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第4章 第9話 わたくしという現象についての客観的考察◆★

【アガルタ第二十七管区 第3391日目 第二区画内 第2日目】

【総居住者数 2870名(第二区画内 958名), 総信頼率 99%(第二区画内 100%)】

【アガルタ歴9年106日 午前11時02分】


 ネストの森では、第三の試練が始まっていた。


【第一問 緑】


 彼らに提示された設問は僅かに漢字一文字。


”主語も述語もあったもんじゃないな。何を訊いてるのすら分からん”


 現実世界では日本語のままならない、カナダ人構築士エトワールも呆れる始末。


『……そうですね。これでは何の問題か分かりません』


 これには頓知の一休さんも真っ青だ、いやしかし一休さんなら……一休さんならやってくれる筈、と赤井が今日も下らない妄想で頭をいっぱいにしている。

 そんな赤井の暢気さ加減に、読心術をかけていたエトワールは辟易どころか感心するのだ。

 赤井は徹頭徹尾、度し難い楽観主義者なのだな、と。


 エトワールが仮想世界で苦痛に対する恐怖を覚えず、非常時においてもパニックを起こさず、人間の本能的行動を取らず、その状況に応じた最適な判断を下すことができるのは、ただ単純に人格矯正プログラムとの融合を果たしてログインしているからだ。

 それはエトワールが優れているから、ということにはならない。


 一方の赤井の脳はほぼ生身、それでいて彼はあらゆる環境に適応できている。

 生来のものとしか考えられない、俯瞰的なものの見方は彼の何に由来している――。


”仕方ない。一問目は捨てよう赤井君、設問不十分だ。これが解けなければどうなると思うかね”

”えーと、先ほどは双頭の大トカゲが出てきましたよ”

 

 出てくる敵がその程度なら故意に回答を落としてもかまわないだろう、とエトワールが高をくくる。

 思考することを放棄した有能な彼の片腕、兼参謀の判断は迅速だ。

 肉を切らせて骨を断つ心積もりで、ルールが判明するまでの最初の一問は捨てる。


”そうですね、この一問は見送って私とエトワール先輩で何とかしましょう”


 この一連の試練と銘打ったパズルの解法は、ルールが判明するまでの被ダメージをどれだけ最小限にできるかに掛かっている。

 パズル自体の難易度はさして高くない。

 二人の構築士は目配せし、互いに念話で合意すると頷き合った。

 ネスト民とロイやキララたちが二人の構築士達に、熱く期待を込めた視線を注ぐ中、


「赤井、今度の謎解きはどうなっているんだ。もう始まったのか」


 先ほどの二つの試練で要領を得ているキララが赤井を問い詰める。

 下手に動き回れば赤井とエトワールの行動を妨げると、彼女は弁えていた。

 同様にロイも、何が行われているのか分からないながらに、いつものように背筋を正し、聞き耳を立て警戒を怠らない。


【カウントダウン開始 10】


 素民たちには見えざる情報をみとめた、構築士たちの間にぴりっとした緊張が走る。


『残り9秒だ! 何かが起こるぞ、身構えておけ!』


 エトワールは秒数読み上げを開始。


「赤井、どうなっている?!」


 キララは再度質問をぶつける。


『何もしません。いえ、何もできない。心構えはしておいてください』


 赤井はエトワールと手分けをして、神杖を通じ総員を囲い込むように物理結界を展開し維持していた。聳え立つ半透明の結界壁面は、強固な攻撃性防壁でもある。

 自らのそれと質と構造の違いを比較しながら、ロイはその力強い守りを五感に焼きつける。

 そして、完全なるものへの憧憬に静かな闘志を燃やす。


『今度は色の問題のようです、詳細はまだ分かりません。一問目は捨てます』

「それは何色なんだ?」

『4!』


 エトワールのコールが折り返し地点を通過。


『え?』


 きょとんとする赤井に、少女は業を煮やしたように詰め寄る。

 彼はここぞという場面で何故恍けるのだろうと、キララは拍子抜けすることがある。

 話を聞いていないのかと思いきやそうではない。

 彼女は波立つ心を抑え、一語一語に力を込めながら歯切れよく


「それは な、に、い、ろ なんだ?」


 なにいろ?


 そう聞けば、赤井でなくとも閃いた人間は少なからずいるだろう。

 日本人には馴染み深い、とある遊びの定型句。

 いろ鬼は、鬼ごっこの派生の遊びだ。

 ”なにいろ?”と子が尋ねれば、鬼が色を決める。

 子は鬼が提示した色に触れている限り安全だ。


『そうか、色ですよ!』


 赤井の瞳が何かを確信したように煌いた。

 ルビーより深い赤は鮮やかな輝きを放つ。

 それだけ見れば毒々しいまでの瞳色であるが、彼の穏やかな印象に躾けられ、気高さこそあれ禍々しい印象を与えない。


 鬼はまず子らに”色”を提示し、10秒数えてから子を追うのだと。

 色鬼の大まかなルールはたったそれだけだが、大抵は遊びを複雑にするために付加的なルールが存在している。

 今回、”人工物以外”という縛りが明示されていた。

 身に帯びている人工物の色に触れてはいけないということだ。

 毒を持つ怪物達と謎の植生で溢れ返ったネストの森の中、鬼の提示する色を求めて全員が奔走すべし。

 それが第三試練で求められている課題なのだと、赤井はこのとき気付き、彼を取り囲む民に伝えた――。


 赤井の推測が正しければ、わずか十秒後、この森に鬼が放たれ”指定された色に触れていない”者を襲う。鬼に捕まった子は、鬼にされるのでは……! 人間に戻れるのだろうか? 確信がない。赤井は子供の頃に遊んだきりの色鬼のルールを、うろ覚えのまま思い起こした。


 ではこの設問は一問たりとも落せないではないか、絶対に捨ててはならない! 


「鬼とは、どんなものですか? 霊は分かりますが鬼は知らない」

『何にしろ、設問の意味が分かってよかった。皆さん、今すぐ近くの草か葉に触れて!』

「なっ、何ですと?!」


 どの葉だ、どの葉だと各自必死に探し回る。

 とはいえここは森の中。噎せかえるほどにあるが、すぐに行動に移せない手合いもいる。


『早く両手を地面について! 早く!』


 赤井が急かし、素民たちが素直に指示に従えば、地面が柔らかな苔に覆われていたために、ほぼ全ての人間は”緑”に触れることができた。

 彼の機転により誰もが物理的安全圏に”一時避難”したところで、辛くもタイムアップとなった。


『0だ! 気をつけろ! 何か来るぞ!』


 エトワールが警告を発する。


「ひー! 一体何がくるんですか!」


 大丈夫だ。

 問題ない、間に合っている。

 色鬼の提示した条件は満たしているはずだ、一問目は無事に全員突破。赤井はひとまず安堵の息をつき、しかし用心はすべしと物理結界に裏打ちの結界を副えた。木々がざわめく以外は、あたりは静まり返っている。何事もなかったことに気を緩ませたうち一人が早くも立ち上がろうとしたので、


『まだそこから手を離してはいけません! よく見て!』


 赤井が檄を飛ばす。カウントダウン終了を待って数十秒後、黒い人影が物理結界を貫通し三体出現した。

 白面をつけた、首から下は黒く半透明のケープを纏った人間の三倍ほどの体躯を持つ、鬼と思しき何か。

 何かを捜し求めるように森じゅうをガサガサと這いずりはじめた。

 ケープがてらてらと黒く輝き甲虫然として、素民たちに異様な不快感を催させる。


「うひっ!」


 一人のネストの民の前で、鬼と思しきそれが動きを止めた頭部をもたげた。

 ギ ギギ……と、白い面の中央が陥没し不気味な穴があく。

 色鬼の標的となったのはブロンドの髪に、帷子を着た若い青年。

 彼は赤井の命に従い、両手を地面にぎゅうと押し当ててはいたものの、そこが運悪く枯草だったのだ。

 ”緑”ではなく、安全ではない。

 彼は慌てふためき緑色の葉に触れ直し愛想笑いを浮かべたが、色鬼の判定は既に決し、覆らなかった。


「う、うわあああああ!」

 

 粗相に気付いた青年は恐怖心に扇動されるがまま、跳び上がり、おぞましさに振り返りもせず、背を向け一目散に逃げ出そうとしたが、あっという間に追いつかれ鬼に肩を触れられてしまった。

 青年を守ろうと赤井が神杖を、エトワールがスローイングナイフを色鬼に放っていたが、色鬼の体躯はそのどちらも通さず、無機質な金属音を響かせ弾き返した。


 赤井は電磁で、エトワールはワイヤで各々の獲物を呼び戻し第二撃に転じようとするも、彼らが救おうとした青年は既にピクリとも動かなくなっていた。

 三体の色鬼は仕事を終えたのか、物理結界を貫通し森の奥へと姿を晦ませる。

 赤井が駆け寄り、エトワールが不動の青年に迅速解析をかけると、


『……生きている。が――これでは動けまい』


 死んではいない。

 プログラムが一時停止状態となっていた。

 試練とやらを終えなければ、彼はここで永遠に生ける屍となるほかない。


「せ、石化したのか!? 神様方の攻撃も通じなかったぞ!」

「俺たちはどうすればいいんだ! 神様に倒せないものを、倒せるわけがない!」


 素民たちは震え上がった。 

 一人ひとりの小さな動揺と不安が、増幅され約五十名の探索隊の間に拡散してゆく。


「赤井様。残り何問あるのでしょうか。先ほどのものを攻撃せずとも、指定された色に触れ続ければよいのですか」


 目的も知れない試練に、ロイは不安を募らせつつも諦めの言葉を吐こうとしない。


『何問あるのかはわかりません。が、色に触れ続ける限り安全だと思われます。試練終了までに一人でも誰かが生き残れば、全員復活できる筈です……しかし』


 赤井は言い出せなかった。

 鬼ごっこ全般にいえることだが、この遊びに終わりはないのだ。

 これは飽きるまで続けられるゲーム……。

 いつかは誰かがミスを犯す。消耗しきって、一人ずつ削られてゆく。

 赤井が冴えない様子だったので、彼の胸中を気取ったロイが現実的かつ最善と思われる案を出す。


「一つ一つ走り回らず、第二問までに、ありったけの自然色を手元に揃え、予め備えておきましょう」

「おお、それがいい!」

「あ、ここに黄色の花があります」


 黄色の草花が全員の手で摘まれ、赤い蔦が一部ずつ切り分けられ、青い種のかけらが配られた。

 ほうぼう探し回って人数分取り揃えたのは、十二色。

 色鬼という遊びには確か、「誰もが知っている色」、という縛りがあった筈だ。

 赤茶色や青緑色、という指令はないだろう。

 ようやくのことで準備が整うと、見計らっていたかのようなタイミングで第二問が表示。


【第二問 金】


『金!?』


 当然のごと彼らの手元には持ち合わせがない。

 森の中に、自然に存在する色ではないのだ。

 人の手を加えたものを除いては――。


『金、です、か?』


 彼らの努力を、せせら笑うかのようだった。

 しかし赤井は諦めはしなかった。

 そう、この試練には必ず突破口がある。

 解法のない設問は、数理パズルを好む構築士にとって美しくないと思うのだ。

 ならば突破口をこじ開けるまで。


「無理だ!」

「さっきのやつにやられる! 全員やられる!」


 手当たり次第に探し回っても、金鉱脈を見つけでもしない限り金色の輝きを発するものはない。

 人工物ではいけないという縛りがあるのだ。

 ブロンドの毛髪を生やしている民もいたが、これも人工物というカテゴリに入るのには変わりない。


【カウントダウン開始 600】

 

 ***


 厚労省内地下施設、15階。

 そこは一階ロビーのエレベーターからは決して辿り着くことのできない、機密性の高いフロアである。

 専用エレベーターを降りてすぐ左。

 一見倉庫と思しき扉を開くと、広く暗い一本の通路に出る。

 突き当たりにはガラス扉、警備員のボディチェックと高度なバイオメトリクス認証を要求される。

 その先に、外界から厳重に隔離された大ホールがある。

 ホールの受付には愛想のよい女性スタッフと「死後福祉局 戦略的構築技術研修会」との看板。

 防災対策本部として殆ど使用されることのないこの場所は、普段は閑散としているどころか、清掃担当者以外には寄り付くものもない。

 しかし本日は様子が異なり、防音扉の奥は騒然として、異様な熱気と興奮に包まれていた。


【カウントダウン開始 600】

 

 照明の落とされた大ホールの中央に敷設された投影装置。

 黒い素焼きの陶器のような三日月を六つ重ね合わせたようなフォルムの上に浮かび上がる、青白いグリッドと点滅する白いガイド。

 高解像度の立体フィールド投影を、職員たち が360度からとり囲んで見上げ、緊張した面持ちで臨む。彼らは総勢百名からの日本アガルタスタッフ。

 立体映像の投影中、歓声も、野次も罵倒も満遍なく上がる。

 あからさまな陰口もそこかしこで囁かれている。


 彼らのお目当ては、二十七管区主神 赤井構築士そのひと。

 そして脳機能障害患者として仮想世界で治療中の、メグの治療経過。


 赤井というのは、今年度入省したての新神ルーキーだ。


 とはいえただのルーキーと軽く見てよい人材ではない。

 彼の情報は一度サイバーテロで狙われたという実情もあって、今や厚労省の最高機密レベルで扱われており、映像および音声の記録は禁止となっている。

 現実世界で執務する二十七管区スタッフ全員は勿論のこと、各管区スタッフらの顔ぶれも見受けられる。

 各管区の構築士補佐官たちは普段各々のペースで構築時間を進めているが、仕事を止めて研修会に挙って参加した。

 彼らは現実時観速に時間同調された映像を、同一タイムラインで見守る。

 それはステージを中央に据えたライブ会場のような光景だが、彼らが赤井に向ける視線は嫉妬も込められ、必ずしも好意的に見られているわけではない。

 マニュアルを持たず、医師でもないド素人もド素人。


「まだ第二区画じゃないか」

「こんなにトロトロやって、ちやほやされて金もらってるのか」

「おい、聞こえるぞ」


 新神が実時間僅か数ヶ月、仮想時間9年で仮想下リハビリテーション治療という世界初の偉業を達成し、世界初のタイトルが掻っ攫われたとあっては、既に何百年も仮想世界で執務中のベテラン構築士勢は面白くない。

 マニュアルが擬似脳と融合していない状態でログインしたのはただの事故ではないか……今後はいっそ、全主神にマニュアルなしでやらせてはどうか。

 そんな的外れな議論が俎上に上ってきたこともあり、伊藤二十七管区プロジェクトマネージャーは赤井への批判を封じ込め、そのありのままの彼を包み隠さず見せようと、今回の赤井の区画解放イベントを日本アガルタ全エリアに公開すると決定。

 内々でのパブリックビューイングとあいなったのだ。


  区画解放とは異なるプログラム同士の連結・統合作業を意味し、別々に組み立てられていたパズルのピース同士を結合する作業に似ている。

 結合によってバグは発生しないか、環境パラメータは正常か、ファイルやデータの破損は? 

 ウイルスの感染はないか。

 あらゆる事柄に細心の注意を必要とするステップだ、不良なエリアを一つでも統合してしまうと、二十七管区全体が危険に脅かされかねない。

 二十七管区スタッフは全員仮設端末の前に張り付き、仮想世界中の焼人部隊と連携を取りながらぴりぴりとしている。


「色鬼に因んだこの設問はどうやって突破するのでしょうか」

「さあ」


 手のあいた甲種二級以下の構築士たちも顔見知り同士寄り集まり、フリードリンク片手に観覧中だ。


「森の中に人工物の金色はない、おおかた、金色のモンスターとでも戦わせるのではないか」


 冗談交じりに、誰かがそういった。


「おい、的中だぞ」

「ははは、本当だ」


 嘲弄の声が上がる。

 立体映像の中には金色の毛並をした、象ほどのサイズもある二角獣バイコーンが四頭出現し、素民たちを慄かせていた。

 赤井とエトワールは結界を展開し素民たちを庇護しつつ、バイコーンを捕獲しようと二手に分かれ、打撃と電撃を中心とする波状攻撃を開始。

 ロイも簡易的な結界を盾に、バイコーンの動きを封じている。


「ロイはいい動きをする。あの問題さえなければ、性能はいいんだが。惜しいものだなあ」

「見ろ……蘇芳も負けてはいないぞ」


 キララの両手に握り込まれた一対の剣が紅蓮の炎を宿し、バイコーンの脚を大炎の舌で舐め上げ、焼き落としていた。

 驚きの声を上げる赤井、それ以上巫力を使ってはいけない、やめなさいと、必死に諭している。


「何を言っているんだ、蘇芳はA.I.だぞ?」

「蘇芳はいつ巫力をチャージしていた? 赤井は与えていない、エトワールもだ」

「双頭の蜥蜴の電撃でチャージしたのかな?」

「ああ、それだそれだ」


 A.I.に注目している者もいれば、第二区画という作品そのものの品評も行っている一団もいる。

 各構築士のオリジナリティが具現化され、ある種芸術家としてのセンスの問われる場面である。


「しかし第二区画の出来は今ひとつだな。そこは下手にゲーム的要素を入れないほうがよかったと思うのだが。陳腐にすぎる」

「B+。クリーチャーの造形、”どこかで見たことがある”のはいけない。既視感を懐かせてはだめだ」

「俺はこのイベント自体がマイナス要因だな。俺なら古代遺跡でも探索させてオリエンテーション方式にする、時間制限をつけると白けるだろう」


 構築論に花が咲く。

 区画構築ではエンターテイメント重視か、美術重視かで意見も様々だ。

 管区開設後、入居者に人気の出るよう、クリーチャーデザインにも気を遣う。


「18管区では空中迷宮を造ったそうだが、それを聞いて迷宮モノが一時期流行ったな」

「ああー、流行った流行った」

「ともあれ、うちの管区のプロマネならC判定だな」


 同業者だけに細かい部分に粗が見えるらしく、採点は概ね厳しい。


「それにしても赤井の蘇芳に対する言葉……本心で言っているのか? ただの演技なのか?」

「蘇芳を人間患者だと思って丁重に扱っているんじゃないか?」

「いやA.I.だと理解している」

「ではA.I.を人間扱いしているのか。しかも、素で――? 二次元の女に惚れ込む輩なのかもしれない」


 赤井の評価も、プロジェクトマネージャーたちを中心に真っ二つに割れている。

 喧々諤々、そちこちで沸き上がる議論。

 ますます熱気の増してゆく会場の片隅に、白い上下のスーツを着た大柄な男の姿があった。


「どうだ、同期の仕事ぶりに何か決定的な違いがあるか?」


 この構築士補佐官は携帯端末のモニタの画面の人物に語りかける。

 パブリックビューイングだけではなく、伊藤の計らいで各管区構築士にも開示されたので、各管区内で構築中のハイロード達にも第二区画解放のライブ映像は配給され、彼らはインフォメーションボード内で視聴している。


 おっとりとした仕草で首肯したモニタの中の人物は、柔らかな灰瞳の印象的な女性アバター。

 地上の美を結晶させたかのように完璧な美貌と研ぎ澄まされた知性を併せ持つ、清楚可憐な女神だ。

 長い純白の髪に銀のティアラがよく映え、ギリシャ神話の世界から抜け出してきたかのような、デコルテの大きくあいたチュニックをゆったりと纏い、その下に覗く形の良い豊満なバストはまさに、主神のそれに相応しい。


 彼女の世界では、アガルタ歴211年。

 28管区甲種一級構築士、絶大なる神力を備えた創造と豊穣の女神として二つの海と四つの区画を総べ、厚く信仰を集めている。


 彼女の名は、白椋しろむく 千早ちはや

 素民からは「白の女神」と慕われる。


 壮麗な白亜の神殿の至聖所に住まう彼女は本日のイベントに際し神官たちに暇を出して帰郷させ、インフォメーションボードに釘付けになっていた。

 現実世界においては精神科医でもある彼女は、赤井の仕事を細やかに観察し、緻密な分析を重ねている。


『先ず気付いたのは、蘇芳やロイの性格がわたしの管区と随分違います。蘇芳だけでなくA.I.全般のようですが、あれほど情緒豊かではありませんでした。より高度に発達した精神段階にあると伺えます。また、ロイはこちらの世界のロイよりも状況分析力に長けています。性格も随分と穏やかで安定しているように見えます』

「A.I.たちは皆、インプットされているパラメータ以上に、彼を不自然なほど好いているようにも見える。尊敬以上の何かを集めているようだ。ロイもどこか違うな」

『しかしロイも蘇芳も、ベースはわたしの管区と同じプログラムです。構築士によって、A.I.は異なる反応を見せるのですね。わたしの力量がないばかりに、……申し訳ありません』

「そのようだな。だがそれはお前のせいではない。誰もできなかったんだ。そう、しょげるな」


 女神は柔らかな白い睫毛のついた瞳を静かに伏せた。

 強すぎる神通力を反映したまばゆい後光が、彼女の落胆をあらわすようにその光度を落とす。


『……彼は、赤井神はあと数年で命の尽きる蘇芳に、”親代わり”になると言っていましたね』

「ああ、正気とは思えない言葉だな。A.I.を命あるものとして未来や人生、生命の在り方を真顔で説く……ありえないだろう。A.I.には哲学が理解できない、時間の観念が人と異なる。それでも彼は説く。既に、現実と虚構の区別がつかなくなってしまっているのかもしれない。なにせ彼は生身だから……既に九年か。発狂していてもおかしくはない。適当な区切りで外に出して、精神鑑定を受けさせてはどうかと俺も思う。千年の監禁勤務は生身では危険だ、取り返しのつかないことになる」


 この補佐官は赤井の精神衛生上の問題を気にかけている。

 しかし白椋は


『いえ、赤井神の心配はいらないと存じます。それより蘇芳が複雑な反応をみせたのに気付きましたか。そう、安らぎと歓喜、そして照れくさそうな。とても高度な反応です。まるで人の、年ごろの少女のようでした。わたしは彼女の感情の発達度合が、非常に気になりました』


 そこで言葉を区切り、彼女は敗北を認めてさらに肩をおとし項垂れた。


『信じられません。彼のもとではA.I.がこれほどまでに、人間に近づけるものかと』

「スオウに関しては、ジェレミー=シャンクス(エトワール)の手腕もあると思うぞ。新神のお前は知らないだろうが、彼は千年王国に在籍していたこともある男だ」

『わたしの管区にも、実力ある構築士は多数入っています。理由は明白ですよ――』


 どれだけ努力を重ねたからといって、決して手に入れることもできず、身に付くものでもない。

 なぜ、彼は持ち得てしまったのだろう。

 白椋は赤井と言葉を交わしてみたくなった。そう、


『彼の父性は、人間のそれを超越しつつあります』


 ***


 表も裏も、膝に置かれた両の手を見る。

 そこに、彼女の生きた年月は刻まれない。

 陶磁のように青白く透き通る、瑞々しい素肌は紫外線を知らず、傷ひとつない。

 赤い血は通い、肉はあれど造りもの。

 きゅ、と口角を無理にあげてみる。

 この場の時間と風景に、できるだけ溶け込んでいられるように。


 アイボリーのブレザーと、グレーのチェックのスカートの真新しい女子高の制服に包まれた若くしなやかな体に、彼女の歩んできた歴史は馴染んではくれなかった。

 一見、何の変哲もない女子高校生である少女の頭脳が、その外見に相応しからぬ価値の情報を所有していることに、忙しなく行き交う誰が気づくだろう。


 六年。

 それは彼女が心象と外界の境界線を失うために要した、長いようで短い時間。

 容姿が、名が、四肢が、時間さえも流動的かつ主観的なものとなり、さほど意味を成さなくなってより久しい。

 自己は曖昧に、どんな快楽も欲望も色褪せ、五感は鈍り、思考だけが鋭くなってゆく。

 肉を纏い、現実と虚構の狭間を泳ぎ続けるだけの漂泊者のようだ。


 ここは芝浦埠頭しばうらふとう空の駅。

 首都高速飛行道路2号線上の、空上バスターミナル。空駅である。

 長いストレートの黒髪の、小柄な少女は空中公園のテラスの白いベンチに深く腰掛け、ハンズフリーの立体電子書籍をバッグから出し起動すると、その世界に没頭しようと目を落とした。


  宮澤賢治の「春と修羅」、彼女のお気に入りの詩集だ。彼のことを思い出していると、ふと読み返したくなった。


 ―わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です―

 

 暫し生じた意識の空白に、どっと、洪水のように心象が流れる。


 何もかもがあやふやで不確かな環境で、彼女は確かなものの存在を疑い続けてきた。

 仮想死後世界アガルタの開設より八年。人が神を演じる世界規模の試み、終わらない人生の壮大な暇つぶしと、究極の娯楽の提供に加担した日々。

 アガルタの誕生は、生物種として急速に縮退しつつある人類と、縋るものも救済もなき現実世界で、救いと安息の地を求めようとした趨勢である。

 言ってしまえば、物理的に無限大の規模にして、省スペースな娯楽福祉施設の構築。


 来る日も来る日も繰り返される、記号として制御された”神々”による仮想世界作製ごっこ。

 神々の中身は、金銭報酬に引き寄せられた有象無象だ。

 入れ代わり立ち代わり仮想世界を往来し、新エリア開設に沸く。

 おめでたいものだ、仮想世界のテーマパークではないか。

 その行政サービスの一端を担う構築士補佐官という職は、しかし彼女の表向きの顔に過ぎなかった。


 焼け太りした組織の税金を湯水のように使い、影では本業をこなす。

 半ばバイオロボットと化した構築士達の管理と監視、厚労省内での彼女の仕事はそんな認識でしかなかった。


 本来の任務のためとはいえ、この茶番にいつまで付き合えばよいのか。

 毎日のルーチンの中で、箱庭の中の構築士を人間とさえ思えなくなっていたとき。


 彼は唐突に現れた。

 人の心を持ちながらにして神であるように錯覚させる、それは不思議な存在。

 彼の人生のバックグラウンドに横たわる独特の生命観に、彼女は引きつけられた。

 宇宙の中の自己存在を明確に定義づけ、自然と生命を尊び、素直に感謝の心を懐く。


 だから彼は適任だったのかもしれない、人間を超えた父性を兼ね備えた箱庭の神として。

 彼は、紛れもなく人ではなかった。

 こちらの思惑通りに、計画通りに構築任務をこなしてゆくだけの木偶人形ではないのだ。

 彼の造り上げようとする世界には、熱い血が通っている。

 まるで一つの世界の創世を、目にしているよう。

 彼女はどっぷりとはまりこんだ。彼に――。


 冷たく暗い自然のままの洞窟に起居し、とりとめもなく思考し、仮想世界の民を導き続ける彼に、幾度か問うてみたことがある。

 答えの出ない禅問答、ほんの戯れにだ。

 生命の本質は何だ、人は何の為に生きるのか、と。


 凝集と分解、再凝集の中で起こる発火の連なりだ。

 意義なんてない。

 彼はそう答えた。


 F1 凝集―発火―複製―衰退―分解

 F2          凝集―発火―複製―衰退―分解


 有機物が凝集し、人の形となり脳のネットワークが形成され、発火し自我を持ち、やがて肉体は廃れ、滅び分解する。

 されど残された凝集片はまた異なるネットワークを形成し、過去の情報を受け継いで保たれ、発展させてゆく。

 結びつき、発火し、ほぐれて消える。


 刹那の連続に生きる発火の複合体、それが人間。

 その積み重ねが、過去と我々を透明な糸を繋いで永遠の時間を紡いでゆくのだ。


 ―過去とかんずる方角から 紙と鑛質インクをつらね ここまでたもちつゞけられた―

 

 いつ、いかように結びつくか。

 それは偶々(たまたま)の積み重ねだ、と彼はありのままを述懐した。

 偶々、現代において私は発火しているのだと。

 少し凝集の様式が違えば、簡単に他者たりえた。


 ―けだしわれわれがわれわれの感官や 風景や人物をかんずるやうに―

 ―そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに 記録や歴史、あるひは地史といふものも―


 私という現象は、あまりにも朧げで頼りない。

 私たち人間だってはじめは生命ですらなかっただろう。

 そう、言うのだ。

 A.I.は生命ではないのか否か。

 それが思考の発火であるかぎり、単純なものはやがて複雑なものへ結びつき。ネットワークを構成し、自我が生まれそして生命へと発展してゆく。その可能性を、彼は信じている。


 神は、このようだっただろうか。地上に単純なアミノ酸の配列、原始の海に生命の萌芽が生じたとき。それを慈しみ育ててみようと――。


 ―それのいろいろの論料といっしょに われわれがかんじてゐるのに過ぎません―


 だから生命現象の偶有性に思いを巡らせたとき、彼は他者を他者だと思うことができなくなるのだろう、と彼女は理解している。

 他者の痛みに共鳴する能力に長けている。

 その人間性を電気シグナルに変換されぬまま、彼は仮想世界に存在する。


 彼を人でないものにしたい。

 人権を剥奪し、戻るべき場所と肉体を破壊し、その箱庭に永遠に閉じ込めてしまいたい。

 役者ではなく、感情を持った神そのものに創りかえてしまいたい――。


 彼を見ていると、衝動が抑えられなかった。

 来る日も来る日も、気付けば彼女は彼を創りかえようとした。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 彼の苦しむ姿を目に焼き付けながら、何度も彼に謝った。

 しかし助けることはしなかった。

 全てを受け止め、笑って許してくれるような気がしていたから。


 彼女は直感の赴くままに彼の精神を極限にまで追い詰め、次第に彼の性質を変容させていた。

 非人道的であると糾弾されたなら、反論の余地もない。

 しかし彼女の行為は、思いがけない形で結実した。


 ごめんなさい、赤井さん。

 あなたが辛かったのは、苦しかったのは分かっている。

 もう二度と、彼と会うことはできないだろう。

 ならばせめて別れ際は憎まれるように、きれいに忘れてもらいたくて、あんな態度で幕を引いた。



 チカチカ、チカチカ。

 

 量子腕時計のアラームが視界の端でしとやかに光る。

 午前一時の待ち合わせ時刻。

 たった数行しか読み進めることのできなかった電子書籍を閉じる。

 鳥肌の立っていた剥き出しの膝を数度こすって立ち上がり、スカートの裾を几帳面に手で直す。

 高校指定の鞄を手首に所在無さげにぶら下げ、空駅のテラスの軒先に出た。


 人生の節目は、いつも雨。ひどい雨女だ、といつも思う。


「その体は困るな、連れだって歩くと人目が気になる」


 舗装路に打ち付ける雨音に紛れそうな、くぐもった声の男に、少女は耳を傾け視線を向ける。

 スカート裾を直すと、男は苦笑した。

 少女は軽く会釈をし、こちらに歩み寄ってきたつば広の帽子を目深にかぶった、背の高い男を見上げた。

 濃紺のスーツに白のシャツの、地味ないでたち。


「ともあれ、復職おめでとう。激務だったようだね」

「課長こそお久しぶりです、お変わりありませんか」 


 旧知の仲かというと、それはある意味で正解である。

 直属の上司との数年ぶりの再会だ。


「こちらはこちらで色々あったがね。出向先では……懲戒免職になったって?」


「はい。予定通りです」


 無事に戻ってきてくれてよかった、と男は安堵していた。

 死後福祉局に入局した職員はその機密性の高さのために……実質退職することができないから。

 その分、先方がクビを切ってくれたというのなら手間が省けたというもの。


「君はこちらの人間なのだから、厚労省をクビになったのはむしろ好都合だがね。釈然としないこともある」

「厚労省は退職金を出しましたよ。払い込みがなされたかは分かりませんが」

「君の退職するのを見計らったかのように、ソーシャルエンジニアリング・ハッキングが仕掛けられたようだが……嫌疑はかけられなかったのかね」

「かけられていると思います。それで……」

「ああ、それで」


 それで、その恰好なのか。

 男は合点がいった様子だ。


「アガルタの日本人構築士が治療に成功したとの話があるが、あれは君の担当だったのか」

「場所を変えましょう、課長」

「確かに立ち話もなんだ。パーキングに車を用意している」

「それはどうも」


 彼女はマーブル柄の傘をひらいた。

 ぱっと曇天の空に鮮やかなオレンジ色の花が咲いたようだ。


「いまどき、傘……かね。空気傘エアシールドは?」


 ちょい、と男は帽子のつばを引っ張る。

 今日は東京都二十三区全体が、計画降水の日。

 都民はみな、帽子型のエアシールドを被る。

 帽子のつばから圧縮空気が噴出して、雨粒を吹き飛ばしてくれるのだ。

 すると彼女は視線で促し、バスに乗りかけた女子高校生の一団を見やった。


「女子高生の間では流行っているらしいですよ、アナログ傘」

「へえ。しかし君は過剰防衛だと思うよ……東くん」

「妹のことが、ありましたからね」


 かくして……内閣情報調査室 国家特命防諜課 情報調査官

 あずま 沙織さおり


 厚労省死後福祉局潜入調査を終え、恙無く復職――。


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