第四十四話 ジークリンデの活動日記
一日中太陽が昇ったままだという白夜も終わり、季節は移ろいで夏から秋へと変わろうとしている。
森の木々は緑色から鮮やかな赤や黄色に染まり、肌を撫でる風も冷たさを感じるようになっていた。
まだ空の光も顔を見せぬ朝。
軍時代はいつも日の出前に起床し、独身寮の周辺を歩き回ることが日課となっていた。
そんな習慣が抜けずに、異国の地へとやって来ても早い時間に起きてしまう。
ここでも、朝の散歩は続けていた。最初は村に溶け込む為に行っていたが、今では早くから働く者達との交流を楽しみに出かけるようになっているという。
引き出しの中から花の香りのする服を取り出す。
そろそろ寒い時期なので、冬用の生地の厚いものを着ようと奥から引っ張り出した。それを纏ってから洗面所へ行き、顔を洗って歯を磨き、髪の毛に櫛を通して身なりを整えてから外に出る。
外に出ればひんやりとした風が吹き、冬の気配を知らせてくれる。
この国の圧倒的な緑は美しいものだったが、私はその暖かな景色よりもキンと耳が痛くなる程の、白に包まれた世界の方が好きだった。
今からまた、そんな季節が訪れることを思うと、年甲斐も無く心が躍るような気分となる。
伯爵家の屋敷の庭先から生い茂る森林を抜け、赤い煉瓦の家が並ぶ村へと到着をした。
早速、第一村人を発見する。
「おはよう」
「あら、ジークリンデ様、おはようございます」
井戸の前で水汲みをしていたのは村の妙齢の女性。
「大丈夫か?」
「ええ」
彼女には新しい命が宿っていた。家事をするのも困難なのでは、と思うほどお腹も膨らんでいる。
「随分大きくなったな」
「ええ、もうそろそろ産まれるかな~ってお義母さんが」
身重のご婦人に代わって井戸の水が入った桶を両手に持つ。
ここの村の者達は皆働き者だ。このような状態でも休まずに毎日動き回っているのには驚きしかない。
「何か手伝うことは?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか。……元気な子が産まれるのを楽しみにしている」
そんな風な言葉を掛ければ、彼女はお腹を撫でながら幸せそうに笑う。
家まで水を持って行くと、ご婦人の夫が慌てた顔で飛び出してきた。知らぬ間に働いていたらしい。こちらに向かって頭を下げ、気にするなと軽く手を振ってからこの場を後にする。
その後も様々な場所を冷やかして歩き、一時間ほど経った位に帰宅をした。
庭先では、ランゴ家の主が槍を振って鍛錬をしている。目が合えば、傍に置いてあった棒を投げてくる。
互いに木の棒を構え、朝を知らせる村の鐘が戦いの合図となる。
相手は棒を腰の位置で持つ構えから、獲物を刺すかのような鋭い一撃を放ってきた。これをまともに受けていたら大変なことになるので、回避行動に全力を注ぐ。
体を捻り、腰の位置に携えていた棒をくるりと回してから高く揚げ、手の甲目掛けて素早く振り下ろしたが、目標に届く前に棒で受け止められてしまう。
そのまま棒は弾き返されて、自分の手から離れてしまい、宙に放たれた。
本日も清清しい程の負け。
今まで白熊の戦闘民族に勝てたことは一度も無い。
手合わせの礼をする為に、彼らの挨拶である胸を拳で打つ仕草をした。
帰宅後はランゴ家の奥方が用意してくれた薬湯に浸して絞った手ぬぐいで体の汗を拭い、居間で朝食の時間まで待機をする。
ここの地域には新聞は配達されない。だが、辺境の自給自足生活となれば、世間の事件などどうでも良くなっていた。
それからしばらくすると、リツハルドが起きて来る。
「おはよう、ジーク」
こちらも挨拶を返せば、彼は嬉しそうに微笑み顔を向け、両方の頬に口付けをしてくる。これは夫婦の朝の挨拶らしい。毎朝やっている事だったが、いつまで経っても慣れないままで、ついつい目を泳がせてしまう。
今日は森に落ち葉を拾いに行くと言う。
綺麗な秋の葉を優雅に堪能しよう、という目的ではなく、来年の畑の肥やしにする為に集めるのだ。
各家庭で収集責任量があり、一人当たり大人は麻の入れ物に三袋集めなければならないらしい。
「まあ、その辺落ち葉だらけだからすぐに集まるよ」
そんなことを言いながら、リツハルドは眠そうな顔でパンを頬張っている。
彼は朝に弱いようで、朝食後のコーヒーを飲み終えるまではっきりと覚醒してない。話をしている内容はしっかりしたものなのに、表情は今にも眠ってしまいそうな状態だ。
朝食から一時間後、様々な道具を用意して、その他に何があるか分からないので武装をしつつ森へ出かける。
「今日はいい天気だね~」
「そうだな」
リツハルドは相変わらずのんびりとしていた。そこが彼のいい所でもある。
短気で乱暴、口調も荒い自分と、気が長くて穏やか、口調は柔らかなリツハルドと正反対の二人だが、自分には無い部分を補い合うような関係なのだと最近になって気が付いた。
想定していた以上の幸せな日々を送ってる。
ゆったりとした辺境暮らしは自分に合っていた。
彼は、出会った日に子供は出来ないだろうと言っていたが、それでも構わないと思う。
まあ、朝に会った幸せそうな夫婦を見て何とも思わない訳では無かったが、この先も平穏無事な生活を送れたらこれ以上満たされるものはないな、と考えていた。
そんなことを思っていた折に、いつもと違う出来事が舞い込んで来る。
「――な!? これは……」
「!?」
いつも散策している森の白樺の木の皮が無残な状態で剥ぎ取られていた。
残った木も、ナイフで抉られたような、酷い姿をしている。
白樺の皮は、一度剥いでしまったら再生はしない。なので、剥ぐのは冬から春にかけて暖炉用に切り倒すものから取るようにしているという。
リツハルドは無言で森の奥へと進む。
「――!!」
「……」
森の開けた場所には火を熾した跡と、山のように積みあがった皮を剥いだ兎の死体。
中には焼いたような固体もあった。食べようとしていたのだろうか。狩ったばかりの獣は死後硬直をしているので美味しい訳が無い。
そして、リツハルドは震える声で言う。
――この森に密猟者が居る、と。
その場にあった兎を地面に穴を掘って埋め、その場から引き返す。
リツハルドは黙ったまま、早足で進んでいた。いつものように私がついて来ているか頻繁に振り返ることもない。
そのまま向かったのは軍の駐屯地となっている要塞だった。隊長であるヘルマン・アールトネンの所へ行き、森の中で見てきたことを話す。
「はあ、そんなことが」
「俺が領主になってからは、密猟なんて起きなかったから驚いて」
リツハルドは冷静に事情を話していたが、猛烈に怒っているのが分かった。
怒りを覚えるのも無理もない。森の恩恵を受ける為に様々な決まりがあり、それらを守りながらひっそりと暮らしてきたのに、何も知らない他人に荒らされてしまったのだ。
「分かりました。夜に見回りをしてみます」
「俺も同行を」
「いえ、まずは私達にお任せ下さい」
「……」
渋々、といった感じにアールトネン隊長の言葉をリツハルドは受け入れる。
それから三日が経ったが、犯人の足取りは掴めるものの、実態を把握することは出来なかったという報告を受ける。
アールトネン隊長は犯人の足取りを細かく森の地図に書き取っていた。
「この動きから見ると、次はこの辺りに出没しそうですね」
紙の上で取り囲んだ位置は、森の中間地帯。現場に残された痕跡から犯人は恐らく少数で来ており、身を潜めながら行動をしているだろうとのこと。
「今日は俺が行きます」
「いえ、そんな!」
「今日は満月です。なので、灯りを持たずに闇に紛れて相手を探します」
彼らは『
「分かりました。ですが、こちらからも二人ほど連れて行って頂けますか?」
リツハルドは頷いてアールトネン隊長の提案に了承をした。
帰宅後、居間の机の上には様々な物騒な道具が並べられていた。
数本の短剣に銃、棍棒に縄。
その一つ一つを入念に確認していた。
「リツ」
「なあに?」
怖い顔をしているのに、こちらが声をかければいつものリツハルドに戻る。
ぎゅっと胸を締め付けられるような気持ちを抑えながら、用件を伝える。
「今日の晩の作戦に、私も連れて行ってくれ」
「絶対駄目」
そんな風に言われると思っていたので、予想通りだとため息を吐いてしまう。
だが、今回はどうしてもついて行きたかったので、食い下がった。
「私は軍人だった。今回のような荒事にもなれている」
「駄目だよ、ジークリンデ。家で大人しくしていて」
「だが」
「お願い」
「……」
まっすぐに向けられた、真面目でひたむきな目。
そんなものを向けられたら、言葉に詰まってしまう。
「ジークは軍人さんで今回の件にも問題なく対応出来ることは分かっているけれど、危険な目には遭わせたくない」
「……」
「奥さんは、ジーク以外に居ないから」
世界でただ一人だろう。こんな私を女性扱いしてくれる人は。
しかしながら、偶然にも彼と思いは同じだった。
「私とて、この前のような思いはしたくない」
「……」
以前、彼が顔に大きな痣を作って帰って来たことがあった。その日は要塞の新しい人員を迎え入れに行った時で、そこで何か起こったことは一目瞭然なのに、リツハルドは転んだと言ってそれ以上事情を話そうとしなかった。
彼が知らない所で傷付くのは我慢出来なかった。なので、意見に歯向かってでもついて行くことを決意していた。
そして、胸に秘めていた思いを語る。
「もしも朽ちる瞬間が来たら、その時は共に」
「!?」
彼の為に戦おうとか、身を挺して守ろうとか、そんなことは考えていない。ただ、苦楽を共に分かち合いたいだけだった。
結局リツハルドは同行を許してくれた。
何だかんだで最終的には折れてくれる。分かっていて食い下がった訳だ。
夜。
月明かりが照らす中、リツハルドを先頭にして慎重に進んでいく。
満月で明るいと言っていたが、辺りは暗闇も同然という状況だった。
肩に掛けた銃の紐をぎゅっと握る。このような中では、弾を的中させる事は出来ないなと想定していた。じんわりと、額に焦りの汗が浮き出ているのを感じ、手の甲で拭い取るが全くすっきりとしない。
幾度となく戦場で銃を握って来たというのに、この緊張感は何かと自問するが、答えは出て来なかった。
前を歩くリツハルドは迷いの無い足取りで進んでいる。
三時間ほど歩いただろうか。場所は森の中間地帯の入り口に差し掛かった場所だという。
身を低くしながら歩き、周囲の音を確認する為に神経の全てを向けていた。
途中、前を歩くリツハルドからぱっと手で制される。後に続いていた者達はその場に伏せて次なる指示を待った。
遠くから話し声が聞こえ、薄明かりがほんやりと闇に浮かぶのが分かった。
リツハルドは指先で相手の人数を示す。
相手は、二人。
やはり、アールトネン隊長の言っていた通り、少数で行動をしていた。
どんどん密猟者達が近づいて来ているのが分かる。
暗闇の中、彼らは「ここは宝の山」だと大声で話ながら進んでいた。
緊張も高まる中、リツハルドは銃を肩から下して音が鳴らないように慎重に地面に置いている。
意図は不明だが、息を潜めている最中なので、聞くわけにもいかなかった。
まだ、相手の装備が分からない為に動くわけにはいかない。そんな風に考えていた刹那、少し離れた位置から草を掻き分ける音が聞こえ、白くぼんやりとりとした素早い何かが飛び出して来た。
驚きの声を上げたのは密猟者達。
「熊だーー!!」
「で、伝説の、白熊!?」
相手が混乱をしている中で、リツハルドは地面にあった石を拾い上げ、手の平でぽんぽんと跳ねさせながら弄ぶと、そろりと立ち上がり、灯りのある方向へと全力投球する。
「!?」
投げた石は密猟者の持つ角灯に当たり、外側のガラスを破って火を消した。
更なる混乱の中へと陥ってしまった密猟者に向かってリツハルドは再び石を投げ、悲鳴が聞こえたのを確認すれば、一人飛び出していく。
聞こえるのは、殴打をする音と密猟者の悲鳴だけ。
視界がはっきりしていない自分達は無闇に動くわけにもいかなかった。
数分後、灯りを点けてもいいと遠くからリツハルドの声が聞こえてきたので、軍の者が角灯に火を用意する。
声がした方へ近づけば、縄で拘束された密猟者の地面に蹲る姿があった。
リツハルドは暗闇の中で格闘し、森を荒らす犯人を捕縛していた。
ちなみに彼らが見た熊は野生のテオポロン。
偶然にも狩りをしている彼に居合わせてしまったという。
◇◇◇
このようにして、事態は収拾をした。
思わぬリツハルドの活躍に、軍の兵士達も見直したと騒いでいる。
「領主様、やれば出来る子だったんですねえ」
「なんで普段は暴力なんて出来ませんみたいな、虫も殺せないような顔をしているのか」
「さあねえ」
まさかリツハルドが直接手を下すとは思ってもいなかったので、その件については私も驚いた。
「力の使い方を知っているのでしょうねえ、領主様は」
「……」
知っているのなら、自衛にも使って欲しいと思った。
だが、今回のことで考えを改める事となる。
リツハルドはふわふわと綺麗な世界で暮らす可憐な妖精ではなく、厳しい環境の中で生きる雪男だったということを。
この先、二度と彼が荒ぶる事が無く、平和な村であって欲しいと、そんな風に心から願った。
以上が私の生涯の中で唯一目の当たりにした、リツハルドの怒りの感情であった。