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第2話 赤い赤井さんと十人の素民◆

【アガルタ第二十七管区 第61日目 居住者10名 信頼率10%】


 ログインから既に二ヶ月が経ち、ついにその日がやってくる。手塩にかけて育てた綿花の収穫の日だ。  

 摩擦熱で火を起こし草を灰にして土壌を中和し、素手で畑土を耕し、綿花の種をまき、日差しが強ければ日陰を作り、水やりを欠かさず、花がつけば喜び、実がはじけるのを待った。コットンボールが顔をのぞかせている。


『やっとここまできた。嬉しいなあ……』


 満足げな表情を浮かべる彼は、綿花栽培と共に養蚕にも精を出していた。

 二匹の蚕をこれでもかと甘やかし育てた。どこの世界にこれほど太った蚕がいるんだというほどに甘やかした。蚕としてBMIが大変なことになっていた。


 丸々と太った彼らに小部屋を与えると、小さな口から糸を出して自分用の衣を纏い、カイ子とコウ太(命名、赤井)はめでたく繭をつくった。本来の絹糸の作り方はここでカイコ丸ごと熱湯で茹でて絹糸をとるのだが、すっかり愛着の湧いてしまった彼にはできなかった。


 やがて純白の立派なカイコガとなって真綿を残し、彼らは交尾のあと500粒ほど産卵し、十日後に生涯を終えた。愛着がわきすぎた青年は小さな墓を拵えた。この二羽を第二世代として、彼はまだ養蚕を続けている。


 メグは何でも彼の真似をしようとし、よい助手となった。二人は仲良く僅かばかりの真綿を覚束ない手つきで縒って紡いで、手編みで生地にする。二匹の蚕からとれた糸では一人分の貫頭衣の上半分も作れなかった。

 というわけで、大量に収穫の見込める綿花に期待を寄せた。


 試行錯誤している間、彼はふと縄文人の衣装に思い当たった。何も布に拘る必要はない。彼がメグに毛のある獣の存在を尋ねれば、そんなの見たことないんだよという。


 そういえば、現実世界とは異なる完全な異世界を構築すべしとチュートリアルには記載されていた。現実世界の生態系を仮想世界に持ちこむことは好ましくないのだ。


『モフモフした獣に著作権ってあったっけ』


 ともあれ、素民たちと合流したら養蚕と綿花栽培、作付けの方法を伝えようと青年は決めていた。


 メグは彼を日に日に信頼するようになり、彼の力もそれに呼応するように僅かずつ強くなっていった。とはいえ子供一人が寄せる信頼の力に支えられた奇跡は、素手で弱い火を起こせるようになった程度。


 メグは火を見慣れないらしく、燃え盛る炎を見て随分怖がっていたので、彼は火打石での火の使い方を教え、食べ物にはできるだけ火を通すように、火は夜を明るくするだけでなく獣を追い払い、安全を確保する便利なものですよ、と強調した。


 メグは嬉しそうに小さな火打石を集落に持って帰ったものの、翌日には母様かかさまに捨てられたと泣いて戻ってきた。


『捨てられましたか……』


 火を扱うことは人間が人間であるための最低限の知識であり人である証である。彼女は肩を落とした彼に、遂に本音をぶつけた。


「あかいかみさま、どうして、ととさまたちに会ってくれないの。どうして」


 何故といって、彼らに会う前に衣類供給の下準備をしたかったからだ、防寒ができ、体温の維持が容易となる。二十七管区の気候は移ろいやすいうえ、日照時間と日時計の記録をつけて知ったが、亜熱帯性で乾季と雨季がありそうだ。


「ととさまたち、あかいかみさまなんていないんだって笑うの、おかしなことをいう子だって」


 悔しそうに呟くメグを慰め、彼女を軽く抱擁する。それは構築士の行える”祝福”という行為を兼ねていた。祝福を与えられた素民は神通力によって癒され、抱擁することで構築士も神通力を行使するための力を素民から受け取る。信頼の力は、構築士、素民の双方にとって心地よく温かい。


 彼女を溺愛していた彼は、どんなお願いでも聞き届けたい。

 メグが悲しめば、つられて悲しくなる。彼が住民の喜怒哀楽に感応してしまうのは構築士の仕様なのだが、彼は知る由もない。


『近いうちに、必ず会いに行きますね』


 その気持ちに偽りはなかった。


 しかし綿花の収穫日の前日、大事件が起こる。


 夜中、洞窟で休息していた彼は猛烈な腹痛に見舞われた。

 自らの痛みではなく、素民の三倍の苦痛を反映しているのだ。医療の発達していない未開の地で、誰かが病に倒れたのだろう、その痛みに彼が感応する。痛いなどと生やさしいものではなく意識がちぎれ飛びそうだった。


”現実世界ではコンビニで万能薬が買える時代だってのに――”


 彼は二十二歳の今日という日まで、これ以上の痛みを味わったことがなかった。ようやく、彼は人々と接触しようと決めた。メグの言葉を今更のように思い出す。彼らは助けを必要としていた。何故そのことに気付かなかった――。


 這ってでも全裸の彼らに会いに行かねば。

 非常事態だ。腹痛に苦しむ誰かを癒さなければ……しかし今は動く余裕もない。


 長い夜が明け、息を切らせたメグが叫びながら洞窟に入ってきた頃、彼は洞窟でくの字でのたうっていたところだ。彼も誰かの容体も悪化の一途を辿っていた。


「あかいかみさま! あにさまをたすけて! あにさまが死んじゃう!」


 昨日の夜半から、兄が腹痛に魘され熱で顔を真っ赤にして苦しんでいるのだと、衰弱激しく、意識も朦朧としているのだと、メグは泣きじゃくりながらうったえた。未開の地での病気は死に直結する。


『い……行きましょう、彼のところに』


 彼はメグに寄り添うように、途方もなく遠く錯覚される草原を歩み始めた。苦痛感応ルールは合理的ではない、肝心なときに動けなくなるのに、と内心不満は募れど、メグに気取られないようにする。

 だらだらといやな汗を流し彼はひた歩むが、歩行も難しく草原に倒れる。彼女の兄の痛みは限界に達している……。


「たって、あるいて! あにさまをたすけてえ……どうしてすぐころぶの」


 彼女は平静を失い急かしたてる。


 青年が不可抗力で再三、再四と崩れ落ちると、メグが絶望したような顔で肩を揺さぶる。彼は彼女に、構築士の苦痛感応ルールを話していなかった。


『ごめんなさい。もう力が出ません』

「どうして! メグは心のそこからかみさまにいのってるよ! あにさまを助けてほしいって」


 彼女の言葉が身に染みた。言葉のみならず彼女の温かな信頼の力が彼の体に流れ込んでくる。信頼の力に応えたいとは思えど、彼女の願いだけでは不足なのだ。


「どうしてたすけてくれないの!」


”……!”


 メグから彼に絶え間なく注がれていた力が、ふいに断たれてしまった。不甲斐ないと失望し見放されたのだろうか。 


「……ひどいよ」

『誰かを連れてきて、もっと強く私に願ってください』


 遺言のような言葉も聞かず、霞む視界の中で泣きながら集落に走っていったのメグの背中を見届けながら、彼女を深く傷つけてしまったと思い知った。


 完全に失敗だった。

 構築士は片時も民の傍を離れてならなかった。メグが連れてくる民が見ず知らずの男を信頼してくれるだろうか。

 なにより、メグは戻ってくるだろうか……。


 無理かもしれない。


 

 ***



【アガルタ第二十七管区 第62日目 居住者9名 信頼率0%】


 苦痛は去り、彼は草原の真ん中で意識を取り戻した。

 震える手でインフォメーションボードを宙に描き確認すると、メグが去って数時間後だ。居住者が一人減っていた。


“メグ……君のあにさまが亡くなったのか”


 信頼率が0%に変化している。この世界でたった一人、彼に信頼を与えてくれた大切な存在に、見放されたと思い知った。


 今やアガルタ第二十七管区の世界で、構築士である彼に信頼の力は誰からも流れてこない。アガルタの神の力の源が民からの信仰ではなく、信頼の力であることの意味を、彼はようやく理解しつつあった。神と人が信頼関係を築き上げるためには、たゆまぬ努力を必要とするのだ。


 神通力を失い、昨日まで簡単に起こせていた火も起こせなくなった。

 代替できる火打ち石はまだあるが、洞窟で一人隠れて暮らす彼は素民たちに必要ない存在であり、もはや力は使えない。


 あやまちは消えない。

 だからこそこれからは誰よりも、素民の傍に寄り添い続けなくては。

 彼が素民たちの守り神であるなら、最初からそうすべきだったのだ。


”……行こう”


 彼らに罵倒され嬲られたとしても構わない、そう気持ちを奮い立たせた。メグと収穫する予定だった綿花を寂しく摘みとり、彼は荷物の準備を始めた。

 綿を天日で乾かし、温かで清潔な手編みの衣を徹夜で十着仕立て、翌日、拵えたばかりの紐で縛り肩に担ぐ。実家の両親や祖母が長男の彼に農家を継がせようとして仕込まれた農業経験がここにきて生きる。彼は若いが、農業家としてはベテランの部類に入る。

 豊富な経験あって、大抵の作物は枯らさずに育てることができた。

 この仮想世界においても。


 余った綿糸でネット状の手提げ袋を編み、収穫した桃色の甘い果実をみっちり詰め込んだ。メグも家族も泣き疲れて空腹だろうと、手土産のつもりだ。蚕たちの箱だけは持参し、予備のクワに似た葉も用意して洞窟を出る。拠点を移すべし。


 素民の集落の場所は分かっていた。水平線の平坦な、湖のほとりの岩陰。

 草原を抜け、辿り着く。宙に出現させたインフォメーションボードで時間を確認すると一時間。例の洞窟との距離は四キロメートルと概算する。大人の足で一時間……。

 

”ありがとう、メグ。小さな足でこんな遠くまで歩いて通ってくれてたんだな”


 それに思いを巡らせなかったかと思うと、情けなかった。


 岩陰にいた素民の集団の前に、彼は後先考えず大荷物のまま飛び出した。


『はじめまして、こんにちは!』


 挨拶は社会人ならぬ社会神しゃかいじんの基本。素民たちは岩陰に潜み円陣になって、途方にくれ肩を落し座っていた。岩場のゴツゴツした地肌。直射日光は防げ、そこそこきれいな水もある。彼らの住処、というか野外活動中だ。


 九人の素民の内訳は

 大人が五(男三人、女二人)、

 子供が三人(メグ含む女子二人、男子一人)、

 赤子が一人だった。


 子供は全裸だが大人は枯れ草を編んで、服の代わりに纏っていた。メグは今更のように現れた彼に驚いたようだった、彼は申し訳なさそうに見つめ返す。彼女の眼にはクマが張り付いている、昨日は泣き腫らしたのだろう。


『私はアカイといいます。あなた方を守るために来ました、これからよろしくお願いします』


 偽名だが、他に適当な名前もないので仕方がない。


『これからずっと、あなたたちの傍にいます』


 自らに課す誓いのように宣言したとき……誰かが石を投げた。それが頬にしたたかにぶつかる。血は出ないが、大きな瞳から透明な涙を零しつつ、投げつけたのはメグだった。

 彼女は最愛の兄を失った妹の顔だった。彼はメグの悲しみとかつてない怒りに触れ、礫をよけもせず黙して受け止めるしかなかった。

 子供が投げるつぶてだ、我慢できない痛みはない。痛いのは心だ。


 彼女の信頼はもう、流れてこない。

 彼女が彼に与えてきた温かな感情と真反対の憎しみが突き刺さる。


”今度こそ、この世界で完全に一人ぼっちだな……本当に愚かだった”


 たまらずメグに顔を背け、俯きながら準備してきた手土産を並べる。こんなものがメグの兄の命より大切だったのか。そうではなかったはずだ、と後悔しながら。


『温かな衣を纏ってください。寒さをしのげます。そしてこれはお口に合うかと持ってきた果実です、召しあがってください』


 大好物の瑞々しい果実たちを見て、二人の子供たちの目は輝き、よだれを拭う。


「ちかづかないでくれ」


 メグの言う「ととさま」と思しき人物がすっと立ち上がった。彼は髭をたくわえ、険しい顔立ちをしていたが、栄養状態が悪いのか、やや老けて見え、背は随分低い。過酷な環境で必死に生きてきたと、彼の身が物語っていた。


『いいえ、私はここにいます』


 譲らない。彼らのもとを離れるつもりはない。

 もう民を見捨てはしない。彼らのためにできることはたくさんある。


「あかいかみ、お前は私たちを不幸にする。むすこが死んだのはあなたのせいだ!」


 息子を失った苦しみを、青年に叩き付ける父親。

 一理あった。確かに青年が早く彼らに接触して、栄養状態をよくして彼らの健康に目を光らせておけば、「あにさま」は死なずに済んだのだ。


「でていけ!」


 それでも去らない青年にととさまが掴みかかってきたので、彼は避けもせずととさまに殴られた。気のすむまで殴られると、じんじんと頬が疼き、腫れる。存分にやられながら、青年は父親を見据えタンカをきった。


『だから……だからもう誰も、いえ今後は絶対に一人も死なせませんよ!』


 言いきった。もはやその気持ちに偽りはない。

 彼の剣幕が凄かったかはいざ知らず。彼らは出ていけとは言わなくなった。その代わり素民全員から徹底して無視を決め込まれ、居心地はすこぶる悪い。子供たちはちゃっかり手土産の果物を食べていたが、あつらえた綿衣は着てくれない。メグに至っては視線を向けようともしない。


 たとえ空気的存在でも傍にいられるなら、それでいい。

 彼らは円陣でしょんぼり座っているが、ハンカチ落としできるけどやる?

 などと言える空気ではなかった。もう一度石が飛んできそうだ。


 青年は少し離れたところに無造作に横たえられたあにさま(仮名)の遺体に近付いた。まだ手をあわせてなかったのだ。


 素民たちに人を弔い、埋葬するという風習はない。

 死んだら野ざらしに。それを惨いという感覚すらない。メグの兄はまだ幼く、中学生ほどの体格をしている。


 彼の分だった筈の衣を一枚手に取り、青年は肩から下を綿布で覆う。最低限文化的で人間的な弔い方だ。手を合わせ、彼は心の中で「力及ばずごめんなさい」と詫びた。


”埋葬してあげようか”


 心理的に居た堪れないのもあるが、メグの兄が感染症を患って死んだ場合、遺体が素民たちの傍にあれば彼らは一瞬で全滅だ。火葬の方が手間が省けて衛生的にも最良だが、見たこともない弔い方では素民たちの反感は強まりそうだ。


”どう思われてもいいけど、彼らの心情を大切にしないと”


 そのとき、ピローンとどこかでインターホンが鳴ったような音がした。

 やけに人工的な音だったので驚いて辺りを見渡すと。メグの兄の頭上に黄色の蛍光で「!」マークが出現している。 

 跳ね上がりそうになる心を押さえつけ、青年はインフォメーションボードを呼び出した。インフォメーションボードは素民には見えないらしい。それでも隠れて覗くと、見慣れない項目が出ている。


 死亡者ログだ。


”で……出たよ”


 ゴクリと唾を飲む。緊張しながら触れると、解析が始まった。1%、2%、5%……解析中を示すナビゲーションバーの進捗具合が遅すぎたので、先に墓穴を掘りに行く。少し離れた草原の、柔らかな土壌を選んでリアルな意味で墓穴を素手で掘る。手ごろな棒も落ちていないのだ。

 ざくざくと無心で三時間掘った。人間やればできるもので、人一人分埋められそうな穴ができた。


”屈葬がいいかな”


 兄の遺体のもとに戻ると、メグがせっせと傍にお供え物を並べていた。お供え物という概念は彼女にはなく、食べて元気になってという願望のあらわれだ。しかし寂しいことにメグが供えていた果実は青年が持ってきた果実ではない、メグが長い道のりを歩いて自分で採集した小ぶりの、なけなしのそれだ。彼の作った果実の方が大きいし、栄養価も高いが……言える空気ではなかった。


 メグは青年が彼女の兄に近付くのを快く思っていない。青年の気配を感じ取るや、兄の前に陣取る。だが彼に与えた綿布はそのままの状態だった。温かいと知っているから。

 ただ、彼女は悔しかったのかもしれない。成すすべなく死んでいった彼を、神だと信じていた青年が救おうとすらしなかった、つまり信頼を裏切ったから。

 青年は近付くことを諦めて、再度インフォメーションボードを呼び出す。死亡者ログ、解析完了と出ていた。

 

 犠牲から学べることがある。


”えーと、何て書いてある?”


挿絵(By みてみん)


 目に飛び込んできたのは緑、黄緑、赤、黄、青、ピンク、橙、赤……色の色彩。解析完了画面は一面、規則的に並んだ小さな水玉模様に覆い尽くされていた。


 何だろうこれは。

 死因が出るものだとばかり考えていた彼は何のための死亡者ログなのかと混乱する。


”水玉模様って何だよ”


 とツッコミを入れているうちに冷静になり……思い出してしまった。


”これ、まんま遺伝子発現解析の生データじゃん”


 彼には心当たりがあった。学生時代やらされたものだ。

 遺伝子発現解析マイクロアレイとは、簡単に言うとその人の体で起こった全遺伝子の発現パターンが分かる遺伝子検査方法だ。RNAを逆転写してcDNA(相補的DNA)を作り……遺伝子の発現量を解析する。病気を患っている人は遺伝子発現パターンが普通の人と比べて異常があるので、健康な人のパターンと比較すれば何が異常か分かる。


 まさかこれ以後、素民の死因を知るには毎回遺伝子解析を……と思うと彼は気が遠くなりそうだ。幸い、生データに対応して遺伝子名のリストが添付されていた。未開の地、原始時代よりなお酷いこの世界で、解析端末もないのに遺伝子解析だ。

 

 遺伝子と一概に言うが、人の遺伝子はざっと三万もあるのだ。


”そんな一個一個の機能全部覚えてるわけないし、暗記したことすらないよ”


 目ぼしを付けるしかない。ひどい腹痛を起こす原因……。彼はその痛みを、兄の三倍強く知っている。増幅された痛みは病気を特定するための手がかりになるのだろう。


 四苦八苦していたら、インフォメーションボードの上に最大赤フォントで「緊急!」と出た。


【第二十七管区 住民全滅まで 99時間59分59秒】


”詰んだ――!?”


 カウントダウンだ。全員死亡が確定したのだろうか。

 未知の死病の三の九乗の苦痛とともに住民を失い、世界構築も二か月前からやり直し……?

 九十九時間で、神通力のない状態で何ができるものか。先ほどは「絶対誰も死なせません」などと言っておきながら、と青年は不甲斐ない。


”――とにかく、ぎりぎりまで何とかするしかない”


 心を落ち着け、痛みの記憶をたどる。

 腹部を中心に、消化管に沿って広がる痛みだった。彼はアガルタ世界では神様らしく食事も排便もしないので下痢症状は反映されていなかったが、兄は下痢をしていたかもしれない。


”腹痛で死ぬ病気がこの世界にはあるんだろうか。未知の病原菌だったらもう手がつけられない”


 悶々と考えていると、メグの集落の素民の少年が草原に出てきた。痩せた小さな色黒の少年だ。


 用便の為に草原に出てきた少年に彼が後ろからそろりそろりと近づこうとすると、接近に気付いた少年は逃走した。


”お尻拭いてなかったのに悪いことしたな”


 反省した彼は、遠くからあにさまが下痢をしていたか尋ねる。

 ぼさぼさ頭の茶髪の少年は草でお尻を拭きながら、してたよと言う。


『ところであなたのお名前は?』


 ロイだよと言って遠くから叫んだ。


”この子もこの子でかわいいな。前歯が二本ぬけてら”


 死なせたくない。

 果実を持参した彼にロイは悪い印象は持っていない様子で、メグの兄の最期の状態を遠くから叫んだ。血の混じった激しい下痢をして熱を出していたと……。

 念のためロイに腹痛の有無を問えば、痛いと言う。


『……ロイも感染してるのか』


 彼は懇ろに礼を言うと、ロイの証言をもとに再度ボードを呼び出し、遺伝子発現解析結果にかじりつく。

 兄の熱の原因は腸管炎症性の発熱だ……下痢もして苦しかっただろう。出血に、脱水症状ときた。炎症で発現する炎症性サイトカイン、インターロイキンなどを見てゆくと、軒並み炎症関連マーカーが発現していた。


『そっか、……そっか』


 炎症が起こっていなければ現れないマーカーなのだ。遺伝子発現解析の生データからは、人以外の遺伝子も同定されていた。


『何で人以外のがある……そりゃ、多少は常在菌とか人の体にはいるもんだけど』


 妙だった。


『エンテロへモリシンが同定されて、インチミンもある。これ手がかりになるぞ』


 加えて腹痛、発熱、出血性下痢……。


『あ。ちくしょう! そういうことか!』


 思わず彼は舌打ちした。VTEC(出血性大腸菌感染)だ。


『仮想世界に細菌なんているのか!?』


 彼は仮想世界アガルタのディティールの作りこみように戦慄した。

 しかし人類は病気と闘い続けることによって小進化を遂げ強靭さを獲得した生物である。だから仮想世界内でも彼ら素民の進化のために病気が必要、そういうわけだ。

 現代社会の人間は抵抗力が強いので致死的ではない感染症だが、彼らは栄養状態が悪く免疫力に乏しい。


『せめて同定できてよかった。未知の病原菌ほど怖いもんはないからな』


 ロイの証言から、彼らは既に感染している。

 飲み水、共通の食べ物から感染したのだ。


 現実世界のように万能薬は無理でも、せめて抗生物質が必要だ。それだけで何とかなるのだ。現代なら些細なこの病に対する唯一の方策、抗生物質を調達するすべがない。

 インフォメーションボードに「緊急!」の文字が躍り、メニュー画面が赤く変化した。まさに緊急事態、何か情報は増えてないか、彼は必死に画面上を縦横斜めに目を配る。すると画面上に「呼出」というボタンが出現していた。


 迷わず押した、押すしかないのだ。

 すると画面の中に、さらに赤枠のウィンドウが出現。


 切り替わった画面の向こうに、現実世界からこちらを覗く西園担当官の顔があった。頬杖などついている。西園担当官は髪の毛をおろし、眼鏡に黒スーツだ。


『西園さ――――ん!! 二か月ぶり、会いたかったですよ!』


 彼は人恋しくなって画面にかじりつく。

 西園担当官は顔をしかめ、ひょいと身をのけぞらせた。


『どうしました、赤井さん。まだ二時間もたっていませんよ』


 現実世界ではやっとランチタイムが終わった頃なのだろう。


『あなただけですよ、アガルタに適応できていないのは』

『え! 青井さんと白井さん、適応できてるんですか? どうやって?』

『詳細を教えることはできません。ですがこれだけは教えて差し上げます。アガルタ第二十八管区、白の女神の管区です。構築士への信頼率は100%、住民は10名、全員健康です。そしてアガルタ第二十九管区、青の神の管区ですが、こちらも構築士への信頼率は同じく100%、住民は15名。住民の健康はすこぶる良好です』

『15名!』


 住民が、増えている! 

 彼は驚愕したが、環境がよければ増えるのは当然かと納得する。

 彼は同期に完敗の様相を呈していた。


『一方あなたは信頼率0%、住民は9名、全員栄養不良、全員病原体に感染中です。あなたが自力で同定しましたので答えを明かしますが、見立て通りVTECに感染しています』


 度量のなさを改めて突き付けられ、ぐうの音も出ない。


『はい……』

『やり直せばいいんじゃないですか』

『やり直す?』


 西園担当官は黒ぶちメガネを直し、そっけなく言い放つ。


『心機一転、もう二か月前からね。頭でもぶつけて気絶しながら、彼らが死ぬまで待っていれば、二か月前と同じ状態になります。住民は全員入れ替わりますが、どうせ彼らには信頼を得られなかったのですから』


 彼女は相変わらず美人で……そして冷血だった。


『どうせなら、素民たちも新しい方がいいでしょう?』

『それって……全員死んでいなくなる、つまり間接的に殺すってことですか』

『そうですよ。リセットするともいいますね』

『ほかに、それ以外で何か情報はありませんか。彼らを死なせたくないんです!』


 何故、彼女は冷たいのだ。現実世界の、本物の人間なのに。

 彼女にとって素民はただのプログラムだろうが、青年はそうは思わない。


”そんな……いくらでも代わりがいるみたいに”


『緊急事態にはできることが増えますよ、ボードのメニュー画面を随時確認してみてください』


 西園担当官は青年が素民に同情して落ち込んでいるのを意外そうに見ていたが、思いついたように補足した。


『お願いします。抗生物質だけをいただけませんか? 何とかしてみせます』

『できませんね。万能の力を持つあなたに、本来できないことはないはずです』


 必死の懇願は、担当官には届かなかった。


『あなた、逃げたいだけではないのですか?』

『え?』

『私なら民を一人も殺さず、完璧な神様を演じます。失敗したなら責任を取ります。だからあなたを見ていると腹立たしい。しかし見ていますよ、それが私の任務ですから』

 

 ……西園担当官は、構築士になりたかったのだろうか。

 そして彼女は現実世界から、青年の行動を苛立たしく見ていたのだろうか。青年はふとそんな予感がした。


『どうしても助けたいのなら。九人全員から強く信頼されることです。そうすれば民が発病してもあなたは苦痛を受けず、彼らの為に働くことができ、無限の力を揮えます。信頼の力は苦痛を打ち消します、それがアガルタの神です』


 彼女は青年を蔑むように見下ろすと、話もなくなったらしく通信を切った。

 こうして現実世界との一回目の通信は絶たれ、九十九時間の猶予が与えられた。


『できるだけのことを、するしかない』

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