第六十話 残念なヴァッティン家の者達
義父が老後の楽しみとして始めた牧場はささやかなものだと言っていたが、田舎者の自分から見たら大規模なものに見えた。
大きな柵の中には羊に馬、牛にヤギ、大きな小屋の中には豚、小さな小屋の中には鶏も居るという。
「まずは掃除をして貰おうか」
「はい」
任されたのは豚さんのお家。一日に一回散歩をさせるようにしているらしく、出掛けている間に掃除をする。豚の引率をするのは大きな犬だ。のんびりとした動きの豚に向かって吼えて回り、移動を促している。
お掃除は汚物を綺麗にして、地面に敷いてある藁を回収し、新しいものと変えるという簡単なもの。餌箱も洗うようにと指示される。
小屋の一角を義父が掃除をして見せて、だいたいどんな感じか理解をしたので、後は任せて欲しいと言って作業を担う。
トナカイや鶏の世話で慣れているから大丈夫だと思っていたが、豚舎の臭いは予想を遥かに超えていた。どうにも我慢出来そうにないので、ハンカチを取り出して口と鼻に当ててから後頭部で結び、作業を再開させる。
あと少しで終わるという時、外から犬の鳴き声が聞こえた。
そっと扉を開ければ、犬を先頭にして大勢の豚さんたちが待機をしていたという。
「も、もう少々お待ちいただけますか?」
少しだけその場で待ってもらうようにお願いをしてから、急いで仕上げを行った。
その後も仕事は次から次へと舞い込んでくる。牧場で働いているのは十人程。趣味の牧場なので、あまり他人を巻き込むのもどうかと思い、人は増やさない方針でしているとか。
「いやあ、本当に助かるよ」
「いえいえ、まだ慣れなくって、仕事も遅いですが」
義父と仲良く並んで休憩を取る。全身泥まみれだったが、それは牧場で働く人皆がそんな状態だったのでさほど気にならない。
手だけ綺麗に洗って、用意されていた温かい牛の乳を啜る。
「おいしい!」
トナカイの乳とは違い、牛のお乳は癖がなくて喉越しも優しい。味も濃厚でふわりと漂ってくる香りもまろやかだ。
「頑張って働いて、こんなに美味しいものが手に入るなら、幸せですねえ」
「そんな風に言ってくれて嬉しいよ」
家で食べる乳製品は全てここの牧場で作ったものだという。他にも腸詰めやハム、燻製肉なども作っているらしい。ほとんど外に売りに出す事もなく、家族や使用人達で消費してしまうとか。
短い休憩時間の後は餌やりの時間だ。凄まじい形相で迫って来る豚さんたちをなるべく視界に捉えないようにして、先ほど綺麗に洗った容器に粉末の餌をさらさらと入れていく。
これで本日のお仕事は終了! 大した働きもしていないのに、図々しくもお腹がぐうと鳴っていた。
「さあ、帰ろうか。お腹も空いただろう? あ、その前に風呂だな」
「ですね~」
お屋敷から馬が引いて来た荷台には新鮮な牛乳と熟成していたと思われる肉塊に布に包まれたチーズがドンと置かれている。空いている隙間に座り、義父は御者台に乗って馬に指示を出す。
すっかり日も落ちていた。冷たい風が頬を撫でるが、故郷に吹いているものに比べたら優しいもののように感じる。
辺境の冬と言えば全ての緑が姿を消し、木々は雪の葉を茂らせるばかりだったが、この国の冬は雪の白よりも自然の緑が多くを主張している。
牧場の周囲を覆うモミの木は、冬になる前に葉を散らすことのない常緑植物だという。
「小さい頃からあるから不思議でもなんでもないけど、雪国の人から見たら面白い光景なんだな」
「そうですね。故郷の木は冬になる前に葉が全て散ってしまいますから」
「なるほどね。そういえば歌があったっけ」
「モミの木の?」
「そう。聖誕節を祝う賛美歌だったような」
義父はよく覚えていないのか、鼻歌交じりで歌い出す。聖誕節を祝う歌だと言っていたが、歌詞の内容は一年中緑を生やしているモミの木を称えるだけという、完全なるモミの歌だった。
帰宅後、厨房の使用人に荷車の中身を渡してから、そのまま風呂へ向かう。
「リツハルド君、先に入ってくれ」
「いえいえ、お義父さんが先に!!」
「いいや、本日の功労者より先に入るわけにはいかない」
「今日は全然働いていませんから!!」
「そんなことはない。いいから先に入るんだ」
「自分なんて桶にうっすら溜めた水とかで問題ないので!!」
「何を言っている。そんなことをしたら風邪を引くだろうに」
互いにどうぞどうぞとしてしまい、引かなかったので、結局は義父と一緒にお風呂に入る事になったという。
伯爵家には牧場帰り専用の風呂があり、泥だらけの人間はそこで体を洗ってから屋敷の中に入るようになっているらしい。
「さあさ、背中でも流そうか」
「え!?」
「お礼の気持ちだ。気にすることはない」
「い、いえ!! お義父さん!! 大丈夫です。お気持ちだけ頂きます!! 自分で、自分で洗いますから!!」
「ほら、遠慮はしなくていい」
「ひい!!」
初めてのお義父さんとのお風呂は、別の意味で盛り上がってしまった。
◇◇◇
髪の毛もしっかり乾かさない状態で部屋に戻る。雑に結っていた髪の毛を解き、タオルでしっかりと水分を吸い取ることから始めた。
これから夕食なので、身に纏っているのは詰襟の上着とズボンという、きちんとした格好だ。髪の毛も綺麗にしてから出て行かなければならない。
長い髪をガシガシと拭いていると、部屋の扉がコンコンと叩かれる。
「あ、入ってま~す」
適当な返事をすれば扉は開かれた。入って来たのはジークリンデ。
「あれ、どうしたの?」
「いや、顔を見たかっただけで」
「そっか」
真ん中にどっかりと座っていた長椅子の位置を端に移し、すぐ隣に腰掛けるように勧める。
「ごめんね、こんなで」
「いや、別に構わない」
髪を下している姿を見られたくないので、いつもは浴室で乾かしてから出てきていたが、今日は義父が居たので早々と逃げるように風呂場を後にしたという。
「結んでいない姿を見るのは初めてだ」
「……そうですね」
雨に濡れた犬のような悲惨な姿なので、あまり見られたくも無かったが。
「拭いてもいいか?」
「え、なにを!?」
疑問に対しての返答はなく、手にしていたタオルはするりと手の平から奪われてしまった。
ジークは長椅子の背後に回り、優しい手付きで髪の毛を拭いてくれる。
髪が乾けば櫛を入れ、最後に三つ編みを編んでくれた。
「もう少ししっかり編んだ方がいいのか?」
「大丈夫。綺麗に編めているよ」
「そうか、良かった」
ジークはもしかしたらこういう事もあるかもと思い、姪っ子との人形遊びでこっそり練習をしていたと話す。
「なんていうかね、生殺し状態だね」
「どういう意味だ?」
「こんなに健気で可愛いジークに何も出来ないから」
悪阻で苦しんでいるジークに全力でじゃれ付く訳にもいかないので、手の甲をそっと撫でるだけにしておく。
一ヶ月間ジーク断ちをしていたので、触れ合うだけでも十分満たされた気持ちになる。
夕食の支度が整ったと声が掛るまで、二人で静かな時間を過ごした。
◇◇◇
意外にも、夕食は八人掛けの小さな食卓で行うという。ジークの両親と独身組の二人の義兄、計六人でのお食事会だ。
部屋の端から端まであるような大きな食卓では皆で会話も楽しめないから、という義父の考えでこのような形になっているという。
「いやあ、今日は本当にいい日だった。牧場の仕事もリツハルド君のお蔭で捗ってね」
「ごめんなさいね、来たばかりなのにお手伝いなんかさせてしまって」
義父と義母の温かい言葉に恐縮してしまう。褒められ慣れていないので、どういった反応が正解かが全く分からないで、いつもの薄ら笑いを浮かべるばかりである。
義父に「少しは手伝え」と責められている義兄達は「趣味の牧場だから別に手伝わなくてもいいだろう」とささやかな反抗をしていた。
「それにしても良かったよ。ジークはずっと荒ぶって……じゃなくて、寂しがっていたから」
「兄上、そのことは」
「良いではないか、少し位」
義兄達はジークについて語り出す。
「ジークリンデは幾つになっても凶暴……じゃなくて、お転婆で」
「でも、そこが可愛いんですよね!!」
突然義兄の笑顔が凍りつき、手にしていたカップを床に落としてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ。すまない」
硬直状態から復活した義兄はこちらに目を合わせずに言う。
「あ、あれだな」
「?」
斜め前に座っていたジークの一つ年上のお兄さんが喋り出す。
「ジークリンデはちょっと威圧的な所が……じゃなくて、気の強くて押しが強い所もあるが、どうかね?」
「でも、彼女の言う事は間違いないので」
「なんという調教済み!! げっふ!!」
斜め前の義兄が急に足元を気にしだし、悶え始める。急にどうしたのだろうか。義兄の隣に座っているジークも心配そうに見下ろしている。
「ジークリンデよ、良かったな、リツハルド君が寛大な男で」
「……」
義父が発した謎の言葉でジークを巡る会話が締め括られた。