第二十八話 春の宴
結局、エメリヒにアイナの事情を伝えることは止めた。変に気負いそうだったので言わない方がいいと、ジークと話し合って決めたことだった。
そして、接触もしない方がいいと助言したら、彼は帰国をする日にアイナ宛に一通の手紙を書いてきたのだ。
それを本人へと持って行けば、やはり異国人からの手紙は受け取らないと拒否されてしまった。
が、日を改めてジークが持って行けば、あっさりとアイナは手紙を受け取ったのだ。
予想通りの展開である。
それから数日後。
アイナはエメリヒに手紙を書き、ジークを通じて送られる事となった。
その後、奇跡が起きて二人の文通が始まる。
次にエメリヒがやって来る夏までには何とか仲良くなって欲しいなあと願いつつ、彼らの恋の行方を見守る事となる。
……まあ。他人の恋路を応援している場合では無いんだけどね。
◇◇◇
雪解け水を吸い込んだ自然の緑は、春の訪れをゆるやかに知らせてくれる。
しかしながら、地上の雪が綺麗に融けきると、若葉は一斉に目を覚ますのだ。
春は禁猟期間だが、仕事は山のようにある。
本日ジークと向かったのは、トナカイの森だ。
家の小屋で飼っているトナカイは春季から秋季に入るまで森の中へ放つようにしている。
「秋になれば雪が降って狩猟が始まるのでは?」
「そうなんだけどねえ。秋は発情期になるから行動も荒くなるし、子作りをして貰わないといけないから」
「なるほど」
トナカイの子作りは秋に行われ、出産はちょうど今の時季となる。
「トナカイは一頭の雄に対して何頭もの雌を侍らせる生き物でね」
「それは、大変だな」
「でしょう?」
そんな生態故に、雄のトナカイのほとんどは去勢されている。複数の荒ぶった雄が発情期を迎えれば、森の中は大変なことになるのだ。
そんな風にトナカイについて話をしながら、森へと歩いて行く。
「さてと、トナカイさんにもうひと働きして頂きますか」
本日の目的はトナカイの乳。一年の中で今の時季だけ搾乳することが許されているのだ。
森の中に連れていたトナカイを放す。そして、その後をついて行けば、雌のトナカイが出てくるのだ。
時間を置かずに雌のトナカイが現れる。
流石、トナカイの森一番のモテる男だと感心してしまった。
ジークと二人で深型の桶を手に、雌トナカイへと近づく。
「大人しいものでしょう?」
「そうだな」
我が家のトナカイを傍に置いていれば、雌トナカイに近づいても大人しくしている。
普段だったら縄で捕まえて角を押さえた状態でなければ搾乳は出来ないのだ。
「まずは角を確認」
「トナカイは雌にも角があるのだな」
「珍しいよね」
トナカイは雌にも角が生えるのだ。雄は秋になれば角が取れ、雌は夏に角が取れる。これは春の出産や子育てに備えて、雄よりも優先的に食べ物を確保する為に生えるものだと言われている。
その雌の角を確認するのは乳を採る量を均一にする為である。
トナカイの乳に限り、村の共通財産という認識となっていた。なので、どのトナカイからも乳を採っても良い事になっている。
その訳はいちいち探すのが面倒という単純なものだった。
乳を採ればナイフで耳の付近の角に傷を入れて、搾乳をしたという証を付けることが決まりとなっている。角の線が五本あるトナカイからは搾乳してはいけない事になっているのだ。
「この子は大丈夫そうだね」
我が家のトナカイに夢中になっている間に乳を搾らせて貰う。
「まずはね、乳は出やすいように乳頭を暖めることから始めます」
家から持って来た煮沸布巾でトナカイの乳を包み込む。血行を良くすると更に出やすくなるので、優しく揉んで解すのだ。
その後も濡れた布巾で乳を拭く。これは雑菌消毒の意味合いもあるからだった。
こうして綺麗にした後でやっと乳搾りが可能となる。
「それから乳を手の平で軽く握って、中指から下の三本の指で上から順に力を入れていきます」
そんな方法で搾ると、乳が出てくるのだ。
このような作業を地道に行う。
雌のトナカイは何もしなくても出てくるので、どんどん桶は満たされていった。
本日の収穫は桶四杯分。零れないように蓋をして、持って帰る。
「いつもだったら二杯分採ってから外にある
「それは良かった」
奥さんと二人だと作業も捗るのだ。
帰宅後はトナカイの乳を煮沸消毒しなければならないので、屋敷裏にある野外台所へと向かう。
まずは乳をキメの細かい清潔な布に通して、塵を避ける作業から始める。
これが終わったら、熱処理殺菌を行うのだ。
殺菌の方法は直接熱を加えて行う事も可能だが、鍋の底に乳がこびりついて勿体無いので、瓶に入れたトナカイの乳を沸騰したお湯の中に入れるという方法で行うのだ。
前日に煮立てておいた瓶の中に乳を入れる。それを沸騰したお湯の中で殺菌消毒をさせること十分。これで飲んでもお腹を壊さないお乳の完成だ。
日持ちしないので、三分の二の量だけ料理用としてルルポロンへ持って行く。半分は持って帰って自宅で使って欲しいと時間を掛けて伝えた。
ここでお疲れ様! と言いたい所であったが、まだまだ仕事は残っていた。
「ジーク、まだ元気?」
「ああ、平気だが」
「そう。残りでチーズを作るから手伝ってくれる?」
「分かった」
とは言っても、長期保存を可能とする本格的なものを作る訳ではない。
レモンとトナカイの乳だけで作る簡単なチーズを作成するのだ。
温かい乳の中にレモンの絞り汁を入れて木の棒でゆっくりと混ぜる。すると、木の棒に白いものが付着し始めるのだ。
「トナカイの乳がもったりし始めたらいい頃合いかな」
煮沸消毒をした布巾を桶の上に載せ、
「そして水分を搾る」
ぎゅっと布巾に棒を押し当ててある程度水分が無くなるまで力を加えるとほとんどの作業は終了となる。
「この布の中にあるのがチーズだね」
「へえ、面白いな」
「でしょう?」
このままではあまり味が無いので、塩を加えて食べるのだ。
「実はですね、奥さん」
「なんだ?」
「こんなものを朝から作っていまして」
中から出て来たのは、特製の堅焼きビスケット。
布巾を煮ている間暇だったので、黒麦で作ったのだ。
「これは、すごいな」
「チーズとビスケット、いい組み合わせですよねえ」
「そうだな」
空はまだ明るい。
だが、たまにはこんな時間から酒を飲むのもいいかと思い、本日の営業は終了することにした。
家に帰ってからルルポロンに夕食は不要だと告げる。そして、食料庫を漁って極夜の為に作った食材の処分を兼ねた宴会を行う事となった。
持ち出したのは果実酒に燻製肉、瓶詰めの
まだ少しだけ肌寒いので暖炉に火を入れる。そこに鍋を仕掛け、お湯を沸かした。
「ジーク、トナカイの乳のスープの具は何にする? 昨日採った魚も保冷庫から持って来ればあるけれど」
「いや、ここにある品だけで作ろう」
「だったら燻製肉とジャガイモだね」
トナカイの骨から取った粉末の出汁を入れて、刻んだ燻製肉と芽を取ったジャガイモを投下させる。
ジークと二人、酒を飲みながらの作業となっていたので、手付きもだんだんと雑になっていた。
「火傷をしないように気をつけろ」
「はい」
トナカイの乳のスープにはチーズを搾った汁を隠し味に使う。
実は、この
ジークはビスケットの上にチーズやスプレット、干し果物、ジャムなどを様々な組み合わせで盛り付けてくれていた。どれも美味しそうである。
最後に香辛料で味を整えて、スープが出来上がれば宴会の始まりだ。
作りたてのほのかな塩味のするチーズは、甘さ控えめのビスケットに良く合う。
トナカイの乳のスープも新鮮なものを使っているからか、一層美味しく感じた。
「結婚して良かったなあ」
「!」
しみじみとしたように呟いてしまう。
こんな風に仕事が早く片付くことなんて滅多に無かったし、毎日ゆっくりと穏やかに過ごせるのはいつ振りだろうかと考える。
今までは日々無気力な感じでだらだらと働いていたことも発覚したのだ。
自分が更正出来たのもジークのお陰。
本当に結婚は素晴らしいものだと実感をする。
ジークは珍しく酔っ払っているのか、ほんのりと頬を染めながら酒を飲み干している。
そんな姿を可愛いなあと思いながら眺めていた。
「奥さん、もう一杯いかが?」
「ありがとう、私の旦那様」
「!?」
思いがけないジークの返事を聞いて、果実酒の口はカップではなく、何も無い机に傾けてしまった。
「う、うわ!!」
「……」
零した酒をジークは近くにあった布巾で拭ってくれた。
「何をしている」
「ご、ごめんなさい」
酔っ払いジークの戯言に動揺してしまいました、とは言えなかった。
なんとも情けない話である。
このようにして、ささやかな宴の時間は楽しく過ぎて行った。