前へ次へ 
97/128

第8章 第4話 On Air▼◇

【謝辞】

今回は私の専門外の部分を含みましたので、工学考証をしてくださった以下の専門家に感謝します。

ありがとうございました。

本文確認…黒核 誇珀 様。

ご指導・ご協力…笑うヤカン 様。

「半導体とは、何なんだ」


 一音ずつの発音をさぐりながら、繰り返された半導体という言葉。

 この世界では不似合いな響き。だけど私は驚いた。

 赤い神様は彼に物質構築を許し、ありとあらゆる元素の性質を教えたのに、工学に関すること、電気回路、電子回路は教えなかった。地球と物理法則は違うから教えられなかったのかもしれない。

 でも、思うところがあったんだろうか。電気機器の着想を与えるから?

 もしかして、そうなんだろうか。


「メグ」


 そんな訳はない。

 もしかしたら半導体という名前を教わらなかっただけで、意味あいは知っているかもしれない。そう思って、


「導体と絶縁体の間の、半導体のことだけど」


 そう言うと。


「知らない。完全に知らない」


 ロイは真顔で首を横に振った。

 それはロイにとってまっさらの、何ら意味を成さない単語でしかないみたいだ。


「カム、噛む?」


 私は、お互い一息入れるために、私が大事にしていた噛むと甘い汁の出る葉っぱをロイに差し出す。モンジャの皆は、これが大好物なんだよね。私もそう。手が伸びた。


「そんなものが、存在するのか。どうやって?」


 その単語に意味を与え、私が結末を見届けずにここを去るのはいいんだろうか。

 半導体を教えたら、この世界には微小な材料を加工する技術は一切ないけれど、ロイは物質構築ができるから加工の過程をすっ飛ばして、一切の苦労をせずに現物を手にすることができる。

 それによって、まだ機械を加工する技術すらないというのに精密電子機器を創出し、電力と共に第二の頭脳を得て、アガルタ世界の構造と地球世界の演算を試みるのは、いいことなんだろうか。

 地球の技術史どおりの歩みを辿るのが正解なのかもしれない。

 だけど物質構築ができて、精密部品を作ることにアドバンテージがありそうなロイには、半導体から電子回路に入ったほうが早そうだ。

 もしかしてそれが原因で、アガルタ世界の法則を最悪破綻させてしまう? 

 どうなるんだろう。私は責任を負わないまま、ここを出る。

 でもこの世界の人々が地球人と対等に、脅かされず安全に暮らすためにはどうしたって避けて通れない技術だ。


 私ことメグ・バルと、ロイ・フォレスタ。

 いつになく真面目な顔して、岩の上に対面して座した二人。

 楽園を追われない、この楽園から出ることのない彼に、

 禁断の果実を、私はいままさに差し出して、彼に受け取ってもらおうとしている。


「あのね」

「少し待ってくれ。……ん、いいぞ」


 ロイは筆記具を用意して、いつものように記録をとりはじめた。

 彼がずっと、おそらく赤い神様から教わるときにはそうしてきたように、一言一句書き取るつもりだ。


「電気を通さない絶縁体と、導体については、ロイは知っているよね」


 これは、ロイが赤い神様から簡単に習っている。

 私は彼がカラバシュに行く前にロイの家に残されていた赤い神様の講義メモを余さず読んだから、私もそれを知っている。


「電気を通すか通さないか、という違いのある物質のことでいいのか。伝導帯と荷電子帯の間に、禁制帯がある物質かそうでないか、そういうことか?」


 ある結晶中において、電子の持つポテンシャルエネルギーは、いくつかの帯状構造に限局する。

 これをエネルギーバンドといって、この中には伝導帯と荷電子帯がある。伝導体と荷電子帯の間には、エネルギー的に電子がとりうることのできない帯域(禁制帯)がある。

 導体である金属は、伝導体と荷電子帯の間の距離が近い、というか禁制帯がないので隣接している。それで電気をよく通す。

 絶縁体はこの距離が遠く、電気が殆ど通らない。


「半導体の前にまず、電気回路と電子回路から話すよ」


 私は適宜、図を書いて説明する。

 彼は頷きながら聞いていた。電子機器を作るには、電気回路と電子回路に流れる電子の流れを制御することから始まる。

 電気回路は電気を用いて、エネルギーを有効に利用するための回路。

 電子回路は、電気を信号として使用して、情報伝達を行うための回路。


「情報と、仕事のために使うのか」

「ざっくり言うとね」


 その電子の動きを制御するために、電子素子を使う。

 具体的な用途は後で説明していくとして、まずそれぞれの電子素子の特性を説明する。

 電子素子は、受動素子と能動素子に分類できる。


「でね、電力を消費する素子を、受動素子というんだけど」


 受動素子には抵抗器、コンデンサ、コイル。これらが重要な働きを持っている。


 抵抗器。

 これは導体に対して電気抵抗率の高いもので出来ている。

 電流を妨げて小さくしたり、発熱させたりできる。コンデンサと組み合わせて、電気信号を遅延させることもできる。


 コンデンサ。

 これは絶縁体を挟んで向かい合った二枚の金属板だ。

 静電容量(電気を蓄える容量)いっぱいになるまで蓄電したり、直流を通さずノイズを遮断したり、交流では電流の向きが変わるので、溜め込んだ電子を放電したりできる。


 コイル。

 これは導線をぐるぐる巻いたものだ。

 電流を安定させたり電圧を変化させたり、交流電流を通すことによって特定の周波数の信号をより分けたりする。中に導体を入れると電磁石になって、それを磁界中で動かすと起電力を生じる電磁誘導が起こる。発電機をはじめ、電話やブザーなんかに使えるんだよ。


「そういうのを組み合わせて、電気を制御するのか。なるほどな」


 ここまで、ロイはあまり苦労せず理解してくれる。


「俺は電気を使える気でいたけど、こうしてみると特性を理解していなかったし制御にも程遠かったんだな」


 彼はしみじみとそう言った。電気を使って、仕事をさせるという発想は彼にはなかったんだ。


「なあ、メグ。さっき電流は直流の方がいいっていったけど」

「うん?」


 彼はまた、数式と正弦波をちまちまと書いて私の言ったことを検証していた。そっか、ロイにはあまり略さず数式で教えたほうがピンとくるのか。

 そう、例えばコンデンサは交流を流すと、電流の向きが切り替わった瞬間位相が90度逆転するということで電力を消費しない。コイルもそうだ。彼は考え込んでしまった。


「こうしてみると交流を利用したほうがいい場合もあるな」

「そうだね、用途によるよ」


 抵抗器と蓄電器を使った回路を多段に組み合わせると、発振回路にも使えるしね。

 部品の特性を知ったら、アナログ回路から作ってみるといいと思う。

 ロイの創造の光板は電圧も電流も、細かに解析できるみたいだから。

 何がどうなっているのか、電流計や電圧計がなくても細やかに計測できるだろう。

 改良すべき点もすぐに見つかると思う。


「次は能動素子なんだけど」


 能動素子には、ダイオードとトランジスタがある。


 ダイオードは、電気の流れを一定方向に整流する素子だ。

 トランジスタは、増幅やスイッチを入れる用途がある。


 ここで、半導体の話に戻る。


「半導体は、絶縁体と導体の中間の性質を持つ物質でね。禁制帯の幅が絶縁体より狭いの。ロイ、原子番号14と32の元素の荷電子はどうなっている?」


 二人で基礎をおさらいだ。ロイは迷わず図に模式的な軌道を、そして結晶格子図をかきつけ、周期表もついでにさらさらと書いた。

 周期表が頭に入っていないと話にならないんだけど、ロイに対しては問題なしだ。

 ちなみに原子番号14は珪素(Si)で、32番のゲルマニウム(Ge)だ。

 ロイは、原子番号を名前で知らない。何でかわからないけど、全て、赤い神様からは番号でのみ教えられている。


「荷電子はどちらも、4だ」

「結晶構造をとると、電子は動ける?」

「荷電子を共有して8になって安定になる。この状態では動ける電子がないな」


 そう、4つずつの荷電子を隣の結晶と分け合って、軌道の最外殻電子の数が8個になると、原子は安定となる。

 これらの結晶は絶縁体に近い。


「ならこの結晶の中に、5価の原子を加えるとどうなる?」


 ロイははっと息をのんだ。そしてどことなく嬉しそうな顔になった。

 例えば、4価の原子Si(珪素)の中に5価のリンのような不純物を混ぜ込む。

 すると、荷電子は共有結合を作るけれど、余った電子は伝導電子となって結晶の中を動き回る。

 それが、価数の多い元素を添加することによってできるネガティブ型半導体なんだ。


「動ける……そういうことか。逆に、4価の結晶中に3価の原子を入れた場合も軌道に電子が足りなくて動くな」


 4価の結晶中に3価の原子を入れたような場合は、結晶中に電子が足りない穴(正孔)があいている、それがポジティブ型半導体だ。


「その二つを隣接させると」


 私はロイの思考を、静かに誘導する。これでもういい、ここから先の応用力は彼の中にある。


「半導体に5価の原子を混ぜ込んだ余剰型の結晶1と、3価(荷電子がひとつ足りない)の原子を混ぜ込んだ不足型の結晶2を隣り合わせに接合、ってことか。接合面では、余剰な自由電子と穴が相殺されて、荷電子の充足した絶縁体に近い領域ができるな」


 接合面では電気的に絶縁された欠乏層という領域ができ、抵抗になるんだ。


「ここで、電圧をかけると?」


 ネガティブ型の方からポジティブ型に、順方向に電圧を印加(与える)すると。


「余剰型のほうを1型、不足型のほうを2型半導体と仮に名づけようか。電圧をかけると、荷電子の充足帯の抵抗を突破すれば、堰を越えるように増幅されて電子が流れるな、1型から2型へ。同時に、埋められた電荷の穴も移動してゆくのか」


 隣り合わせにして電圧をかけると、電子の整流(一方向に電流を流すこと)ができるんだ。半導体として知られる単結晶に電圧をかけても、電流は流れない。

 不純物を混ぜるという一工夫があって、半導体は電気を通す。


「そう、電圧に応じて電気を流したり流さなかったり。電流を一方向にしか流さない性質を持っているの」


 これが、半導体のダイオードで、順方向と逆方向の特性を持っていると、グラフを書いて説明した。


「縦軸に電流を、横軸に電圧をとってグラフを書いて考えてみるとこうなるよ」

「なるほど、たしかに”半導”体、言いえて妙だ」


 ロイは、感心したように頷いた。そしておもむろに四角形の窓を描き、彼が”創造の光板”と名づけたそれを手早く呼び出す。


「どうしたの?」

「半導体の性質を持たせるなら周期表4族に限らないし、単体の元素にも限らないだろう?」


 睨み据えるように真剣にこちらを見ながら操作の手を止めないので、今の今、説明した私の方が面食らう。


「荷電子の数を考えるなら、3族と5族、もしくは2族と6族を組み合わせて結晶化してもいけるはずだ」


 鋭いな。もう、そんな事を考えるんだ。

 バンドギャップの大きな半導体の組み合わせもあり、それはそれで利点がある。

 単一元素によらない化合物半導体が、そうだ。



挿絵(By みてみん)


 ロイが3属(Ⅲ族)と言っているのは、荷電子が3つの元素のことで、正確には第13族元素にあたる。周期表上から順に、アルミニウム(Al)、ガリウム(Ga)、インジウム(In)となっている。

 5族(V族)と言っているのは、同じくか電子が5つの元素族のことで、第15族元素のこと。

 上から窒素(N)、リン(P)、砒素(As)、アンチモン(Sb)なんかがある。

 2族と6族も基本は同じ。要するに、荷電子が8になるように組み合わせる。


「もっと、効率のいい構造がありそうだ。磁性を持たせてもいいし。どんな構造が許されるのか、考えてみるよ」


 彼は既に、単結晶だけではなく化合物半導体も最初から視野に入れている。

 化合物半導体の発想は、発光する半導体や、高電子移動度を持つ半導体と、大きなポテンシャルを持っている。

 最初の半導体から、それは数十年もかかった過程だけど、彼は物質構築という手段と、柔軟な発想力が武器だ。私はあまり有機、無機化学には強くないし、うろ覚えな部分もあり、得意分野でもない。

 でもロイは赤い神様が得意だったから、有機化学も無機化学にもすこぶる強い。

 様々な用途に応じた構造を、見つけようとしているのだろう。

 ああ、と私は思った。

 やっぱり、ものづくりに没頭するロイは昔から純粋に楽しそうだな。

 戦争や新しい兵器のことに頭を悩ませるよりよっぽど。

 調整の難しい会議のことを考えたり、対人のしがらみで苦労するよりよっぽど……。

 私は微笑ましくなる。


「これ、31番とか、33番みたいな元素と組み合わせた半導体にすると、電圧をかけたときに余剰エネルギーが生じて発光しそうだな」


 何だっけ、それ。ちなみに31番はガリウム(Ga)で、33番は砒素(As)だ。

 バンドギャップの大きな素材を組み合わせると、確かに光る。

 その現象はエレクトロルミネッセンス(EL)だと思う。


 ってことは、発光ダイオードか。


「うん……光るよ」 


 私は興奮で震えてしまった。


「はは、組み合わせ次第で色んな波長ができるし、見たこともない色ができそうだ」


 創造の光板で仮説を立て、計算させて構造を弾き出す。


「ん?」


 ロイの手が止まった。


「待てよメグ、さっき、一方向にのみ電流が流れるって言ってただろ? それは間違いじゃないか?」


 ロイはふと思いついたらしく、私がさっきやったように電圧を横軸に、電流を縦軸にとって模式図を書き、数式をしたためる。逆方向に電圧をかけた場合を計算し、グラフにプロットした。


「逆方向にも、電流は流れないのか? 電圧を上げていけば」


 筆記具を持つロイの手はさらさらと紙の上を疾走する。逆方向の場合、電圧の印加にともなって正孔を電子が埋めていき、埋め尽くしたら降伏電圧に至り、N型半導体側に電流が流れるようになる。


「流れるよ」

「やっぱりな、そうなると思った」


 ロイは、そこまで計算によって導き出した。


「1型と2型の半導体を交互に挟んで接合するのは?」

「ありだよ、多分」


 私も詳しくはない。思い出せないこともあるし、専門的なことは最初から知らないこともある。


「1型と2型を1-2-1と挟んだり、2-1-2と挟んだりすると、違う方向に増幅された電流を取り出せる」


 多分それは双極トランジスタになる。もっとも初期のトランジスタだ。電気回路の中に半導体の抵抗をもうけると電流が増幅するという性質を利用した……


「間に挟んだ素材にも電圧をかけてやると電流を何倍、いや何百倍にも増幅できそうだな」


 ロイが1型(N)と2型(P)と名づけた半導体の、PN接合を模式化した回路を書いている。


 見慣れない記号で構成されたものだけど、原理はあっている。

 それが電子回路図だよ、ロイ。


 私は何だかうれしくなった。


 ここで、ロイの考えに地球の常識と大きく違う点がある。

 ロイは、電流の流れる方向を「電荷の流れる方向」ではなく、電子の流れる方向と同じ、自由電子が陰極から陽極に流れる方向だと定義している。地球世界では、電子の発見される以前に陽極から陰極に流れるものだと最初に定められてしまって、その後修正されずにずっと伝わっている。

 電流の向きが地球世界と逆、という定義になると、どうなってしまうんだろう。

 多分、私は方程式をそのまま教えないほうがいい。ロイはロイで修正するだろうから、混乱の原因になる。


「1-2-1のほうが出力電力において増幅率が高くて速そうだ」


 その他の用途も、ロイは私が説明しなくてもあっという間に発見してしまった。

 私からロイに教えたことなんてなかったから、慣れないな。

 簡単に説明しすぎたかな、そう思ったので覚えているだけの補足を加えた。

 もちろん、混乱をきたさないように、原理だけ教えて地球上で用いられている数式は出さない。

 ロイは必要な情報を揃えて、満足そうに大きく頷いた。

 この説明の間、彼が理解に詰まった部分はなかった。

 彼はひとつ言えば10理解してくれるから、本当に教えやすい。


 私たちはアナログ電子回路の基本を教えたところでひと休憩した。

 今日のお昼は、手持ちがなかったので、二人で沢で釣ったお魚。

 それと、ロイが持ってきていた紫色の果物、メケメケ。

 焚き火を起こして、持参している塩を振って串を刺して焼いて食べる。

 ロイはずっと、片手で光板に何かを入力し続けていた。電圧とか電流とか、抵抗なんかを計算してるんだろう。


「なあ、この光板も、もしかして電子でできているのか?」


 ロイは豪快に頭から魚をかじりながら、ぽつりと、そう言った。


「そうだと思う」


 私は魚の骨を歯で取りながら、頷いた。

 このお魚、小ぶりなんだけど、焼くと鰭の部分がパリっとしておいしい。


「便利な技術だな、計算もできるし、物質創造もできるし、赤井様と連絡をとれたりするし」

「うん。計算機と通信機をかねているんだね」


 私はメケメケを、皮のまましゃくしゃくっとかじった。

 この果物は地球上にはなくて瑞々しくて、甘酸っぱくて美味しいので気に入っている。

 もう、メケメケも食べおさめかな。これに似た味の果物って、地球にあるのかな。


「改めて、神様たちの技術の凄まじさを思い知るな」


 彼は腕組みをして、感心したのか唸りっぱなしだった。


「これがこうなっている原理、メグには分かるか?」

「私も分からない」


 このアガルタ世界はそもそも虚構なんだ。

 その世界の内部から地球人向けの情報を引き出しているにすぎなくて、だからロイが見ているものは何なのか、私には説明できない。


「でも計算機は、電子回路を利用して、電流や電圧を物理量として扱えば作れるよ」


 アナログ計算機は、今説明したことを応用すればいけると思う。

 計算機だけなら、電気必要なくて機械的にも作れるしね。


 午後になっても、電子回路の話で白熱する私たち。

 そんな時、ロベリアさまが上空を通りかかった。私たち二人が何か真剣に話しているのを見て、降りてこられた。


「こんにちは、ロベリアさま」


 立ち上がって、朗らかにロイは挨拶をする。まずい。私は咄嗟に広げていた書類を握り締めた。

 ロイの方を見ると、今私たちが話し合ったことを記したメモを、手際よくロベリアさまの前から全て片付けていた。

 私は後ろめたく思いながらも、ほっと息をついた。


『ごきげんよう、二人とも』


 ロベリアさまは、今日も清楚な青いお召し物だ。

 女性らしくて、白地に銀色の風切羽根の先まで艶やかでお美しくて、私はいつもみとれてしまう。

 腰に、綺麗な二本の長剣を帯びているから引き締まった雰囲気を保っておられるけれど、そうでなければとても可憐な印象を与えるお方だ。


「どうなされたんですか?」

『メグさん、あなたを捜していたの』


 そうなんだ。何か御用かな。

 挨拶のかわりに、私もロイも祝福をしてもらう。

 ロイはそっぽを向きながらで、ほんのり照れているみたいだった。

 ロベリアさまに抱擁していただくと、いい香りが私の服にもうつって嬉しくなる。

 ひそかに、女子にはこの現象が人気。


『いい天気ね。二人でお勉強?』


 ロベリアさまは、お見通しなんだろうか。そうだとしたらどう答えよう。

 私はじっとりと額に冷や汗をかく。


「来週の、国際会議についての議案をまとめていて」


 ロイはしれっとそう言ってロベリアさんに資料をめくって見せた。

 嘘は言っていない。さっきまでその話題もしていたのだし。


『感心ね、二人とも』


 ロベリアさまは勘ぐる様子もなく、優しく微笑んでくださる。


『そうだ、今日の送別会の出欠はどうするの?』


 明日、青い神様と白い女神様が異世界へお帰りになられる。

 それで、モンジャとネストの人たちが中心となって企画して、神様たちの送別会をするんだ。

 とても大きな催しになりそう。


「参加する予定です。ですので、夕方には準備に戻ります」

「私もそうします」


 青い神様にも白い女神様にも、私はとてもお世話になった、コハクちゃんにも。

 だから勿論、参加するつもりだ。送別会には世界中の人々が集まる。

 これまで出会って仲良くしてくれたたくさんの人々にも、心の中で最後の挨拶をしたいなと思う。

 私がこの世界を去ることは、ロイと神様たち以外には誰も知らないから、一方的になんだけど。

 それでもいいんだ。そう思っていると……ロベリアさまはあらたまったお声で


『メグさん。私は以前あなたに、好きなときに旅立ちの日を決めていいと言いましたね』

「はい」


 私の背筋はしゃきんと伸びる。

 覚えている、ロベリアさまにそう言っていただいたその日のこと。

 ロイも、知らないけれど聞き耳を立てている。


『諸々の事情でそのようにはからえなかったことを、赤い神様ともども、申し訳なく思います』


 ロベリアさまは、深く頭を下げた。


「いえ、そんな……」

「赤い神様が、メグを向こうに行かせると決めたのではないんですか?」


 ロイが食いついて尋ねると、ロベリアさまは言いづらそうに視線を伏せた。

 そうだったんだ……。

 神様があなたを異世界に送ることを決定されたわけではありません、と、ロベリアさまは仰った。

 それじゃ、何があるんだろう。赤い神様にも、どうしようもないことがあるんだろうか。


『ですが、もうひとつの約束は守ります』


 もうひとつの約束? と私は聞き返す。


『向こうの世界で私があなたを出迎えるという約束は、必ず』

「え……ほ、本当ですか?」


 外に出たら、肉親だし、私のお姉ちゃんには会えると思う。

 もしかしたら、桔平くんにも。

 でもアガルタ世界での私を知っている人に地球でも会えるなんて、これほど心強いことはない。

 このアガルタ世界の思い出を外でもお話できるかもしれないだなんて。こんなに嬉しいことはない。

 そうしたら、どうなるんだろう。今後も、ロベリアさまを通してアガルタ世界がどうなったか教えてもらえるのかな。そう思うと、少しだけ楽しみになった。


『向こうの世界での名前は、ブリジット・ドーソンと言います。覚えておいてくださいね、向こうでは、このような姿はしておりませんから』


 にっこりと微笑んで、私の手をきれいな両手で包み込むようにされた。

 じんわりと温かく感じる。


『よかった。あなたに会う許可を得ることができたけれど、今度はたとえ誰に禁じられても、迎えに行くわ。だから、どうしても伝えたかったの』


 弧を描いてゆるく細められた瞳が、それが嘘ではないと言っていた。


『あなたは今までもこれからも、一人じゃないわ』


 ロベリアさま、お優しい方だな。

 わざわざそれを言うために、私を捜してくれていたんだ。

 私は嬉しくて、ちょっぴり涙が出てしまった。

 ロベリアさまは、そんな私をもう一度、黙って抱擁してくださった。



 空に舞い上がるロベリアさまを見送って、時間を忘れて私たちは話し込んだ。

 二人の影は、いつの間にか長く伸びきっている。

 今日一日だけで、ロイはラジオの原型のようなものを設計した。

 発光ダイオードの試作のようなものも作った。さすがに構造がまずいのか発光することはなかったけど、それでも十分な前進だよ、と私は思う。


「今日はもう、やめようか。もう夕方だよ」


 私はなおも根を詰めようとするロイの肩をぽんと叩いた。

 私も、今日は疲れたな。

 ロイと話して、ロベリアさまに励まされて、気分はこころなしか軽くなったけど。


「そうだな、送別会の準備に行くか」

「家に帰って、身支度してから行くね」


 今日はお気に入りの服に着替えて、送別会に出たいな。

 キララちゃんにもコハクちゃんにも、ミシカちゃんとも話したいことがたくさんある。モンジャの皆とも、友達とも……


「にしても」


 と、ロイは書類を綴じた後、まいったといったように頭をかいた。


「メグが教えてくれたことを応用して、この世界が電気で豊かになるには、何年かかるんだろうな」


 何年、でできるのかな。

 原理だけ知っていても技術が追いついてこないと思うし、早くても百年じゃないかと思うんだけど、ロイには言わなかった。

 彼ができると信じているなら、それは早期に実現するかもしれない。


 私たちは水をかけて焚き火を消して、火の後始末をした。

 

「そういえばのろしをあげるのも、ある意味情報の伝達の一様式だね」

「そうだな」 


 でも、もうそれでは満足できない。


 私とロイ。

 このアガルタ世界に最初からいた二人。

 私たちはこの十年で火を起こすところからはじまって、今は電子回路を考えているのは、感慨深い。


「電気を使って、情報を送りあうのは無理か」

「音だけなら、送信と受信ができるかも」


 私はあやふやながら、言ってみた。

 コイルの電磁誘導か、コンデンサを利用したマイクで電気信号を入力し、アナログの振幅変調を使ってアンテナから搬送波に乗せて、アンテナを同調回路から復調してダイオードを使って、水晶を利用したイヤホンから出力すれば、聞こえるよ。きっと。


 このアガルタ世界の大気に乗せて、いつかアナログラジオが鳴り響くのかな。

 FMモンジャの、世界各地の朝のニュース、なんてね。

 皆の家にラジオがあって、ヒットチャートを口ずさみながら家事をしたり、仕事をするんだ。

 愉快になって、私はくすっと笑いが零れてしまった。


「そうなると、皆で考えた方が効率的だな」


 ロイは、このアガルタ世界の皆の教育水準を引き上げる必要性を再認識したと言う。


「100人いたら100通りの発想が、1万人いたら1万人分の発想が出るかもしれない」


 その通りだ。

 彼が自分ひとりで何とかしようと思わないところを、ちゃんと皆のことを頼りにしていることを、私は尊敬する。

 多くの頭脳を結集して、みんなのアイデアの中からよりよいものを選ぶんだ。

 そうすれば断然開発も早くなるし、皆で協力することによって共同体の内部に活力も新しい発想も出ると思うんだ。

 そして、この世界で夢を見る人は私だけではない。


「それから、夢を見る人たち。私と同じ、異世界の記憶のある人たちにも、色々と話を聞いてみたらいいと思う」


 兄様も見るし、ヒノもそう。その人たちの記憶も戻ってきたら、彼らの知識を活用できるようになる日がきっとくる。


「そうか。それは面白くなりそうだ」

「うん……楽しみだね」


 これからどうなるのか、私もここにいて見たかったよ。

 向こうの世界に行ってもロベリアさまにお聞きすれば、多少はこの世界の中のことが分かるのかもしれないけど。

 それでも、見れるわけではない。

 そして協力したかったよ。

 もっと早く動き始めればよかったけど、私がここまで記憶が戻ったのは、実はごく最近のことなんだ。赤い神様のことを忘れたから、その忘れた脳の領域を埋めるかのように、地球世界での記憶が戻ったんだ。

 電子回路のことを思い出したのも数日前のこと。だから、間に合わない。

 それでも私は最後に、自己満足ではなく彼らのために、何かを残せただろうか。


 ロイは言葉に詰まった私を、困ったような顔をして見ていた。そしてぽんと手を打った。


「メグがここにいる間に作ってみよう」


 な! そうしよう、と彼は明るく言った。

 次の満月まで、あと2日だ。間に合わないと思うけど。そう思っていたら。


「間に合わなくても、俺は作るよ。そうしたら」


 メグの帰る世界に、通信が届くんじゃないかと思うんだ。

 彼は一片の曇りもない瞳で、そう言った。


「じゃあそのときは、こちらモンジャ放送局、って言ってね」


 私とロイはなんとなく、その場に大の字にひっくりかえって空を見上げた。

 そうだよ、このアガルタ世界の空に電波を乗せてさ。

 あの空の彼方にまで。


「熱狂的リスナー1号になるから」

「リスナーってなんだ?」

「放送を聴く人のこと」


「そっか」


 私たちは、企みごとをするようないたずらっぽい笑顔を互いにかわした。

 前へ次へ 目次