養蜂家の青年は、故郷にたどり着く
故郷まで約八時間の移動。その間、たくさんお喋りできるね、なんて言っていたアニャだったが――走り始めて三十分と経たずに眠ってしまった。
朝から山を下り、村では蜜薬師として家を回って、最後の最後でカーチャの相手もした。疲れ果てて眠ってしまうのも無理はない。
眉間に皺が寄っているのは、座って眠る状態に慣れていないからだろう。
肩を引き寄せ、ゆっくり横たわらせる。しばし、膝を貸してあげた。
一回目の休憩は二時間後だった。このままだと街についてから眠れなくなるので、アニャを起こす。
「ん……もう、ついたの?」
「違うよ。一回目の休憩」
「そう」
旅人達が休憩できるように、ちょっとした小屋があるのだ。
そこで用を足したり、湧き水を飲んだりと、小休憩を行う。
外は鬱蒼とした木々が生え、先の見えない道にゾッとしてしまう。
風も強く、一秒たりとも長居はしたくない。
「アニャ、馬車の中で夕食を食べよう」
「ええ、そうね」
村の食堂で、夕食を買っていたのだ。
アニャは焼いたマスをパンに挟んだマスサンド。俺は、炙った豚肉を挟んだ肉サンド。
味付けは塩とコショウというシンプルなものだったが、おいしくいただいた。
すべて食べ終わったころに、馬車は再び走り始める。
「私、イヴァンの膝を借りて眠っていたのね」
「可愛い寝顔だったよ」
「はいはい」
最近、アニャを可愛い可愛いと連発しているせいか、適当に流されてしまう。
冗談だと思われているのだろうか。すべて、本気の可愛いなのに。
「今度は、私が膝を貸してあげるわ。どうぞ」
「いや、眠くはないんだけれど」
「眠くなくても、横になったら、疲れた体が休まるから」
「それもそうだね」
お言葉に甘えて、アニャの膝を借りた。
やわらかくて、いい匂いがする、最高の膝枕だった。
八時間の移動を終え、真夜中に目的地である
アニャの膝枕がよかったのだろう。まる一日移動だったが、予想していたよりも疲れていなかった。
安全運転をしてくれた御者に
「ここが、イヴァンが産まれ育った街なのね」
「そう。まあ、実家は街の郊外にあるんだけれど」
懐かしい気持ちがふつふつとこみ上げてくる。
故郷を出て一年も経っていないのに、不思議な気分だ。
「せっかくたどり着いたのに、暗くて何も見えないわ」
「明日、明るくなったら案内するね」
「楽しみにしているわね」
ひとまず、マクシミリニャンが予約してくれていた宿に向かう。そこは観光客向けに建てられた、創業百年以上もの老舗宿だ。
「ここだよ。暗いからよく見えないだろうけれど、街で一番大きな宿なんだ」
「そうなのね。なんだか、ドキドキする」
マクシミリニャンが到着は真夜中だと伝えていたからか、ドアマンがすぐに「フリバエ様でしょうか?」と聞いてくる。
家名を呼ばれることはほぼないので、一瞬ポカンとしてしまった。アニャが代わりに「はい、そうです」と返してくれた。
受付には、支配人が待ち構えている。顔見知りなので、すぐに気づかれてしまった。
実家で作っていた蜂蜜を、納品していたのだ。
「君は、ベルタさんところの十三番目の?」
「いえ、十四番目です」
「ああ、結婚して家を出たという」
「そうです」
どうやら、我が家のいざこざは街でちょっとした噂になっていたようだ。
「いやはや、君が出て行ってから、いろいろあってね。ここだけの話なんだが、蜂蜜の品質も落ちたから、納品を取りやめてもらったんだよ。常連から、蜂蜜の味が落ちたって、苦情が入って」
「そうだったのですね」
蜂蜜の品質が落ちたというのは、ミハルからザックリと話を聞いていた。
街で取り引きしている人から直接話を聞くと、複雑な気持ちがこみ上げてくる。
「すまない。婿入りした君には、関係ない話だった」
「いや、まあ……」
まったく無関係ではないが、かと言って、突然品質が下がったのは俺のせいではない。
適当に相づちを打って、話題を流す。
「部屋は三階、風呂も用意するから、準備ができたら声をかけよう」
「ありがとうございます」
アニャと共に、階段を上がっていく。
朝、共に山を下った膝が悲鳴を上げたので、頑張れ、頑張れと応援した。
部屋にたどり着く。
ふたり用の大きな寝台が中心にどかんと鎮座した、広い部屋だった。
長椅子や円卓も置かれ、茶や菓子が用意されている。なんだかゆっくり過ごせそうだ。
荷物を運ぶベルマンが去ったあと、長椅子に腰を下ろす。
「なんとか到着できてよかった」
「本当に」
今すぐ眠りたいが、風呂に入ったほうがいいだろう。準備するのに三十分かかると言っていたか。
それまで眠らないようにしなければ。
「いや、ダメだ。眠い!」
「イヴァン、寝たらダメよ。お風呂に入らなきゃ」
「限界だから、アニャ、ちょっと俺の手の甲を抓って」
「そんなので、目は覚めないでしょう?」
「挑戦したい。思いっきりよろしく」
アニャは「仕方がないわね」と言い、「えい!」というかけ声と共に手の甲をぎゅっと握った。
「痛った!! かけ声可愛かったけれど、えげつなく痛い!!」
「大げさね」
アニャが加減することなく抓ってくれたおかげで、目が覚めた。感謝しかないけれど、二度と挑戦したくないと思ってしまった。