知ることができた。

 せわしく動き回る、情報たち。

 今、ロイは赤井の言っていた生化学の領域に踏み込んでいる。


”何てことだ……神様はいつもこれを見ておられたのか”


 スクウェアを描くたびに応える、奇跡的な現象が嬉しかった。

 それは彼に授けられた信頼の証であったから。

 彼がA.I.であると知らなければ、誰の目から見ても構築士のように見えただろう。


 朝日が昇り、起きてきたピケとマリに食糧を惜しみなく分け与え、持参していたグライダーを拡げ、風を孕ませ、全てのラインがいたんでいないか、彼らに手伝ってもらって確認した。

 今夜決行だ。

 作戦に変更はない、作戦は複雑すぎない方がいい。


 両手を擦り合わせ、種火を起こし神炎を引き出す。

 焔が踊り、舞い、随意の出力を得る。

 神雷、神炎、物理結界に加え、創造の光板という心強い守りも加わった。


「行ってくるよ」


 神より課せられた使命は、ただ生還のみ。

 運命の夜がやってきた。

 ロイにすっかり懐いてしまったピケ少年と、マリがロイを見送る。


「ロイのあんちゃん。ぜったい、帰ってきてくれるよな」

「いい報せを持って帰るよ!」

「ロイさん。やはり私は無謀だと思いますし、何よりカラバシュと縁のないあなたが命を懸けるのはいけません、どうにか思いとどまってはもらえないのでしょうか」


 マリは罪悪感に押しつぶされそうになっていた。

 ロイを死地に向かわせることはできない、これはカラバシュ全島の問題であって旅人を巻き込むことではない。


「何とかなるような気がするんだ。喧嘩しに行くわけじゃないし、話をしに行くだけだよ」


 ロイはマリとピケと固く握手をした。

 思い描いていた通りの、新月だった。完全な闇ではないが雲が出ているため星も遮られて闇に近い。


 ピケ少年とマリを安全な洞窟に残し、最も高い丘の上に登った。

 山頂は進行方向に対して追い風である。

 ロイは背負ってきたグライダーを開き、腹ごしらえをしながら風向きが整うのを待った。

 無風であれば出発してよいが、逆風で進路が流されるのは避けたい。

 ラインを取って強く握りこみ、一気に駆け出した。

 くんっ、と風を掴めば、翼が展開し独特の浮揚感が体を包む。


 パンパンに膨らんだ翼がぎっしと、更に軋み声を上げた。

 ロイを乗せた機体は風を孕み、勢いよく舞った。

 ここに至るまで何度も飛翔のイメージトレーニングを重ねてきた彼は、夜間飛行、夜の怖さを知っている。まず、機体の揚力となる上昇気流ができない。

 目的地の視界が悪く、方向感覚を失う。

 着陸に失敗すると死につながる。

 島の向きが変わってしまったら、目的地までの風向きが頻繁に変わってしまえば、思うように飛距離は伸びないかもしれない。


 サーマルスポットは、夜間には存在しない。カラバシュ全土が下降帯なのだ。


「ないのであれば、造りだすまで!」


 進行方向向いて神通力で手の中に炎を灯し、空気を暖め足元に穏やかな熱圏を彼はバブル状に放った。バブル状の上昇気流に翼端から侵入、機体にバンクをかけ小さく回す。

 翼は敏感に反応し、ぷかりと垂直方向に浮かぶ。

 熱気球の原理とパラモーターの飛行原理を用いる。

 標高が高くなればなるほど、ロイの放つ熱風と外気温の温度差は激しくなる、それだけ上昇率も高くなる。


「いいぞ……予定通りだ」


 決して焦らず、地上から視認されにくい無人の丘の上で、十分に高度を上げて保持した。

 高度の落ち着いたところで、インフォメーションボードを起動。

 何か利用できる情報がないかと目を配ると、シン換算で高度が表示されていた。

 彼は目標までの沈降係数を勘定に入れた。


「ありがたい」


 高度600シン(1116m)に到達した頃、ロイは身体の重心を移動させ、方向を定め機体を前進させた。


「いい眺めだな……」


 不思議なほどに、心は穏やかだった。

 AR表示されたマップが実際の地形と重なり合い、いっそ恐ろしいほど順調にナビゲートをしてくれる。使い方は赤い神に聞いた通りだ。

 目的地をタップして杭打ちをしておくと、自動で案内をしてくれる機能がある。

 ロイは地上にいるうちに、ナビゲーションを試して使い勝手のよさを知っていた。

 熱と風。

 それは飛行体にとって貴重な揚力だ。繊細かつ高度な機体の操作が要求される。


 彼は風に乗り、最短航路で機体をひた進める。

 一路、暴君マスク・メローヌ帝の居城を目指して。


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