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第二十話 エメリヒ・ダーヴィットの活動報告

 それは、前線に送られるような精鋭部隊に配属をされた一日目の話だった。


 屈強な男ばかりの部隊で一人だけ細い体つきをした者が居て、その違和感を不思議に思う。話を聞けばその人物は大貴族だと聞いた。その瞬間になんでコイツみたいな細い奴が、という疑問も吹き飛ぶ。


 軍隊は実力主義でもあるが、家柄の力で簡単に上に行く事も可能なのだ。


 そんな綺麗な顔をした貴族様に話しかけてみれば配属日も同じだった事が発覚して、行動を共にするうちに少しずつではあったが会話を交わすようになっていた。


 それがジークリンデ・フォン・ヴァッティンとの出会いだった。


 その頃、ずっと真面目貴族の勤労少年だと思い込んでいた自らを殴りたくなる。

 彼女、ジークリンデは気高くて聡明で、かつ美しいという尊い女性だったのだ。


 そんなジークリンデとは縁が続き、長い間同じ部隊で共に軍人生活過ごした。


 命を助けて貰ったことも何度もある。……悔しいことに逆は無いが。

 一番恥ずかしかったのは、雪山での演習で遭難し、ジークリンデと食材を探しに行って鹿に蹴られて鼻血を出しながら気を失っていたことだろう。

 彼女はその鹿をしっかりと仕留め、その場に倒れて動かない人間と価値を比べて、人命救助を優先してくれたのだ。


 まあ、帰っても数名の死にかけ軍人が居た訳で、鹿という食材を諦めて倒れた人間を選ぶことは間違った選択であったが、それでも、重たい自分を担いで帰って治療してくれたというジークリンデの判断が俺を生かしてくれたのだ。


 そんな彼女に好意を抱いていると気がついたのは、彼女が結婚相手を探しているという噂話を聞いた瞬間であった。

 あまりにも遅すぎる気持ちの発覚に、ただただ戸惑ってばかりだった。


 ジークリンデは年上だった。しかも、家柄も良い。

 階級は昇格を断わっていた様で、同じ地位には居たものの、彼女は俺よりも多くの勲章や褒章を有していたのだ。


 このような女性に求婚など出来る訳がないと、そんな風に考えて諦めてかけていた。


 しかしながら、こんな俺にも絶好の機会は訪れる。ジークリンデが結婚相手を探すために夜会に参加をするという話を彼女の伯父であり上司でもある人から聞いたのだ。


「どうせ誰も求婚なんかしない」と呟いていたので、その一回だけに賭けてみようと思った。

 それに軍服姿なら躊躇しても、ドレスを着た女性らしい姿のジークリンデなら結婚を申し込むことが出来るのではと確信していたのだ。


 そんな状況で迎えた夜会当日。最悪な事に想定していた目論見は全て外れる事となった。


 ジークリンデは軍服姿で現れて、しかも、いつもは身に着けていない勲章や褒章を胸に飾っていたのだ。


 ――彼女が眩しかった。とても、俺なんかが近づける存在ではないと。


 それは勲章の輝きに抗うことが出来なかった故の気持ちか、それともジークリンデ自身が眩い存在であったからか、その時の俺ははっきり感情を把握する事が出来なくなっていた。


 ジークリンデはたくさんの女性に囲まれているのですぐには近づけない。少しだけ外の空気を吸ってこようと会場から出て行き、戻った頃には彼女の姿は忽然と無くなっていた。


 近くに居た知り合いに聞けば、ジークリンデは『辺境の国ラップランドの雪男』が求婚し、めでたく結婚が決まったと。


 どこの馬の骨だと問い詰めれば、その男は異国の伯爵だという。古い家柄で、身分もつり合っているとのこと。


 激しい喪失感。彼女は自分に見向きもしなかったのに、悔しいと、奪われてしまったという、勝手な焦燥感に襲われる。


 だが、もう、遅い。ジークリンデは雪男だとか熊男だとかよく分からないが、辺境の地で野蛮な暮らしをしていると思われる男に掻っ攫われてしまったのだ。


 しかしながら、俺は驚く程諦めが悪かった。


 彼女の嫁ぐ先のことを調べれば、最低最悪の地であることも発覚する。

 ジークリンデは知らないで嫁ぐのではと不安になったのだ。


 それに、逢えなくなった日が想いを掻き立ててしまい、とうとう俺はジークリンデの実家に押しかけて、彼女に求婚をしてしまったのだ。


 されど、答えは予想通り「気持ちは嬉しいが」で始まり、「婚約者がいる」で終わるという悲惨な結果であった。


 それが彼女との別れである。


 こうして衝撃的な想い人の結婚から数ヶ月が経ち、俺は異国の地に降り立っていた。


 ここはジークリンデが嫁いで行った国。

 ここまでやって来たのは彼女が幸せに暮らしているか確認をする為である。


 船の客室を出た瞬間から嫌な予感はしていたが、かなり寒い。というより、痛い。

 吹き付ける風に当たれば痛みを伴うなんて、痛風の人ってこんな気分なのかな? ……いや、違うか。などと考えながら、船を下りる。


 ジークリンデの手紙には迎えに来る人の目印は白熊とだけ書いてあった。来てくれるのは彼女の旦那さんと使用人という、何とも気まずい移動となる。


 だが、こちらの国の移動手段をよく理解していなかったのも悪いのだ。まさか、蒸気車も出始めたという時代に、トナカイの引くソリを使っての移動が主であるとは誰が想像をしたのだろうかと。


 目印の白熊って何だよ、詳細を書け、ジークリンデ! と考えながら歩き回る。


 その時になって気がついた。彼女の旦那の異名は確か『辺境の国の熊』だと。


 きっとジークリンデの夫とは熊のように大柄で筋肉質な男に違いない。彼女も自分よりも体が大きく、逞しい人間に初めて出逢ったので惹かれてしまったのだと想像をする。


 俺は、身長はそこそこあるが、軍人にしては体が細い。筋肉の付き難い家系だと祖父に言われた時は絶望を覚えたものだ。


 好みでは無かったから結婚を断られたのだな、と自分を慰めつつ、異国の地を歩く。

 人込みを掻き分けながら進んでいると、ある物が目に付いた。


 ――それは、白熊だった。


 一瞬本物の熊かと思って荷物を落としかける。だが、良く見てみればそれは熊の毛皮を被った大男であると気付いたのだ。


 あ、あれが、ジークリンデの夫!?


 太い腕に盛り上がった大胸筋、腹は気持ち悪いほどに割れている。熊の毛皮を被る姿は野性味が溢れ、近づいてはいけないと、本能が訴える程の危ない気配を漂わせる人物だった。


 何故か熊の毛皮の下には何も身につけておらず(ズボンは穿いている)その迫力は極寒の地を生き抜いてきた者の証なのか。


 ――こ、こわい。


 情けないことにそんな感情が湧き上がって来る。


 ふと、ジークリンデの夫こと熊男の隣を見れば、使用人らしき男が立っていいたので、ついつい助けを求めるかのように見つめてしまう。

 褐色の肌の熊男とは違い、その男は全身の色素が薄いのか、白い肌に白い髪の毛、青い目は宝石のような綺麗な色彩をしていた。あれはジークリンデが手紙に書いていた使用人の男だなと確認させて貰う。


 獅子のような顔をしている熊男を見る事が出来ずに、使用人の顔を見ながら話し掛ける。


 レヴォントレット伯爵ですか、と。

 それから自分の名前はエメリヒ・ダーヴィットだと、勉強をして来た異国語で名乗る。


「あ、大丈夫ですよ。ダーヴィットさんの国の言葉喋れますから!」


 おお、なんということだろうか。使用人が通訳出来るとは。彼は親切なことに鞄も持ってくれる。このような気の利く使用人が居ることが分かり、分かりやすい程に安堵をしてしまった。


 少しだけ会話を交わし、気が合いそうな愛想の良い青年だったので敬語は話さなくてもいいと言った。


「彼はテオポロン。言葉は通じないけれど、良い人だから」

「――え?」


 使用人君のくれた耳当てを着けていたのでよく言葉を拾えず、聞き返したが彼はずんずんと先に進んでしまった。


 俺は熊の旦那さんを視界に入れないようにしながら後に続く。


 そして不安の素だったソリは想像以上に開放的な物であった。

 当たり前だが屋根は無い。そしてトナカイは無駄にデカイ。それよりも問題なのは――。


「じゃ、テオポロンの間に座って」

「……」


 先ほどから連呼している『テオポロン』はここの国の言葉なのか。意味を聞きたかったが、寒くて声が張れなくなっていたので、伺うのは後回しにする。


 そして、使用人は良い笑顔で言った。ジークリンデの熊旦那の膝と膝の間に座ってくれ、と。


「橇は結構速いからね」

「……」


 どうやら使用人が橇を操り、連結した別の橇に座る熊と同席、しかも膝の間に挟まれつつの移動だと説明してくれた。


 こうして中年の親父に背後を預けながら、トナカイの轢く橇は動き出す。


 長時間にも及ぶ移動は悲惨なものであった。

 まず橇が怖い。速いし、何度も振り落とされそうな恐怖に陥ってしまう。熊に体を押さえつけられてなかったら、何度も体は雪面に投げ出されていただろうと、想像をして震えた。


 途中で休憩をしながら進むのだが、食事が口に合わなかった。鹿の肉は噛み切る事が出来ない程に硬く、臭い消しの為に入れたと思われる香草も独特だ。パンは黒麦で、石のように硬い。飲み物もワインに香辛料を入れる暴挙に出ていた。どうしてそういうことをするのだと疑問に思っていたが、しばらくすれば体が温かくなったので、こういうことかと納得してしまう。


 相変わらずジークリンデの旦那さんは一言も言葉を発しない。唯一の慰めは、辛い道中を励ましてくれる使用人の青年であった。


 髭なんか生えないんじゃないかと思うほどに線が細く、男のくせにどこか儚げな雰囲気のある不思議な人だった。

 そんな風に思っていたら橇は突然停止をする。使用人の彼は急に銃を取り出して発砲し出すので、目を剥いてしまった。橇から降りてこちらに向かって謝ると、その場から離れた後に何かを持ち出してくる。


 帰って来た使用人の手には、白い兎が握られていたのだ。どうやら珍しい品種らしく、土産が出来たと喜んでいた。


 兎の亡骸は俺の足元へと置かれ、死後硬直が始まったのを足先に感じつつ、何故か自分が「ごめんよお、ごめんよお」と呟く羽目に。


 と、まあ、そんな風に、頼りない外見をしている青年だったが、中身はしっかりとした狩猟民族だったのだ。


 あっさりと日の光は沈んでいく。時計を確認すれば、まだ昼過ぎであった。


 とにかく、暗い中での走行は恐怖だった。小さな角灯の灯りだけで先を進むのだ。


 神経をすり減らしながらも、何とか村へと到着をする。

 最後は歩く事も儘ならない状態で、ジークリンデの旦那さんが背負ってくれた。


 白熊の毛、温かい。


 そんな風に他人の背中の上でぐったりしているうちに、到着をする。


「ただいま! ジーク、ジークリンデ!」

「……?」


 何故か使用人の青年がジークリンデを家の中から呼び出す。しかも呼び捨て。


 何故かトナカイと橇は旦那さんが引いて行き、その場には使用人と自分、それから扉より飛び出してきたジークリンデが顔を合わせる事となる。


「よく来てくれた」


 久々の再会となるジークリンデは笑顔で迎えてくれた。旦那さんが居ないうちに再会の抱擁でもしようかと思ったが、次に続いた言葉は想定外のものであった。


「――と、言うと思ったか!!」

「ひ、ひい~~!!」


 いきなりの大声にびっくりしてしまった。


「――?」


 目を細めて怖い顔をする元同僚は、まさかの行動に出る。


 ジークリンデはその場でたん、たん、と軽やかに跳ねながら膝を落とし、勢い良く前に出てきたかと思えばそのまま速さを落とす事もなく、体を一回転させてからの蹴りをお見舞いしてくれた。


「ぐえっふ!!」


 勿論攻撃なんて想定してなかったものだから、無残にもその場に倒れこんでしまう。 

 ここでも優しい使用人の青年は俺に駆け寄ってくれて、立ち上がる為に手を貸してくれたのだ。


「……ヴァッティン、なんてことをする」

「ヴァッティンは旧姓だ。今はレヴォントレット伯爵夫人とでも呼んで貰おうか」

「……ひ、酷いことを」

「酷いのはお前だ。こんな時季に来てから!」

「……」


 どうやら歓迎はされていなかったらしい。少しだけ悲しくなる。


「中に入ろう」

「……」


 青年は俺の体を支えてくれた体勢のまま、家の中へと歩いてくれる。


 古くからの知り合いよりも、今日会ったばかりの人間の方が親切とはどういうことなのだろうかと、ジークリンデを睨みつける。


「リツ、こんな奴の手助けなどしなくてもいい」


 この青年の名はリツ君と言うらしい。

 リツ君は本当に良い人だった。


 しかしながら、家の中でとんでもないことが発覚をする。


 この親切なリツ君がジークリンデの旦那様だったのだ。


「どうしてそのような勘違いを?」

「いや、伯爵は社交界で『辺境の国の熊男』と呼ばれていただろう!?」

「熊男ではなく雪男だ」

「あ、そう、だった、か?」


 そんな風に言えば、ジークリンデがジロリ睨み付ける。

 いや、子育て中の熊ではないのだから、ちょっとは落ち着いて欲しいと言っても聞かない。


「まあまあ、折角遠いところから来てくれたから。ここでの生活を楽しんで行ってくれると嬉しいなあ」

「あ、ありが」

「……そうだな。楽しんで貰おうか!」

「!?」


 リツ君の歓迎は嬉しかったが、ジークリンデの言葉は嫌な予感しかしなかった。


 翌日、ジークリンデから言い渡されたのは、過酷な労働だった。

 リツ君はお客様なんだから、と止めてくれたが、ここに居る者は働くべきだと強く主張したので、「……ごめんね」という言葉を残して居なくなってしまった。

 彼は尻に敷かれているのだな、と気の毒に思う暇もなく、次々と仕事を言いつけられる。


 犬の散歩に餌やり、雪かきに、水汲み。

 最悪だったのが動物の解体。ここでも「ごめんよお、ごめんよお」と言いながら皮を剥ぐ。


 しかしながら、そうした労働の後での食事は美味い。と、いうか、この家の料理人は腕が良いようで、用意してくれた食事はどれも美味しかった。

 ここに来る途中で食べて体が受け付けなかった鹿も、ここで出されたものは美味しくてどんどん食が進んだ位だ。


 そして、ジークリンデは幸せそうだった。

 軍に居た頃よりも顔色などが良くなっているような気もする。表情も明るくなったと、そんな風に見受けられた。


 それにリツ君は彼女を大切に扱っていた。まるで、世界で唯一の宝物に接するかのように。


 そんな二人に付け入る隙なんか無くて、お似合いの夫婦であることは一目瞭然であったのだ。


 こうして辺境の村での滞在は終わる。

 帰りは偶然一緒の港へ行く商人が居たので、お金を払って連れて行ってもらう事にした。


「世話になった」

「ああ」

「また遊びに来て、むご!」


 遊びに来て欲しいと言ってくれたリツ君の口をジークリンデは塞ぐ。まったく酷いものだと笑ってしまった。


 もうこの村には未練も何もない。そういう風に思っていたが、想定外の出会いが訪れる事となる。

 帰り道にすれ違った女性に一目惚れをしてしまい、雪解けの時季になった頃にまた村を訪問する事となったのだ。


 彼女と仲良くなる為に国と国の間を行き来することを繰り返すうちに、軍人を辞めてこの村で暮らす決心をすることになったのはまた別の話である。


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