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養蜂家の青年は、反省する

 アニャの問題がひとつ解決――と思いきや、表情が硬い。

 微妙に、気まずい空気も流れていた。

 会話もなく、馬車を待つ。


 ヒュウと吹いた風からは、冬の匂いがした。

 薪を焚いたときに出るすすと、枯れた葉っぱ、それから乾燥した空気を含んだものが鼻先をかすめて感じるのだ。


 冬の匂いを感じると、もの悲しさを覚えるのは蜜蜂たちと疎遠になってしまうからだろう。

 今、アニャを見つめると同じような悲しみを感じる。

 彼女とは疎遠になりたくないので、ご機嫌がよろしくないとわかりつつも話しかけた。


「あの、アニャ? どうしたの?」

「何が?」

「いや、黙り込んでいるから、理由を知りたいなと思って」


 もしも俺が悪ければ、謝りたい。素直に白状する。

 アニャはジロリと睨み――はあ、とため息を零した。


「イヴァンが、カーチャに気持ちを伝えるように唆したでしょう? それが、嫌だったの!」

「うっ、ごめん」


 よかれと思ってしたことだ。でも、逆の立場になって考えてみる。

 たとえばの話だが、もしもアニャがロマナに「イヴァンが好きならば、告白しなさいよ!」と背中を押したら、とてつもなく複雑な気持ちになる。

 もしも、俺がロマナを受け入れたらアニャはどうするつもりなのだと、問い詰めたくなるだろう。


「本当に、ごめん」

「なぜ、カーチャにそんなことを言ったの?」

「このままだったら、カーチャはアニャに未練を残したままで、酷い言動を繰り返すと思ったんだ」


 カーチャ自身、善い人とは言えないが悪い人ではない。

 だから、アニャに告白して玉砕したら、きっぱり諦めると思っていたのだ。


「カーチャが勘違いを正したほうがいいと思いまして」

「勘違い?」

「うん。アニャは、きっと自分のことが好きだけれど、勇気がなくて言えないまま結婚したんだと」


 アニャはカーチャにひっそりと想いを寄せている。そんな勘違いがあるものだから、尊大な態度で物言いができたのだろう。


「アニャが何を言っても無駄だし、誤解は解けない。だったら、カーチャがアニャに告白して、振られたほうがいいんじゃないかって思ったんだ」


 アニャの対応は百点満点だったように思える。

 きっぱりと断った上に、カーチャの物言いが嫌だったとはっきり伝えた。

 アニャはカーチャが自分の考えや行動、言動のすべてが間違いだったと、反省するまで導いてくれたのだ。


「でも、この作戦はアニャが俺のことが大好きだってわかっている前提で実行できたものだから、その、いつも、わかりやすく好意を向けてくれて、ありがとう」

「あ、えっと、うん」


 アニャのピリリとした空気が、ふにゃんと和らいだ。

 頬を染めて、こちらを見上げている。

 アニャの手を握り、気持ちを伝えた。


「俺も、アニャのことが大好きだから――」


 と、いいところで、ガラガラという車輪の音が聞こえた。馬車がきやがった。

 待っているときにはこないのに、待っていないときにはくる謎。

 まあ、いい。アニャの怒りと誤解は解けたようだから。

 そのまま手を繋いで、馬車に乗り込んだ。


 ◇◇◇


 最終便だったが、馬車に乗り込んだのは俺とアニャだけだった。

 ただ、座席は荷物で埋まっている。何やら、品物を出荷するための便だったらしい。

 乗車時間を、アニャとふたりきりで過ごせるのはありがたかった。


 あっという間に外は暗くなる。


 車内にはランタンがあったものの、つけずに暗いままでいた。

 そのほうが、冒険気分も高まるというもの。


「ふふ、なんか不思議な気分ね。こんな真っ暗闇の中を、馬車で進んでいるなんて」

「だね」


 暗くなったら家に戻らなければいけない生活を続けていたので、こうして夜に活動するのは不思議な気分になる。


「実家にいたころは、しょっちゅう夜に家を飛び出していたんだけれどなあ」

「イヴァン、どうして夜に家を飛び出す必要があるの? もしかして、夜な夜な遊んでいたの?」

「いや、違うよ」


 家に夕食や寝床がなく、親友の祖父から譲り受けた小屋で寝泊まりしていた話をしなければならなくなった。

 また、実家の闇をアニャに語って聞かせてしまったのである。

 楽しい話ではないので、なるべくしないようにしていたのに……。

 うっかり口を滑らせてしまった。


「夕食はおろか、眠る場所さえないなんて……。酷いわ」

「まあ、大家族あるあるだと思うよ」


 今は、帰ったら「おかえりなさい」と言って迎えてくれる家族がいる。

 おいしい食事だって三食用意されているし、寝床だってある。

 隣には愛らしい妻がいるので、俺は世界一幸せ者だろう。


「だからアニャ、泣かないでね」

「な、泣いてなんか、いないわ」


 アニャは時折、俺が可哀想だと涙を流してくれる。

 彼女にはいつも笑っていてほしいのに、俺の育ちが悪いばかりに泣かせてしまうのだ。


 そっと抱きしめ、震える背中を優しく撫でる。


「アニャ、よーしよしよし、いいこ、いいこ」

「ちょっ、イヴァン、笑わせないでちょうだい」

「それが、笑わせようとしているんだな」

「もう!」


 すぐに、アニャは笑ってくれた。ホッと胸をなで下ろす。

 実家の不幸話は、この先ずっと封印しておかなくては。

 強く、強く心に念じた。


 

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