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第五十六話 夫婦は合わせ物、離れ物

 四日目。ジークの故郷へ移動する為に準備を始めてから朝食後に旅立つ。


 お祖父さんはいつものように玄関先まで見送ってくれる。熊の毛皮外套を身に纏った状態で。


「なるべく体に負担の掛からない馬車を用意した」

「お祖父さん」

「お心遣いに感謝を」


 お腹の中に子供が居るかもしれないジークへの優しさを忘れない祖父。


「次は、狐火だったか、それを見に行くぞ」

「暖かい時季になったら、是非」

「次にお会い出来るのを楽しみにしております」


 二人揃って深く頭を下げて、侯爵邸を後にする。


 馬車の中にも毛布や衝撃を抑える為のクッションが置かれていた。本当にありがたいことだと、ジークと目線を合わせながら思う。


 ジークの故郷までは場馬車で三時間ほど。


「ジーク、到着するまで横になっていたら?」

「ああ、そうだな」


 侯爵邸一日目、悪阻のような症状が出た晩のジークは本当に辛そうだった。好きなものが食べられなかったり、少しだけ情緒不安定だったり。ほとんどは妊娠初期に見られるようなものだと、昨日の晩にやって来た医者が言っていた。


「ジーク、こちらに」


 馬車はたまに車輪が石を巻き込んで大きく揺れることがある。なので、寝ている間に体を支えておく必要があると思い、膝の上で眠るように手招きをする。


 膝の上に綿入りの敷物を掛けてから、ジークに横たわるように言う。


「いいのか?」

「どうぞ」


 ジークがゆっくりと寝て休むような体勢となり、体に毛布を掛ける。そして、馬車を操る御者に出発するように合図を送った。


 しばらくは目を開いたまま、慣れない状況だからか体を硬くしていたが、頭や頬を撫でている間に瞼は閉じられて、すうすうと穏やかな寝息をたてるようになっていた。


 妊娠している女性の長時間の移動、つまり旅行はあまりお勧め出来ないものらしいが、悪阻の症状が出たのも一日目だけで翌日からは体調も良くなったので、医師からも無理はしない日程で行動するようにと言われるだけであった。


 ジークの両親へはまだ知らせない方がいいと二人で話し合って決めた。まだ、はっきりと子供が出来たと断定する段階ではないので、そういう決定となった。


 里帰りを止めて体調が万全になるまで侯爵邸に滞在すればいいと祖父が提案をしてくれた。だが、昨晩ジークの実家から「楽しみにしている」という手紙が届いたので、相手方の家族もこのように期待をしているので今更予定を変えるわけにもいかないと、祖父も渋々と納得をしてくれた。


 それから四時間ほど。ジークの為に馬車はゆっくりと進んで行き、途中休憩を何度か挟みつつ、彼女の故郷の街に到着をした。


 予定よりも遅めの到着だったので、ヴァッティン家の方々に心配を掛けていたようだ。


「景色を楽しみながらゆるりと進んでいただけだ」

「左様でございましたか、お嬢様」

「もう、私はお嬢様ではないだろう」

「ああ、そうでしたね」


 老齢の執事はジークが幼い頃からヴァッティン家で働いている人物で、ついつい癖でお嬢様と言ってしまったと苦笑している。そんな執事の案内で客間に通され、暖かなコーヒーが振舞われる。


 執事が出て行った後、無事に辿り着けて良かったとホッと息を吐いた。


「慌しい家ですまない」

「そんなことないよ」


 そんな会話をしながら、ジークは用意されたコーヒーの香りを楽しんでから、口に含まずに皿の上にカップを戻す。


「妊娠は思った以上に食事制限が多い」

「そうだね」


 昨晩やって来た医者から妊娠中に摂ってはいけない食べ物や飲み物を聞き、その種類の多さに二人して瞠目をしてしまった。


 コーヒーもその中の一つだという。

 少しだけ飲むだけならば何も影響は無いというが、それでも良くないと言われたら口にするわけにはいかないとジークは思っているのだろう。


「それにしても……」

「?」


 勿体振るかのように言葉を止めて、真面目な顔でこちらを見るジークリンデ。何事かと急かせば、膝枕はいいものだと言う。


「なんというか、人の温かみを感じながら眠るというのは、心地良く思える」

「だよねえ。寒い夜も身を寄せ合って眠れば気持ちよく眠れるし」

「そうだったな」


 こんなささいなことを話しながら笑い合える。


 二人だけの暮らしでも幸せだ。


 だから、子供が生まれなくてもガッカリする事はないと改めて実感をする。


 ジークが客間の棚の中から果実汁を取り出してカップへ注いでいると、勢い良く扉が開かれる。


 扉を元気良く開けて来たのはジークの元気な甥っ子、クラウスだった。


「おい、出戻りババ……!?」


 即座にジークに睨まれたからか、クラウスの発言は途中で尻窄まりとなった。モジモジとした様子で用件を述べる。


「あの、祖父ちゃ、じゃなくて、お祖父様がババ……お、叔母さんと先に少しだけ話をしたいって」

「父が?」


 クラウスはこくこくと頷く。


「分かった。クラウスはリツハルドの相手をしていてくれ」

「……」

「返事は!?」

「う、うん」


 部屋に取り残される自分とクラウス。何だか申し訳なく思ってしまう。


「座ったら?」

「……はい」


 先ほどジークが注いでいた果実汁を前に差し出し、目の前の椅子を勧める。


「しばらく見ない間に大きくなったね」

「ありがとう、ございます」


 クラウスは今年で十三歳だったか。色々と大人との付き合いが難しいお年頃というやつだ。あまり刺激しないようにと心がける。


 はじめに聞いたのは、学校のこと。

 クラウスはテニスという、ラケットで玉を打ち合う競技するクラブに所属をしているらしい。


「この前、大会で入賞をして……」


 その昔、彼が幼少時代にジークから教えて貰ったことがきっかけとなって始めたという。しかしながら、ここ数年はジークも急がしかったようで、実家で会っても相手にして貰えなかったとクラウスは話す。


「テニス、上手くなったから見て欲しかったのに、忙しいって何度も言われて、なんとか叔母さんの気を引く為に……」


 それでジークをババアと呼んでいたと。まあ、なんというか、好きな女の子をついつい苛めてしまう男の心情は分からなくもないが。


「でも、今日、久々に叔母さんを見て、びっくりした」

「びっくりって?」

「……その、なんだか、女の人、みたいになっていたから」


 確かに。ジークは毎日どんどん綺麗になっている。なので、突然その変化を見せられたら驚くしかないだろう。


「みんな、森の中で暮らし始めて一年位経ったから、そろそろ野生の生き物のようになっているんじゃないかって言っていたから、今まで以上に屈強になって帰って来ると想像していて」

「それはそれは」


 どうやら生肉でも食べている一族だと勘違いをされているようだ。

 まあ、たしかに古い時代ではトナカイの生肉を齧り、血を啜りながら遊牧をしていたが、今では首都での生活とも変わらない暮らしをしている。


 それから十分も経たずにジークは部屋に帰って来た。


「クラウス、失礼なことは言わなかっただろうな?」

「べ、別に!!」


 隣に座ったジークの顔をまともに見られないクラウスを眺めながら、とってもいい子でしたと報告をする。


 それからジークのご両親もやって来る。


「リツハルド君、わざわざ遠い所から来てくれて、本当に嬉しく思うよ」

「ええ、本当に!」


 ジークのお父さんもお母さんも、久々の再会を喜んでくれた。

 クラウスは大人の同士の話はつまらないからと言って部屋を出て行く。


「いやはや。娘の変化には驚くばかりで!」

「ええ、こんなに女性らしくふっくらとした姿を見せてくれるとは思わなかったわ」

「父上も母上も大袈裟だな」


 お義母さんは眦に浮かんだ涙をハンカチで拭っていた。


「丁度良い時間なので、食事にしましょう」


 お義母さんが手元の鈴を鳴らせば、次々と食事の準備をする為に使用人達が部屋に入って来る。


 今日はジークリンデの好きなものばかり準備をしたと言っていて、それを聞いた彼女の顔は引き攣ってしまった。

 ここ数日の間、脂分の多い肉類は食べたくないと言うので、果物や野菜、あっさりとした味付けの肉料理などを中心とした食生活となっていた。

 妊娠すると食べ物の好みも変わるようで、今のジークはこってりとした調理をした肉類を避けている最中であった。


 軍人時代は力を付ける為に焼いただけの肉ばかり食べていたと言っていた。今日もそのような品目が出るのでは、と焦っているのだろう。


 そわそわとしているジークを落ち着かせる為に背中を撫でた。


 始めに運ばれて来たのは食前酒。炭酸の入った葡萄のお酒だ。ジークは水でいいと使用人に言っている。

 次は前菜。茹でて潰したジャガイモとハムを層にして四角く固めたものに、温かなとろけるチーズが掛かった品と一緒に根野菜のスープが出される。

 メインは子牛の炙り焼きグリル、赤ワインソース添え。


 だが案の定、それを出された瞬間にジークは口許を押さえて立ち上がる。

 こちらを一瞬だけ見てから部屋を飛び出して行った。理由を察したと思われる年配の使用人の女性が後に続く。


 どうしようか迷ったが、何事かと驚きの表情を浮かべるご両親の顔を見れば、嘘を吐くわけにもいかないと思い、本当のことを言った。


「あの、多分悪阻です」

「なんだと!?」

「まあ」


 出て行ったジークは心配だったが、自分まで退室するのはどうかと思ったので、事情を話しつつ食事を続ける。


「……と、いう訳でして」

「そうだったのか」

「大変だったのね」


 現代医療でははっきりと妊娠初期だという診断を出す事は不可能で、五ヶ月ほど経った後に聴診器で胎児の鼓動を聞いてから確信を得るという方法しかない。


「そうよねえ。私の時も全て勘だったというか。……でも、まあ、そうなんじゃないかって、一目見て思っていたのよ。体も随分とふっくらしていたから」


 流石は十人も子供を産んだ経験のあるお母さん。言わなかったことに対しても、仕方のない事だと言ってくれた。


「出産はお国で?」

「……いえ、まだ、きちんと決めていなくて」


 医師は妊娠時の旅行はお勧めしないと言っていた。だから、ジークを実家に預けてから、自分だけ帰る、という選択肢も頭の中にあった。だが、これは一人で決める事ではないと考えている。


 昼食後、部屋で休んでいるというジークの元へと急ぐ。彼女は部屋で眠っていた。あの後、少しだけ果物を食べてから眠ったと使用人は言う。しばらくは安静に、と医師の診断もあったらしい。


 午後からは、お義父さんが社交場に連れて行くと言ってくれていた。そろそろ準備をしなければならない。瞼に掛かりそうになっていたジークの髪の毛を片側に寄せてから、額に口付けをして部屋を出る。


 社交場では遊戯盤やカード、玉突きを楽しんだり、酒を飲んだり、世界の情勢について意見を交わしたりと、女性の目から逃れて楽しく過ごしたいということを信条としている紳士の憩いの場となっていた。


 義父からまずは酒でも飲みながらゆっくりとしようと誘われる。


「良い場所だろう? ここではいくらだらけても怒られない」

「秘密基地的な場所ですね」

「そうだ」


 秘密基地、子供たちが親の目から逃れて好き勝手に過ごすお城。その言葉自体は知っているが、村の子供たちは遊んでいる暇などほんの僅かなもので、そのようなものを作る機会はない。本で読んだ知識をそのまま語っただけである。


「では、まずは乾杯としようではないか!」

「そうですね」


 義父が注文してくれたのは、辛口の黒ビール。親子は酒の好みも一緒なのかと微笑ましく思ってしまった。


「どうだ?」

「少し辛いですね。実はエールの方が好きで」

「違う。娘の話だ」

「そっちでしたか」


 ビールの感想ではなくてジークについてだったと分かり、少しだけ恥かしくなる。

 真面目なお話なので、手にしていた杯は机の上に置き、姿勢を正してから言った。


「ジークリンデさんは、自分には勿体無い位の素晴らしい娘さんです」

「は!?」

「え?」

「ほ、本当か!? 正気なのか!?」

「ええ、嘘は吐いていませんけれど」


 信じ難いといった表情でこちらを見るお義父さん。重ねて嘘ではない、本当だと伝えた。


「……いや、疑ってすまなかった」


 義父はジークに対して不満もあるだろうからと、日頃の鬱憤を晴らす為に連れて来てくれたようで、意外な反応に戸惑ってしまったらしい。


「アレは……娘は、非常に気が強くて、女性らしさは欠片も無かった。結婚は、夫であるリツハルド君を完全に尻に敷いた状態になっているだろうと、家族の誰もが思っていた」

「いえいえ、そんなことはないですよ」


 ジークは様々な能力に長けているのに、夫である自分より前に出て何かをしようとした事は一度も無いし、無理に意見を押し通すこともしない。何か問題が起これば、二人が納得するまで話し合いをしていた。


「本当に、娘は幸せそうで、女性らしくもなり、本当に喜ばしいことだと」

「……」

「だが、それはリツハルド君の犠牲あってのものだと、そのように思っていた」


 お義父さんは、一体娘をどのように思っていたのか。

 十三歳の時から軍に入り、三十一まで仕事を続けていたジークとは互いに理解を深めるほどゆっくりと過ごす暇も無かったのかもしれないな、とも考える。


 それからちびちびと酒を飲みつつ、雪国での暮らしを語った。最後には義父も一度は訪れたいと、そんな風に言ってくれて嬉しい気持ちとなった。


 帰宅をしたのは夜も遅い時間。気がつけば社交場で相当話し込んでいたということになる。


 使用人からジークが待っていたと聞き、慌てて寝室へと行く事となった。


「ジーク、ごめん、今帰った」

「……いや、別に」


 ジークは寝台の背もたれに体を預けるようにして、座った状態で刺繍をしていた。先ほどよりは顔色が良くなっていたので、安堵をする。


「結局、バレてしまったようだな」

「そうだね。でも、良かったかも」

「?」


 首を傾げるジークの頭を撫でてから、寝台の脇に置かれた椅子に座る。


 そして、すっかり固まっていた考えを話す事となった。


「――ジーク、しばらくここで、実家で過ごさない?」

「え!?」


 ここならば医師は呼べばすぐに来るし、お世話をしてくれる出産経験のある女性も居る。辺境の地よりは快適に過ごせる筈だ。


「夏になったら、迎えに行くから」

「!?」


 まあ、途中で妊娠していないと分かったら春にでも迎えに行けばいい。どちらにせよ、体調が思わしくないジークを極寒の地に連れて帰る訳にはいかなかった。


「わ、私は、ここで長い間休養をするつもりはない」

「お腹に子供が居るかもしれないのに、二日間も掛かる船旅なんかさせられないよ」

「……」


 この時期は流産もしやすいと先生も言っていたし、船の中に医師なんか居ない。万が一何かがあったら大変な事になる。


 村にも出産に詳しい知識を持つ老人も居るが、異国人であるジークの手伝いをしてくれる可能性は低いだろうと予測していた。


「離れ離れになるのは辛いけれど、でも、この先の人生でジークが居ないのはもっと辛い」

「……」


 なんとか言い含めて、最終的にはジークも納得してくれた。


「手紙も書くから」

「……ああ」


 すっかり意気消沈してしまった表情は、見ているこちらも辛くなってしまう程に悲惨なものだった。

 だが、これが最善と言うしかない。無理をして連れて帰り、どちらの命も失ってしまっては、この先立ち直れなくなるだろう。


「明日の朝、帰るというのか?」

「……そうだね」


 帰ったらまた仕事が山積みのようになっていると予測。領主としての仕事は多くは無いが、数日家を空ければそれなりに忙しくもなる。


「どうすれば、このどうしようもない恐れは和らぐのか」

「ジーク、ごめんね」

「いや、この決定は間違ってはいない」


 不安そうに揺れる灰色の目がどうすれば穏やかなものに出来るのか考えるが、答えは出て来そうにない。


「何と言えばいいのか、その、自分でも驚いている。私は、リツに相当な割合で依存をしていたらしい」

「そんなことないよ。ジークは、慣れない土地でも凜としていて」

「だったら、どうしてこんなにも別れが辛い?」

「!!」


 膝を曲げてこちらの方を向いていたジークの体をぎゅっと抱きしめる。今の自分には、安心して貰う為にこんな行為しか出来なくて歯痒く思った。


 長い間、引き寄せていた背中を撫でるだけ、という過ごし方をしていれば、控えめに扉が叩かれる。


 何事かと扉を開けば、使用人が手紙を届けてくれた。


 差出人の名は祖父。早馬で送って来たという。なにか事件でも起こったのかと、焦りながら封を切れば、中にはとんでもないことが記されていた。


 ――息子夫婦、お前の両親を捕獲した。どう料理すればいい? と。


 行方不明になっていた父と母を祖父が見つけ出したようだ。


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