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第5章 第13話 たったひとりの旅立ち◆

 蒼雲に連れられ、シツジ舎にやってきたメグは震えが止まらなかった。

 シツジの様子を見ていてくれたナズの顔を見ても、落ち着かない。


 初産の母シツジはというと、駆けつけた三柱の神々とメグを見てどこか安心したような様子だ。とはいえ、母シツジは現実世界での馬にも匹敵する大型動物。手術というと大がかりで、メグは考えるだけでも恐ろしくて挫けてしまいそうだ。


 この場には三柱もの神々がいるというのに、誰にも助けを求められないのだという心細さ。この試練をどうやって乗り切ればいいというのか。そして何故、執刀するのがメグでなくてはならないのか。シツジの番をしていたから? 飼い主だから? 何故……? メグは理解に苦しむ。


 一方、木造のシツジ舎の中は微妙に色味の違う神々の後光によって明々と照らし出されていた。神々の発する熱で春の夜のように仄温かい。小刻みに震えるメグの背に、見かねた白い女神がその手をこっそりと置く。


『私達がついていますから、安心してください』

「しろの、めがみさま……」


 神通力に満ちた女神の掌手は優しく温かく、メグの不安を和らげてくれる。しかし


『おっと白ちゃん、変なことはやめてくれよ~』

『ですが……こんな状態では、うまくゆくものもうまくゆきません』

『メグがやらないと、母シツジも仔シツジも死んじゃうんだよ? 赤いのは手術なんてできねーし、白ちゃんもだし~』


 蒼雲は楽しそうだ。


『どうしてそうせかすのですか』


”あかいかみさま”


 メグは赤い神と視線が合ったが、もの言いたげな顔で沈黙を貫いているだけだ。

 しかし彼もメグの視線に耐えられなくなった様子で


『申し訳ありません、メグさん。蒼雲神の仰るように、手術以外に方法がありません』


 口調は優しいが突き放したようにも聞こえる、頼りのない答えがかえってきた。

 構築の能力で難産介助は不可能だ。

 薬で解決できるものでもない、仔シツジを取り上げなければならないのだ。

 全知全能の超神具「至宙儀」を持つ赤井神も、蒼雲やほかの構築士の助けがなければ駆動することすらあたわず、皮肉なものだった。

 心のどこかでメグはいつでも、「あかいかみさま」は何でもできて困ったときには助けてくれるものだと思ってた。どこかに依存と甘えがあった。


 だが、今日はシツジの命が危なくとも・・・・助けてくれない、助けられないのだ。

 確認しなかったが、彼女は悟った。私がやらないと、誰も助けてくれない。

 母シツジも仔シツジも救う方法は、神頼みではなく人力での手術のみ。


 赤い神は難産介助は未経験だ。

 何故なら素民は出産時に難産になることもなければ死産となることもない。

 生物学的にどう考えてもおかしいのだが、とにかくモンジャ集落ではそんな経験は一度たりともなかった。初心者なのは赤い神も同じなのだ。

 ならば、メグはここ数日、蒼雲から確かに医術の基礎を教えられてきた。

 そのうえ「メグにしか見えない」書物も授けられた。蒼雲いわく、神々の医学書なのだという。メグには神聖文字の読み書きが難しく、まだ数ページしか勉強していないが……。


「メグ、怖いなら僕がかわろうか」

 

 勇敢なナズが妹を庇おうと、何も知らない状態ででも果敢に挑もうとする。


「ママー! ママー!」


 母シツジは頻繁に苦しそうないななき声をあげる。

 それを聴いたメグの心臓の鼓動がさらに早くなり、気が焦って仕方がない。


『はいはい、どうどう』


 メグの覚悟が決まらなくとも、蒼雲は無言で母シツジの腹を撫で、鎮静のための処置を施していた。

 興奮気味だったシツジが大人しくなったのを見計らうと、彼は小屋の壁面にシツジをつないだ。


 ネストの王女ミシカがメグに告げたこと。

 シツジは長い時間をかけて品種改良をしたせいなのか、難産となる確率が野生のものより高く、そういったときには母シツジを見捨てて母を殺して、腹を切って仔シツジだけ取り出すのだと。「残酷だとは思うけれど……私たちにはなすすべがないから、新しい命を選ばなくてはいけないの」と、彼女は言った。辛そうに微笑んだミシカの言葉をメグは聞き流していたつもりはなかったが、まさかこの手で執刀する羽目になるとは思わなかった。

 今更のように、「母シツジは助からないのよ」と言った悲しげなミシカの言葉を思い出す。


『なかなか気持ちが固まらないかい? これ以上は仔シツジの命がもたないが?』

「これは……人にも、獣にも起こりうることなんですか? 今回だけが特別ではなくて」

『起こりうるよ、シツジだけじゃなくてほかの獣にもね。だから経験しといたほうがいい』


 蒼雲は当然のことのように答えた。

 メグが育ててきた大切な四頭のシツジにも起こりうること……メグの大切なモンジャの民にも、起こりうること……。

 ならば、学ばなくてはならない、その機会を与えられているのだから。


 ミシカの母親は、ミシカを出産した折に亡くなったという。

 ミシカが逆子だったからだ。

 パウル王は母親よりミシカの命を優先した筈がない。母子ともに助けたかったはずだ……しかし、ミシカだけを助ける方法を取らざるをえなかったから。

 現在のシツジの状況と重なってメグの胸はちくちくと痛む。

 新たな命と、そこにある命。

 両方とも助けることができるというのなら……もう、どの母親も死ななくてもよいように。


”その第一歩が、ここから始まるのなら”


 メグはまなじりを決して、立ち向かう。

 誰がやるという問題ではない、神々から選ばれ、与えられた使命があるというのならこたえるしかない。自分だけ逃げることは許されない。


『よっしゃ、いってみよ』



 ***



 夜更けになって、グランダでの宴を終えたモンジャ民が続々と集落に戻ってくる。

 飲み食いし過ぎで腹がはちきれんばかり、軽いウォーキングの後でも苦しそうだ。

 食い意地のはった彼らは延々と料理の感想などを述べている。

 料理を手製の弁当箱に詰めて持って帰った者も一人や二人ではない。

 そんなモンジャ民たちの帰宅が一段落ついた頃


「集落の入り口を閉じるぞー」


 閉門の合図にカーンカーンとドラのようなものを打ち鳴らした後、二人の門番と共にロイは堀で囲まれたモンジャ集落の大門を閉ざそうとしていた。


 大門は集落唯一の門で、やぐらの上の見張りが交代で常駐している。

 エドの来襲や変事に備えるためだ。

 神々の庇護はあれど、集落単位での自衛は欠かさない。

 モンジャ集落を一周するように囲いと堀ができてからというもの、夜間から朝日が昇るまでは大門を閉ざして住民の出入りを制限している。

 どうしても出てゆきたい場合は各世帯の点呼の後、門番に告げて外に出ていってもいい。

 しかし囲いの内側、集落の中では夜間出歩き自由だ。

 グランディア開催中なので屋外で鍛錬に励む者も多数いた。

 しかしそれは大門の内側での話であるが。


 行方不明者を迅速に把握するため点呼は必要である。

 万が一の折には赤い神に連絡をして捜してもらう必要があった。


「ロイ! 大変だ大変だー!」


 ロイが門に手をかけた時、メグとナズの父親のバルが取り乱しながら大門に走ってきた。

 バルはよほど慌てていたのか、革のサンダルを履きもせず両手に握りしめ、裸足で走ってきた。


「バルじゃないか。そんなに慌てて、何が大変なんだ」

「メグとナズが家に帰っていない?」

「すまん。家族が二人も揃って勝手なことをして……」


 うちばかり問題を起こしてすまん、と肩身狭そうに声を落とすバル。

 以前もメグが集落に戻らず、赤い神を交えての大捜索となったことがあったものだ。

 今宵の宴に参加していたロイは、集落の仲間や友達らと共に各国料理に舌つづみを打っていたメグとナズの姿を微笑ましく思い出す。


「宴では見たよ。片づけでも手伝っているのかな? 彼らにはエドのアイも一緒だし、危険はないと思う。もうすぐ帰ってくるだろう」

「だといいんだが……ネストのサケを飲んで、酔っぱらってカルーア湖にでも落ちたんじゃなかろうか」


 バルは酒のせいだと決めつけているのか、真面目な顔で唸っている。ロイはそんなバルに苦笑すると


「……サケかぁ。あれはこりごりだ、そうだろ?」


 モンジャ民は今回のグランディア祭典で、酒というものに巡りあった。

 ネストは寒冷地なので体を温めるためのアルコールが民の生活に欠かせないようで、シツジの乳酒はネスト民の大好物だ。

 ネスト民はサケに強い人種だったが、好奇心から宴会場でサケを初めて嗜んだモンジャ民もグランダ民も、酔いつぶれたり、泣き出したり、笑いだしたり、それはもうだらしないものだった。

 集落の民の中には気持ち良くなって酩酊状態となっているものもいたから、ナズとメグが酔いつぶれているかもしれない。

 しかし集落一の下戸だったのは、意外にもロイだ。


 赤い神がこっそりと、旨そうにサケを飲んでいるのを見ていたロイは”神様も呑むのなら”と、躊躇わず一気飲みしてみると、頭が割れるように痛くなって吐いてしまった。

 ロイは下戸なのですねと白い女神には笑われ、蒼雲や精霊モフコにはからかわれ、ロイは呑めない体質なのだと知った。

 何となく損をした気分でもあり、恥ずかしくもあったり。集落の女たちからも「あら、ロイさんにも苦手なものがあるのね」などと笑われ、集落の長として示しがつかず、二度とサケには手を出すまいと誓ったのだった。

 バルはそんなロイの心情も知らず


「いやあれは思いのほかいいぞ。楽しい気分になって、ふわふわした感じになる。モンジャでもああいうのを造ってみたいな」


 などと言っている。


「……俺が反対しても造るんだろうな」


 モンジャの地で地酒ができるのも時間の問題だろうとロイは思う。

 今日の宴でもモンジャのふんだんな果実を生かした酒造りの計画が持ち上がっていたからだ。

 そういえば宴会場……とロイは思い当たる。


「メグとナズ、宴の会場にまだいるのかもしれない。捜してくる」

「おれも行く!」

「手分けして捜そう、バルは心当たりの場所と集落の外を捜してみてくれ」


 ロイは布靴の紐を締め上げると、勢いよく大門を開け、バルを残し単身グランダに駆け出して行った。シツジに騎乗すればあっという間に到着するが、シツジは夜目がきかない。

 モンジャからグランダの宴会場までは桟橋を使えば直線距離にしてほんの僅か。

 集落の長として、集落の民の安全を守るために労力は惜しまない。

 トーチに火を灯し、聖火ランナーのようにリズミカルに息を弾ませながら、ロイはグランダに向け湖上参道の上を風のように疾走する。

 走るのは久々で、以前より体が重い……体力が落ちてきていると痛感した。

 集落の運営や後進の教育に時間を割いて己の自由になる時間がないから? 神通力を失ったから? ……言い訳にならない。認めざるをえなかった


”体がなまってるのかな……俺。サボってたから、情けない”


 自戒の念を抱きながら走っていると、右手に赤い神の神殿が見えてきた。

 メグとナズを見かけなかったか神々に訊いて宴会場に捜しに行こう、思いついたロイは神殿前で急ブレーキをかけ、視線を上げる。


”間が悪いな。赤井様はお留守だったか……”


 神殿の一番高い塔に赤い神炎が燃え盛っていないということは、赤い神と使徒たちの不在を意味する。夜間の見回りで神殿をあけているのは、珍しいことではなかった。

 夜間もたえず見守ってくれていることに感謝すべきなのだが、内心は落胆する。

 待っていれば赤井神は戻るだろうが、待ってもいられない。

 その場を立ち去ろうとすると、神殿の中庭から何やら激しい物音が聞こえてきた。


 何事だろうと曲り角から顔半分だけ出してみると……


 中庭には、全身から闘気ともいえる白光を迸らせ、激しく剣戟を交わす二使徒の姿が。

 赤井神の新しい女使徒ロベリアと男使徒ヤクシャが、一対一での戦闘を行っているところだった。

 決闘であれば、出てゆける雰囲気ではない。


 気付かれたら襲い掛かってくるのではないか。

 ロイは防衛本能に従って身構え、背中をぴたりと神殿の壁につけ、息を殺し物音ひとつ立てず様子うかがう。


 耳を突き破る、剣と剣とが激しく触れ合う金属音が辺りにビインと反響する。

 がっぷりと近接で、流れるような剣さばきで猛攻を仕掛けていたロベリアは双剣だ。

 彼女は透き通った小ぶりの銀の羽を鋭く羽ばたかせ跳び下がり、ヤクシャを牽制しつつ距離を取る。

 近距離から遠距離に転じる算段である。素早く剣を十字に交差させ気合を込めると、磨き上げられた美しい二振の剣の刃全体が激しく青白い閃光を放ち始めた。光の正体がアトモスフィアの励起光であると気づくまでに、ロイは暫しの時間を要した。


”あんなに濃い……神通力が、剣に!?”


 人の身であれを食らったら確実に死ぬ。

 ロイはそんな感想を懐きつつ、逃げ出すこともできず場に釘づけになっている。

 赤井神の神通力など比較にもならぬほど、ロベリアの具現化したアトモスフィアは圧倒的な存在感と光量を誇っている。神より使徒が強くていいのか? ロイは強く危惧した。


『そーゆーのもありなんすか? ヴァルキリーの神技の持ち込みとか』


 ヤクシャが苦笑いしている。


『これはワルキューレ固有の神技などではありませんよ』


 持ち込み……? どこから何を持ちこんだというのだろうか。

 彼らから少し離れた場所で当惑のさなかにあるロイをよそに、ロベリアが交差していた剣を解きざまに両腕を振りぬくと、凝縮された神通力は二本の光刃となって矢のように疾くヤクシャへと襲い掛かる。ヤクシャはどのように対処すればよいかを知っていたかのように、神殿の壁に対し垂直に立つと、軽々と壁面を駆け上がり、直角に急転回をかけた。

 そしてヤクシャを追尾してきた光刃が彼の急転回によって軌道修正ができず彼の脇をすり抜けた瞬間、彼は消失としか思えない超スピードで姿を消した。


 凝縮されていたロベリアの神通力の刃は、ヤクシャの回避によって神殿の壁面に張られた物理結界に衝突し爆ぜ発散される。


『えっ』


 ロベリアは炸裂の閃光によって眼が眩み、ヤクシャの姿を見失ったのだ。

 ヤクシャは機を見計らっていたかのように空間を捻じ曲げ再び現出した。神殿の外壁を蹴りつけ、ロベリアを狙い空から急襲をかける。


 片手を突き出し、人差し指と中指を揃えて軽く念じロベリアに向けた。

 呪文めいた単語を呟くヤクシャ。

 何が始まるのかと身を竦めるロイをよそに、彼は眉間に深く皺を刻み、別人のように険しい形相へと変化させた。気合を乗せた怒号と共に、5シン四方の硬い神殿中庭の岩盤が抉られ、プレスされたかのように謎の巨大文字が神殿の中庭に深く刻み込まれる。真言密教でいうところの明王を示す種字なのだが、ロイが秘められた意味を知るすべはない。

 ただ、ロイにはひどく恐ろしい呪術のように印象付けられた。


『もうっ……真言マントラを使うなんて! 反則ですよ』

『まあまあ、お茶目な試し撃ちっしょ』

『何がお茶目ですかっ』


 いたずらっぽい無邪気な笑顔を向けてはいるが、ヤクシャはとんだ食わせ物だ。

 ロイはヤクシャに対する評価を改めた。

 赤井神の使徒たちの中で、彼が最強であるというのは確かだろう。

 ロベリアは衝撃が彼女に達する直前、咄嗟に頭上に蒼い障壁を構え、圧殺ともいえる無慈悲な圧力に耐え切ったが、すとんと背後に降り立たれた。

 ヤクシャはロベリアの左腕を背後から捕まえると、刃引きされていない剣の刃をロベリアの白く柔らかな喉に突き付けた。


『チェックメイト?』


 神殿の壁の影から超人的な攻撃の応酬を目撃したロイは彼らに恐怖心を擁く。

 赤井神の目の届かないところで闘争本能むき出しで争い、傷つけあう。

 彼らの本性を……あの温和な神は知っているのだろうか? 彼らが赤井神によって召喚された、信頼のおける使徒たちだというのか。到底そうは思えない、彼の願い、正しいと信じることとは真逆のことをしている。

 ロベリアの頬からは血が滲み、ヤクシャは女使徒相手でも手加減をしない。

 また、ヤクシャも翼から血を流しているため互いに手負いである。

 赤い神は争いを好まず、相手を思いやることに信念を持っている。


 宴の時に見せていた人当たりのよさそうな微笑はどこへやら、あれは上辺のもので、本性はこちらなのではないかというほどに二使徒の眼光は鋭く、ぎらぎらと好戦的なさまを見せつけた。戦闘行為を心から愉しんでいるかのよう。彼らは赤い神を害しないだろうか……神は不死身ではあれど。ロイは赤井の身を案じる。


『まだ、終わっていませんよ』


 ロベリアはむくれた声で応じながら、口腔に溜まった血を吐き捨てると、拘束されていない方の手でヤクシャの右手首を掴んだ。白く華奢なその手のどこに握力があるのか、ヤクシャの筋肉の無駄なく添えられた手首をぎりぎりと捩じり上げる。


『え、うそ。ちょ! ギブ!』


 手首の関節を捩じられてはたまらず、ヤクシャがロベリアの拘束を解くと……ロベリアの肘鉄が彼の鳩尾に炸裂した。神殿の北の壁面にヤクシャが猛烈な勢いで吹き飛ばされ、背部をしたたかに打ち、形容しがたい音が彼の背中から聞こえてきた。衝撃波で大気が震え、ロイの頬にもびりびりと響く。ヤクシャは両肘を腹を抱えて蹲っている。相当にきいたらしい。


 神殿壁面の物理結界に激突したことによって、ヤクシャの翼は血に染まっていた。

 ロイはさらに危機感を強めた。彼らは赤井神より圧倒的に強いどころか、蒼雲と比べても見劣りがしない。

 この、ロの字型の四方を神殿の壁と結界に囲まれた空間が彼らの闘技場なのであろうか。彼らは夜ごと、こんなことを……。


『~~~! きっつ―――ギブ言ったじゃないですか!』


 ヤクシャの声色がふざけていたので、ロイは拍子抜けした。そんなとき


『そろそろ退勤の時間だというのになーにを真面目にやっとるんだね、君らは。やめやめ~い』


 上空から呆れたような声を投げかけたのは、緋色の翼の第一使徒エトワールだった。


 エトワールの登場で一気に緊迫感が薄れ、両者ともに渋々ではあるが剣をおさめた。彼らは先ほどまでの血の気の多さが嘘のよう、勝負に拘泥もなさそうだった。傷も癒えていたし、表情もけろっとしていた。


 すとんと、ロイの腑に落ちた。

 ああ、本気の殺戮ではなく、訓練だったのか。

 ロイは細く息を吐く。しかし人間を遥かに超える力を備える神々ですら、これほど壮絶な日々の鍛錬を欠かさないのか。

 赤い神が争いを好まないのをいいことに、集落の中の事にばかり腐心し、体を訛らせるままにしておいた自分は一体何だ。ロイは自身を深く恥じた。


『ヤクシャくんとロベリアくんはいつも勤勉だね』

『日々の武術鍛練は、構築士のつとめですから……』

『エトワールさんも、トレーニングしなくていんすか? それ言ったら赤井さんも、っすけど』

『その通りだが、武術だけがトレーニングではなかろう』


 エトワールは他に何やら思わせぶりに大きく両手を突き上げて伸びをする。

 伸ばした両腕と連動するかのようにぴんと翼の先まで伸ばして、中庭の手ごろな太い木枝に腰をかけ脚を組む。エトワールが瞑想を好むのは、ロイも赤井も周知のところだった。集中力と精神力を高めているのだろうと赤井神は解釈しているようだったが。


 立ち見立ち聞きはよくないと反省し、その場を立ち去ろうとしたロイをヤクシャの一言が縫いとめた。


『でも武術もやっとかないと。ロイに勝てないっすよ。赤井さん見るからに戦えなそうだし、そういう面は期待してないってのもあるし』


 ぞくん、と背筋が凍りついたかのようだった。

 思いがけぬ流れでヤクシャの口からロイの名が出てきた。

 彼は自らの話題が俎上に上り、盗み聞きがばれたのかと硬直したが、そうではなさそうだ。


『ロイ……か。ロイと戦う準備より、ロイと一戦交えずに済む準備をすべきじゃないか』


 エトワールは悩ましげに額に手をやる。何かを知っているような口ぶりだった。


『ええ、そうべきだと思います。ですが私達はかの暴君によって耐えがたき地獄を見ました。大いなる天災以外のなにものでもありませんでした。千年王国も甚大なる被害を防げなかったと聞いていますが』

『千年王国は千年王国だよ、ここはここだ』


 ロイはもう、聞いた情報の全てを投げ出して捨て去ってしまいたかったが、おそらく今後は二度と訊けなくなる話だ。辛くても一言一句漏らさず聞くんだと、強く自らに言い聞かせる。

 ロベリアは伏し目がちに、非常に話しにくそうにではあるが本音を覗かせた。


『彼を信じたい気持ちはあります、ですがロイの成長様式は主神の精神状態を如実に反映すると言われています……。赤井神は様々な意味でアガルタの中でも異端です、赤井神の影響を受けたロイがどうなるか……好い方に働けばよいですが、悪い方に振りきれてしまう場合も』


 断定を避けつつもその可能性を示唆するロベリアに、対してヤクシャは


『俺はやっぱロイはロイだと思うっす。赤井さんが信じてるのに、こんなこと言いたくないんすけど』

『ロイの生みの親、フォレスター教授の見解を聞くことができればよいのですが。ヤクシャさんがそう仰るのもわかります……どの管区のロイも、最初は神々に恭順な態度をとっていますものね』


 フォレスターキョウジュ? 親……俺の? 

 ロイはその場に釘付けになり、生唾を飲んで聞き耳を立てる。

 そういえば、とロイは思い出す。先日、家族のいないロイにも赤井神から姓を与えられた、フォレスタというものだ。ロイは嬉しく思ったが、由来を赤井神に聞いても、彼は少し考えて『森の近くに住んでいる』という意味です、と濁すだけだった。

 とはいえロイの家はどちらかというと森というよりも丘の中腹にある。

 赤井神は何を考えているのだろうと首をかしげたのだ。


 そうか……自分の姓はフォレスターキョウジュの息子という意味だったのか……ロイは納得した。

 次々と、新事実が明るみに出てくる。

 彼ら使徒たちの本音を間近で盗み聞きできるのは、ロイが神殿にいるからだ。

 神聖結界に囲まれていては、神気が濃く、彼らが人間の気配を察知しづらいのだろう。

 彼らの本音を探るためには千載一遇の好機だ。


『フォレスター教授? どういうことだね、既に亡くなっているのではないのかね?』

『アガルタで暮らしておられますよ、未開設管区のどこかにいらっしゃると聞いています。場所は定かではありませんが』


 ロベリアは事情を知っているようだった。


『初耳だな。消息を知ったら、ロイは会いたがるかもしれないな……実の父親に』

『お、五時っすね。戻りましょっか』

『帰ろうか。未来望みらのが私の帰りを待ってるだろうからな』


 エトワールはそわそわとしている。


『親ばかっていうんすよそういうの』


 豪快に笑うヤクシャにつられて、ロベリアも微笑む。


『馬鹿にしてても、君らだっていつかそうなるんだぞ!』

『うふふ、そうですね』


 楽しそうに雑談を交えながら、優雅に夜空に舞い上がって消えた三柱の使徒たちを見送った後、ロイは何かに縋りたい心境に駆られ、神殿の大樹にふらふらと近づいた。

 震える背を大樹に預け、その場に崩れ落ち茫然自失とする。

 喉はからからに乾き、手足の先は死体のように冷え切っていた。息を吐きかけどれだけ両手をこすり合わせても、温かさは戻って来ない。

 ナズとメグを捜しに行かなければならないのに。どうやっても体が動かないのだ……。魂が枯れ果ててしまったかのようだった。


”未来は決まっている? 俺の? 俺が神様に叛き、彼らと戦う――?”


 がたがたと、震えが止まらない。ロイが二度目に味わった、絶望というものだった。


”ありえない、ありえるわけがない。一体何がどうなっているんだ……真実なんだろうか。でも、彼ら天使たちの予言は外れない……”


 心を閉ざし文字通り頭を抱え込み、彼は思考の渦に飲み込まれた。

 神樹の下で長い間蹲っていたロイに声をかけたのは


「ほゎー、ろーしてこんなところにいるのー? ロイ?」


 グランダ女王キララと酔いつぶれて完全に出来上がっていたコハクが、グランダの兵士たちに連れられて神殿にご帰宅だ。

 両脇を抱えられ、千鳥足もいいところである。

 神殿内の白の女神と同じ部屋で寝ているそうなので、就寝の為に戻ってきたのだろう。

 彼らはロイの異変にも気づかず


「おお、モンジャの長ではないですか。スオウ様の命令で白の女神様の巫女のコハク殿を神殿までお送りしたのであります!」

「そのとおりであります! コハク殿が千鳥足でございましたので!」

「モンジャの長はこんな時間まで神殿の警備でありますか! ご苦労であります!」


 二人の兵士がグランダ式の敬礼で報告する。ロイは取り繕うようにその場で立ち上がった。


「……ご苦労様。ところで宴会場にメグとナズが残ってなかったか?」

「ああ、あの二人なら。神様がたと一緒に、モンジャに戻られたようですよ」


 ロイは大きく息をついた。

 ならばもうグランダに行く必要はなく、ロイもモンジャの自宅に戻ればいいだけだ。


「じゃあ、俺たちも帰ろうか」

「お疲れ様であります!」


 グランダ兵たちがロイに挨拶をして帰途についたのを見届けて


「コハク、少しだけ話がある」

「なーに?」


 コハクは神樹に抱きついて鼻歌を歌っていた。女神様と間違えているらしい。


「その、コハクがこないだ言ってた、お前の世界にいた俺と同じ名の奴のことだけど」


 コハクは驚いてしゃっくりがでてしまった。

 そう、ロイとコハクが初めてであったとき……彼女は確か、「暴君ロイ」とは違うのかと独り言を呟いていた。ロイは聞き逃していなかった。


「うぇ? 暴君ロイのこと? ひっく」


 どうやら深酔いしているうえに、コハクはしゃっくりが止まらないらしい。


「そいつ、コハクの世界ではどうなったんだ?」

「あぁ~、暴君ロイなら遥かむかしにめがみさまに滅ぼされたよぅ~。ひっく!」

「ほ、滅ぼされた!?」


 ロイは動揺をコハクに気取らせまいと必死だったが、彼女が酔っていて救われた部分がある。


「暴君ロイはねぇ~……めがみさまを謀殺しようとしたの。だからぁ私、あなたが同じ名前だからとてもこわくなってしまってぇ。出会ってすぐのあのことを怒ってるなら、ごめんなさい? ひっく、人違いだったの」


 ぽんぽんとコハクは、申し訳なさそうにロイの肩をたたいた。

 そうだ、ロイだって人違いだと弁明したい。


「待ってくれ。神様を、殺す? 人間が? ……あ、ありえない……」

「だって、暴君ロイは人間じゃなかった、ひっく、もの。めがみさまから伝えられた数々の神技を悪用して罪もない人々を虐殺し、めがみさまに深手を負わせた、永遠に老いることもない魔王だったもの。蒼い神様のところにもいたの、同じ名前の暴君が。だからあなたがそのロイでなくてよかった! ……ほんとうによかった」


 屈託のない表情でロイに微笑みかけるコハクの瞳を、ロイはもはや直視することができなかった。


「おやすみなさぁい。明日のグランディアでね」


 桃色の髪をかきあげながら眠そうに神殿に入ってゆくコハク。

 コハクに小さく手を振り、彼女が神殿に入って行ったのを見届けた。

 ロイは力なくとぼとぼと桟橋の手すりに干物のようにぶら下がり、自らの姿を水鏡に映した。

 月光に反射した、青白い歪んだ顔の青年がゆらりゆらりとこちらを見ている。恨めしそうに。

 そこにいるのは暴君なのか……? 


 違う。

 そんなの俺じゃない、違うんだ。

 彼は叫び声をあげそうになった。


「俺は」


 内臓を引っくり返したくなるほどの、吐き気を覚えた。

 脳が理解を拒む一方で、蒼雲からの天啓を思い出す。


”君には他の人間より多く贈り物が与えられ、だからそれだけ背負う荷も多い “


 エトワールは、ロイの未来の可能性を信じたいと言っている。

 ロベリアとヤクシャは、その時がくればやむをえないと言っている。

 彼らは鍛錬を怠らない、暴君を屠るための。

 白と蒼の神々は既に暴君を殺し、彼らの世界を守り抜いた。


 それぞれの選択……では、赤い神はどんな選択を――?


 赤い神との思い出と絆は断ち切られ、いつか俺は彼の言葉を理解できなくなって、狂気に侵されてゆくのだろうか。

 そのとき赤い神は、どんな表情で俺の前に立つのだろう。

 彼は既に俺の運命を知っていて、俺が幼かった頃と変わらず接してくれていたのだろうか。


 そして唐突に明かされたフォレスタという名の、実の父親の存在。

 彼ならば、俺が何の為に生まれてきたのか答えてくれるのだろうか。

 ロイは桟橋の上から、いつまでも湖面を見つめた。

 恐ろしくて仕方がなかった。

 このまま湖に身を投げてしまいたい衝動にかられた。

 心が助けを求めても、叫ぶことができない。


「神様……」


 穏やかな赤い青年。

 出会ったころから憧れていた。

 集落の誰よりも彼の視点に近づきたいと、そして彼の心を知り、世界のありさまを理解したいとがむしゃらになって学んできたというのに。

 近づけば近づくほど、彼の心は離れてゆくような気がした。

 その本当の理由を知ったのだ。


”彼は彼の傍近くにいようとした俺の存在を、脅威として認識していただろうか? 知恵をつけるたびに、体力をつけるたびに、いつか裏切られ、叛逆されるのではないかと、彼は恐れていたんだろうか”


 それは自らを刺し貫くための刃を自らの手で研ぎ続けるかのようなもの。

 集落を離れ湖上に神殿を建ててしまった理由も、ロイが神通力を使うことを是としなかった理由も、思い返せばしっくりときた。

 俺のせいだったのか――彼の胸には大きな風穴があいた。

 一度聞いてしまったことを、記憶の中で帳消しにはできずその方法も知らない。

 次に赤い神と出会い目を合わせたら最後、彼はロイに何があって、何を知ったのかを見通されてしまう。

 以前の関係には戻れないと、狂おしいまでに理解した。


「どうすればいい、考えろ」


 何度も考えた。

 よい方法はないか、突破口はないか。

 知らなかったことにはできないのか、忘れてしまうことはできないか。

 その狂気は絶対的に俺を支配するものなのか? 

 俺を将来滅ぼすであろう狂気を、どうにかして回避することはできないか?

 しかし神々が読心術を使う以上、光すらも見えてはこなかった。

 原因が自らにあって、それが狂気である以上は。

 どうにもならないのだ、そして赤井神より力ある神々、蒼雲や白椋でさえ、どうにもならなかったことなのだ。

 自分の微々たる努力でどうにかなるとは思えない。


「俺はどうしても、自分をうしなってしまうのか。そうなるために、学んできたのか」


 ロイは大きく繁る神樹に――手を差し伸べて春を待つ神樹の真っ白なつぼみを手折った。

 正気を保っていられなくなるのならば、正気であるうちに行動しよう。

 ロイは行動することを選択した。


 だが彼のなすべきことは、もはやたった一つしかなかった。


 ***



 蒼雲はナズに指示をしてシツジの腹の毛を剃らせ、その間に何やら空を引っ掻き、ぶつぶつと呪文のようなものを唱えて構築を行っている。


『俺が麻酔薬構築すっから、赤いのはこのレシピで消毒薬構築しといて。白ちゃん。これ、メグに着せたげて』

『分かりました。メグ、後ろを向いて』

『はい、構築ですね』


 赤い神のインフォメーションボードに蒼い神が情報をフリックして、消毒薬の組成を丸投げする。

 水瓶の中には赤い神の構築した消毒薬、それを赤い神が剃毛したシツジの腹にかけて、準備は整えられた。

 メグはシツジ毛でできた上着を一枚脱ぎ、浄された割烹着のようなものを白椋に服の上から着せつけられ、後ろの紐をリボン結びで結ぶ。

 ぽんぽん、と白椋が背中を押した。

 メグの心を後押しするように。


『できますよ、メグ。わたしたちがついていますからね』

「ありがとう、めがみさま。私、がんばってみます」

『さ、頑張っていってみよ~。目標は一時間ちょいね、シツジが立ててるから立位の局麻でいくよ。白ちゃん、一応シツジ押さえといて』

『は、はい、それはよいのですが……きちんと彼女に説明をして差し上げないと』

『赤いのと白ちゃん、そっちとそっちに立っててね』

『わたしたちは手術室の無影灯の代わりですか』


 三柱の神々が三方向から立つと、後光で術野が明るくなり、手元に影ができない。


『そゆこと~。んじゃ、白ちゃんもそういうし、術式の確認いってみよーね』


 蒼雲神はのらりくらりと明るい調子で術式の説明を開始する。

 シツジは反芻動物なので、胃が三つもある。

 現実世界の牛に近い消化経路を持っているが、それをメグが知っているかというと怪しいものであるので、蒼雲は事細かに説明した。


『俺は透視で見えるから分かるけど、中にいるのは大ぶりな仔シツジだね。こう、こーんな感じでこっち向きに入ってるよーん』


 蒼雲はシツジの腹に、仔シツジのシルエットを指先で描き出す。

 彼の描いた軌跡は青いラインとなってメグのイメージを補完させる。

 メグは必死になって見えないシツジ像を目に焼き付けた。


『立位で左けん部、ここね。こう切開することでアプローチ、大きな第一胃があるからそれをどけて子宮が見えたらそれを引っ張り出して、子宮を切開。中の仔シツジを出して、仔シツジを蘇生、子宮はユトレヒト縫合、腹膜と筋層を連続縫合でもいいや、皮筋と皮下組織は結節縫合が望ましいけど、時間次第だな。んで、閉腹。大丈夫、手を出さなくとも指示はしたげるから、さーやってみまショータイム!』


 本当にやるんだ、やるってことなんだ……覚悟はしていたものの、メグの顔が緊張でみるみる青ざめる。

 蒼雲の差し出した聖水で手指は勿論、ひじの上まで浄められた。

 すうっと冷える感触から、アルコール類が含まれているのだと分かる。

 蒼雲はシツジの毛を刈り、切れ味の鋭い、消毒された薄刃のナイフをメグに手渡す。

 

「メグ。落ち着いて、僕はここにいるから」


 ナズは筆記用具を持ってきている。何もかも記すつもりで来たのだろう。


「できるよ……神様たちがそう仰ってるんだから、僕もついてる。大きく深呼吸してみて」


 ナズは力強くそう言った。メグが呼吸を整えると、少しだけ心は穏やかになった。


『さーさー早くしないと、中の仔シツジが危ないよ』


 蒼雲神にここだと導かれ、メグは震える手でナイフを母シツジの皮膚に置く。

 力を加えて刺し込むと、その何とも言えない感触に思わず目を瞑ってしまいそうになった。

 メグだって、日常生活の中で小さな獣を屠ったことがないわけではない。

 それでも、殺すための一刀と、手術して助けるための一刀では力加減が違う。

 躊躇いが出てしまったのか、切れなかった。


『さくっと切っちゃってちょーだいっ』


 蒼雲が手を添えてナイフの先を持ち、力加減をメグに教え込む。

 すっと引くと切り口は鋭利に切れた。

 すぐに出血し、メグの手にシツジの血が纏わりつく。

 メグはその赤い色彩とぬるりとした感触に怯んだが、もうここまできては引き返せない。

 シツジの母親の顔を見るが、麻酔がきいているからか特に暴れる様子はなかった。

 しかし、母シツジがいきむのに合わせ血が噴き出す。

 飛び散ったシツジの血が目に入った。


「あおいかみさま、血がたくさんっ……」

『オーケーへっちゃらさー、シツジは身体がでかいから出血はいいのさ、なんてことない。それより急いでもっと切開創を大きく。白ちゃん、シツジ母がいきめないようにもっと麻酔深くしといて、いきむと内臓が出てくるから』

「切開創って……なんですか?」


 悲鳴混じりになるメグに対して、蒼雲の口調は落ち着いている。傷口から、血液が滴り落ちる。


『傷口のこと。その大きさだと仔が出てこれないよ、もたもたしてたら死ぬから、血が出ても怖がらずに大きく切って、もっと!』

「は、はひっ」


 メグは鼻水をすすりながら蒼雲の言ったように筋層を切り開くと、シツジの大きな胃があった。

 第一胃だと、蒼雲が説明した場所にあった。

 傷口を大きく切りこんだせいで、視界は確保できている。

 蒼雲の指示のもとメグは内臓をほじくりながら子宮を見つけ、傷口から外に引っ張り出そうとする。メグの力だけでは足りないので、蒼雲が手を出した。

 ずるりと膜に包まれた、白みがかった子宮が出てくる。膜を蹴るように、仔シツジの蹄が見えた。


『赤いの、こことここ、カンシで吊り上げてといて』


 赤い神は金属の金具でシツジの筋層や皮膚を挙上して術野を確保するサポーターだ。


『こことここをこうですか、はい』

『いいかいメグ。それが子宮、切り口は小さ目にして、そう。切開して、仔シツジを切らないようにね。羊水が出てくるよー』


 子宮を切開すると、バケツをひっくり返したような茶色の水が傷口から溢れ出し、仔シツジの前足がにゅっとのぞいた。


「うわっ! っ、脚が出ました」

『はっは、そいつはよかった。引っ張り出そう』


 蒼雲が仔シツジの両脚を掴み、そのまま切開部分から引きずり出し、仰向けだったシツジの仔を逆さにひっくり返す。

 でろんと仔が出てきたのを、蒼雲は片手で藁の上に横たえた。


『白ちゃん、ナズと一緒に蘇生してやって。赤いのー、ここも吊り上げてて』

『ナズ、こちらへ』


 白椋神は蒼雲から受け取った仔シツジの口をあけ、羊水を吐き出させた。


『ナズ、軽く鼻先の部分を打ってください、このように』

「こうですか、強くやらないほうがいいでしょうか」


 ナズがパンパンと軽く頬を叩いて意識を戻す。仔シツジはえづくようにして呼吸をはじめた。「ンマ

ア……」とか細く鳴き、蘇生完了だ、生きている。ナズが嬉しそうにメグに報告した。


『よし。んじゃメグは縫合だ。はい、これ、縫合糸と針、使い方は昨日やったとおりだよ』


 鈎針と糸がメグに手渡された。メグは昨日、丁度蒼雲から傷口を縫う方法を教わったところだった。


「これだけですか? セッシとジシンキ(持針器)はどこですか?」

『大きな動物だからいらないさ、手でそのまま縫っちゃえ、そっちの方が簡単だろ。指を針で突き刺さないように気を付けてな。単純縫合でいい、とにかく縫うんだ、きちんと一針一針、確認しながらね』


 メグは子宮の膜を持ってぴったりと二枚あわせては、極太の針を往復させてゆく。タンジュンホウゴウというのは、二枚の布を縫うように連続的に縫う方法だ。裁縫の経験のあるメグは、かぎ針を使って練習では上手に縫えた。しかし今日は大量の出血のせいで非常に視界が悪い。


「えっ、あれれ!」

『いや違うっ、そこじゃない!』


 血で手が滑って、縫ってはいけない部分を糸でひっかけていたのだ。気づかずそのまま糸を引き絞ったことで、違う組織を巻き込んでしまった。慌てて手を傷の奥に突っ込み、針を抜いたときには、手前の糸が既にこんがらかっていた。


「えっと、これが、こうで」


 元に戻そうにも手が震えて、糸をほつれさせることができない。

 これは練習ではないのだ、早くしないと……仔シツジは助かったが母シツジが助からない。ミシカの亡き母親のことを思い出し、悪い想像に押しつぶされそうになる。


「あ、あおいかみさま、これ……もつれた部分を切ってもいいでしょうか」

『だめ、糸はそれだけの長さしかないの。そいつは体内で溶ける特殊な吸収糸なんだ。たまたま一本持ってたが、作り直すとなると結構時間がかかるんだよ』

『これから構築するのではいけませんか?』


 赤い神がメグのために助け舟を出そうとする。


『結構大変だぞ、時間が足りないしそれやってる間に母シツジが死ぬ。絡まったのをほどいて使っちゃってよ』


 失敗したからといってほどくことが許されなかった。となると、からまった糸をこの場で解いて使わなければならない。無理だ……メグの思いに反して、糸はからまるばかり。あっちを引っ張るとこっちが締まる。どんどん複雑にもつれてゆくような気がする。ああ、いけない部分に針を通してしまったからだ。


 メグは涙目になった。短時間で終わらせなければならないという言葉が、重くのしかかっている。

 ここまで順調だったのに……最後の最後で。


『メグさん、その結び目を掲げてみせてください。あなたは知っています、どのように絡まった糸を解消すればよいか』


 赤い神の両手もふさがっていた。しかし、彼は諦めていなかった。彼は結び目の交点を一つ、二つと数えているようだった。彼は数秒もしないうちに答えを導き出した。


『分かりましたよ。解消するための手順はたった二つです。とても絡まっているように見えますが、それは見かけの複雑さであって、実はあまり絡まっていません。落ち着いて観察して単純化してみましょう』


 メグはつい最近の思い出が蘇る。赤い神と蚕から絹糸をつむいでいたとき、メグや集落の女たちはよく絡ませてしまったけれど、赤い神はいつも器用にほどくのだった。何故するりと解けるのかと訊くと、幾何学的に空間を単純に考えれば簡単ですよ、と言ったのだった。


「っ、わかりました! やってみます!」


 ヒントを与えられ、メグは解きほぐしてゆく。左側の小さな結び目に針をくぐらせ、そして右側の一番大きな結び目から抜く。手を貸してはくれないが、彼の言葉で冷静になることができた。これは結び目解消操作だ、何と何が等価なのかを考えればよい。回転やねじれによって複雑に見えているだけで……。


『赤井神、これはどういう』

『彼女は集落で、糸紡ぎをする機会が多かったのです。彼女は人の何倍も、からまった糸をほどいてきました。彼女は柔軟な思考のできる女性です。緊張で忘れていただけです』


 落ち着いて、慎重に結び目を緩めてゆくと、捩じれは単純化され、ゆるゆると溶け落ちた。


『位相幾何学、ですか?』

『私は勘が悪いので計算しますが、彼女は感覚で解法を掴んでいるようです』


 メグは安心して態勢を立て直すと、針を手に、一つ一つ結び目をつくり、糸を切る。

 梯子を作るように、丁寧に縫い終わって手を下した。メグは緊張感から解放されると共に、凝り固まっていた不安が安堵となって一気に押し寄せ、腰からくだけた。


『どうだい、母と仔シツジの命を自分の手で救った気分は?』

『メグさん、落ち着いてよく頑張りましたね』

『大手術成功おめでとう、お見事でしたよ』


 蒼雲、赤井、白椋の順に祝福の言葉を投げかけられ、メグは嬉しくてどんな顔をしてよいか分からない。


「メグすごい、僕の自慢の妹だ!」


 一部始終を絵と文字で記録していたナズにも力いっぱい褒められ、産まれたシツジを抱いて……メグが達成感の絶頂にある中で……蒼雲は何か手応えを掴んだような表情をしていた。


「仔シツジの名前、どうしようかなあ」

「メグがつけたらいいよ、メグにはその権利があるよ!」


 メグとナズはそんな言葉を交わしながらどことなく晴れ晴れとした表情でモンジャ集落に戻り、神々はぶらぶらと散歩を兼ねて徒歩で神殿に戻る。その道すがら、


『これならもう、十分だな』


 蒼雲の独り言を聞いていた赤井が、彼に何か訊きたそうにしていた。

 赤井はうすうす気づいていた……。

 蒼雲は、メグを現実世界に戻す準備を、恐らくは伊藤の指示によって開始しているのではないかと。

 読心術妨害用ネックレスによって赤井がメグの心を読めなくなってしまった今、メグがどの回復段階にあるのかは分からない。しかし、かなりのハイペースで健康な精神を取り戻しているのだとしたら、仮想世界にとどめておく理由もないのだろう。


 別れの時は刻一刻と近づいている。

 メグに引導を渡す役目を、伊藤は蒼雲に任せたのだろう。

 赤井に迷いが生じ、メグと別れたくないばかりに現実世界への帰還を阻むようなことがあってはならないから。この強引な手術実習は、メグの現実世界帰還が可能であるかの最終段階に近いテストであるようにも思えてならない。

 

 一年後だろうか、半年後だろうか、あるいは半月後だろうか。

 もっと短いかもしれない。

 残された時間で、彼女に何を贈ることができるのかを考えなければならなかった。

 ほぼ確実であろう今生の別れに、彼女と一体どんな思い出を共有すべきなのか。

 彼女に最後にかける言葉を選ばなければ……。


『おや……ロイの槍ではありませんか。大切なものを、どうしたのでしょう』

 

 白椋が手に取った一振りの槍は、端正に鍛えられ磨き上げられたロイの神槍だった。

 鈍色の柄を両手で支え、白椋は大切そうに赤井に渡す。

 柄の付け根に、ネスト製の高級な獣皮紙が結わえつけられていた。

 何か大切な手紙なのだろうか。

 赤井はそっと獣皮紙を解き、それをぱらりと拡げてみる。

 差出人の記載のない手紙であったが、筆跡からロイのものだと分かった。

 丁寧に書きつけられた文面には、悲壮な決意がにじみ出ていた。


――敬愛する神様へ――

   急に思い立って、一人旅に出ます。

   グランディアが終わるまでは俺がいなくなったことは黙っておいてください。

   集落には戻らないつもりです。自分で決めたことなので、決してさがさないでください。

   そして最後の身勝手なお願いですが、集落の皆をよろしくお願いいたします。


   今まで本当にお世話になりました、たくさんの贈り物をありがとうございました。

   あなたとモンジャの集落のことは、死んでも忘れません。

   いつもあなたと皆のために祈っています。



――それはまるで遺書のような。


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