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エメリヒと気まぐれな子猫たち 前編

 アイナちゃんと祖国で暮らし始めてから数ヵ月が経った。

 退役前ということもあり、忙しい日々は彼女と話をする時間でさえまともに許してくれなかった。

 せっかくの二人暮らしなのに、甘い雰囲気は皆無である。

 それどころが、アイナちゃんの態度は塩のようにしょっぱい。

 朝はジロリと睨みを利かせながら、こちらを警戒するように食事の配膳をしてくれる。

 昼食のお弁当は、知らないうちに鞄の中に入っていた。いつも魔法のようだと感動してしまう。

 夜は遅いので、毎晩彼女は先に眠っている。だけど、机の上にはたくさんの料理が並んでいた。

 もう、それだけで嬉しい。アイナちゃんは精一杯俺の為に頑張ってくれていたのだ。


 でも、気になっていることとか、我慢をしていることとかあれば言って欲しいと日々思っていたが、こちらが何を聞いても「別に」と言うばかりであった。

 女性に必要な品物とか全く分からないので、その辺は家主さんにお任せしてある。


 いつもの朝。

 時間ぎりぎりまで眠り、慌てて起きて身支度をする。

 女性がいるのでいろいろと気を付けなくてはならないのに、毎日の疲労が取れていないからか、体が言うことを聞かない。

 歯を磨いて髭を剃り、跳ね広がった髪の毛も櫛を通して、アイナちゃんが手入れをしてくれたであろう、綺麗な軍服の袖に腕を通す。


 食堂に行けば、可愛らしいエプロンを身に着けて朝食を作っているアイナちゃん。

 どうしてこんなに働き者で可憐な雪妖精さんが我が家に居るのか。一瞬にして幸せな気分になる。


「ア、アイナちゃん、おはよう!」


 挨拶をすれば、アイナちゃんが素早く振り返り、親の敵を見るかのような表情で睨みつけて来る。当然ながら、挨拶は返って来ない。


 席に座って待っていると、どん! と大きな音をたててコーヒーを置いてくれる。


「ありがとう」


 お礼を言っても無視。不機嫌な様子できゅっと閉ざされた口元が開くことはない。いつものことだった。


 彼女の態度については気にしていない。リツ君からの手紙の中で極度の人見知りをする娘だと書かれていた。それに、アイナちゃんのことは手紙のやりとりを通じて理解をしているつもりだ。

 紙面では、いつも俺の体のことを気遣ってくれた。しようもない話を面白いとも言ってくれた。毎回丁寧な手紙を書いて送ってくれていたのだ。


 それに、毎日作ってくれる料理には、深い愛情がこもっている。


 そんな風にしてくれるので、日々のきつい態度は照れ隠しとか、人見知りをしているだけだと思っていた。


 ……多分。


 コーヒーを啜りながら新聞を読んでいるうちに、食卓の上には朝食が並べられていた。

 アイナちゃんは無駄のない動きで配膳をしてくれる。

 焼きたてのパンを切り分け、ジャムを塗ってくれた。とても美味しいのでどこで買ったのかと聞けば、アイナちゃんの手作りの品だと教えてくれた。

 もう一枚にはバターをたっぷりと塗ってくれる。


 他にも白いソーセージに、ジャガイモのスープ、茹でた卵が殻を剥いた状態で皿に置かれていた。どれも全部美味しい。


 アイナちゃんは俺が食事をしている間も忙しない様子で働いている。

 前に一緒に食べようと誘ったら、「嫌!」とはっきり言われたのでそれ以来誘っていない。


 ごちそうさまを言ってから、素晴らしい食事を作ってくれたアイナちゃんにお礼を言う。


「アイナちゃん、ありがとう。どれも美味しかった」

「……早く、仕事に行ったら?」

「あ、はい」


 俺たちは毎朝同じような会話を繰り返していた。


 職場に行けば、久々に会う同僚に捕まった。

 何事かと聞けば、家の猫に子供が生まれて困っているとのこと。


「いや、俺の家、アパート……」

「黙っていたらバレないって!」

「バレると思う」


 それに、良くしてくれる家主さんを裏切りたくない。

 そもそも、俺は犬派だ。

 実家の犬にも最近会っていないと、少しだけ寂しい気持ちになってしまう。

 親は近くに住んでいるが、多忙が重なっているので、顔を見せる暇さえなかったのだ。


「そういう訳だから」

「待て待て!」


 断っても同僚はしつこく食い下がっていた。


「お前、一人暮らしで寂しいだろう?」

「……」


 アイナちゃんと一緒に住んでいることは誰にも言っていない。言えば会わせろと言って来るのが分かっているからだった。

 可愛い可愛いアイナちゃんを自慢したい気持ちもあったが、紹介した奴らが好きになったら困るので、見せたくなかった。

 毎日の愛が籠ったお弁当も誰にも見られないように隠れて食べている。抜かりはなかった。


 俺は昔からそうだった。

 大切なものは誰にも見せずに、一人で眺めてはにやにやしていた。

 子供の頃から何も変わらずに大人になったのだなと、自らを振り返る。


「なあ、見るだけでもいいから、明日家に来いよ」

「あ、いや、明日は久々の休み、だから」


 無理、と言おうとしたのに、同僚は去って行ってしまう。

 次の休みはアイナちゃんと出掛ける予定だったのに。


 まだ本人には何も言っていないけれど。


 翌日。

 朝から同僚の家に行こうかと、身支度を整える。

 朝食を食べてから、アイナちゃんに出掛けて来るという旨を伝えた。


「今日は、ちょっと職場の人の家に行って来るから」

「!」


 突然の予定に、アイナちゃんは驚いたような顔を見せていた。

 もしかして、俺とどこかへ行きたかったのだろうか。

 以前彼女が一人で外出をした時に、暴漢に襲われかけていたので、単独で出かけないように言っていたのだ。外出は家主さんとして貰っている。


 今、このタイミングなら誘いやすいような気がしなくもない。

 幸いにも、同僚は結婚している。愛妻家でもあるので、アイナちゃんに色目を使うこともないだろう。


 勇気を出して誘ってみる。


「アイナちゃんも一緒に行く?」

「!」


 更に、驚いた顔を見せるアイナちゃん。

 子猫を見に行って、帰りにアイスクリームを食べようと言えば、しばらく無表情でいたが、最終的にはコクリと頷いてくれた。


 アイナちゃんの支度が整うのを待つ。

 約束の時間を過ぎようとしていたが、奴は家で待っているだけなので問題はないだろう。


 数十分後、準備が終わったアイナちゃんが部屋から出て来る。


「お、おお!」


 外出着に着替えてきた彼女の姿を見て、思わず感動の声が漏れてしまった。

 緩やかに波打った白銀の髪は頭の高い位置に一つに結んでおり、薄い化粧も施しているようだった。薄紅色の口紅が乗っている唇はなんともたまらない。

 レースがあしらわれた白いブラウスに合わせてあるのは水色のワンピース。見たことがないものなので、家主さんと一緒に買いに行った服だろうか? 

 なんにせよ、この上なく可愛らしいと思った。


「……じろじろ見ないで」

「あっ、ごめんなさい」


 いつもだったらジロリと睨みながら言うのに、今日は顔を逸らして言うアイナちゃん。

 もしかして照れているのかな? と思ったけど調子に乗りそうなので、追及は止めておいた。


 手にしている上品な白い鞄はリツ君とジークリンデから贈られたもの。

 二人は今、テューリンケン地方に滞在している。なんでも妊娠が発覚したので、こちらで出産をするとか。なんともめでたい話である。

 帰りがけにお祝いの品でも見繕おうかと考えたが、妊娠祝いなんて聞いたことがないないことに気が付く。まあ、お世話になったお礼の品とかでもいいかもなと考えながら、アイナちゃんと同僚の家までの道を歩いて行く。


 同僚の家では奥さんと四歳になる子供が出迎えてくれた。あと、同僚と猫も。

 アイナちゃんを連れて来たことにひたすらびっくりしていたが、彼女だと勝手に紹介をすれば温かく迎えてくれた。


 途中で買って行った土産のお菓子も喜んで貰えた。


 アイナちゃんは同僚の娘さんに手を引かれて子猫を見に行ったようだ。奥さんも後に続いている。

 同僚と二人きりになった部屋で、一体どこであんなに綺麗な娘を見つけて来たのだと、事情聴取を受ける羽目になった。


 数十分後。戻って来たアイナちゃんの腕の中には、一匹の子猫があった。

 なにかをねだるように、上目使いで俺を見る。


 彼女に抱かれているのは、目がくりっとした赤毛の子猫。

 母親から乳を貰ったばかりだからか、お腹がぽってりしていた。


 じっと俺の顔を見上げるアイナちゃんが言いたいことは分かっていた。

 だが、うちはアパートだから猫は飼えない。

 飼うならば、一軒家が必要だ。


 一軒家は家賃が高い。

 退役後のことも考えて、なるべく節約はしたいものだ。


 でも、アイナちゃんが猫を飼いたそうにしている。


 俺は即座に腹をくくった。


 ――よし。田舎で暮らそう!


 アイナちゃんに猫は引っ越してから引き取ろうと言い、同僚にはこの赤猫を引き取らせてくれとお願いした。


 ◇◇◇


 これからの予定を定めてからの行動は早かった。

 軍を退役して、叔父の住んでいる田舎の村に移り住むことに決める。家と仕事の手配は任せている。家賃は今住んでいるアパートの半額以下。田舎万歳!


 偶然にも、その村はリツ君夫婦が住む街に近い。アイナちゃんも安心することだろう。


 街を出る日に、同僚の家に子猫を引き取りに行って、家主さんにお別れを言いに行く。

 今までお世話になったお礼の品として、アイナちゃん手作りのジャムとお菓子を渡した。

 嬉しそうに受け取りながら、優しい家主さんは猫を飼っても良かったのにと言ってくれる。

 だが、理由はそれだけではなかったのでと言えば、だったら仕方がないと残念そうな様子を見せていた。


 アイナちゃんは俺よりも家主さんと打ち解けていたようだ。家主さんは優しく彼女を抱き寄せて、頭を撫でている。


 そして、アイナちゃんは悲しそうな表情で、家主さんにあるお願いをしていた。


「あ、あの、よかったら、この子の名前を、付けてくれませんか?」

「私がですか?」

「いつでも、家主さんのことを、思い出せるように」

「まあ!」


 アイナちゃんの言葉に、家主さんは嬉しそうに微笑む。


 家主さんは子猫に『ロッサ』という名を贈ってくれた。亡くなった旦那さんの国の言葉で、『赤』という意味だと教えてくれた。艶やかな赤毛を持つ子猫にぴったりな名前だと思った。


 俺達は新たな家族を伴って、田舎町へと向かう。


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