皇帝の暗躍
皇帝はルスラン・イスハークと名前を偽り、商人に扮して各国を見て回っていたらしい。
「トランシルヴァニア公国に立ち寄ったときに偶然、君の手書き刺繍に出会ったんだ」
トランシルヴァニア公国の伝統工芸である刺繍は、結婚相手を探す材料となる。
そのため、娘が年頃になると、親はその刺繍を公開するのだ。
すばらしい刺繍をする娘は引く手あまたとなり、求婚者が殺到する。
そのような慣習に則って私の刺繍も公開されたものの、バートリ家の吸血鬼の噂が広まり、求婚者は現れなかったのだ。
父が私の刺繍を片手に頼み込んでも、最終的には断られる始末だったのである。
「バカな男共だ。君みたいなすばらしい女性との結婚を断るなんて。だからね、俺は君がそのような思いをしないよう、アトウマン帝国でバートリ家の吸血鬼を流行らせたんだよ」
「なっ――!?」
吸血鬼関連の本の出版に、詩人、演劇、噂話と、アトウマン帝国の人々が吸血鬼を忌避しないよう、国内で盛大な流行らせたという。
「流行を作るのは、侵攻よりも難しかったけれど、君のために頑張ったんだ」
アトウマン帝国の人達がバートリ家の吸血鬼に好意的だったのは、皇帝がそうなるように操作した結果だったのだ。
「君の叔母を呼んで、ここに来ても寂しくないようにと環境を整える段階だったんだけれど、まさか君のほうから来てくれるなんて! いったいどういう目的で、ここまで来たんだい?」
「……」
ぎゅっ、と唇を噛みしめていたら、叔母が皇帝の質問に答えてしまった。
「どうやら、呪術師に会って、呪いを解いてほしいようだ」
それを聞いた皇帝は、お腹を抱えて笑い始めた。
何がそのようにおかしいのか。キッと睨む付けてしまう。
「もしかして、睨んでいるつもりかな? ただかわいいだけだよね。で、どうして怒っているの?」
「真剣に悩んでいることを、そのように笑われたら、誰だって怒りますわ」
「ああ、ごめんね」
もしかしたら皇帝には、人の心というものがないのかもしれない。
いちいち腹を立てていたら、こちらが損をするだけだろう。
「うん、わかった。真剣に話そう」
皇帝はピンと背筋を伸ばし、真面目な表情を浮かべる。
「君の言う呪いというのは、もしや、〝牛の頭蓋骨〟の呪いではないだろうか?」
「――!?」
どうしてそれを、と聞きそうになったが、喉から出る寸前でごくんと飲み込んだ。
けれどもヒュ! と息を大きく吸い込み、表情も制御できていない。
これでは、発言を認めているようなものだろう。
「なぜ、知っているのか? って顔をしているね」
もう、皇帝相手に何か隠そうとするだけ無駄なのかもしれない。
私が微かに頷くと、皇帝は嬉しそうにその理由について述べた。
「簡単だよ。あの呪いを仕掛けたのは、俺だから」
衝撃的な情報だったのにもかかわらず、そこまで驚いていない私がいた。
心の奥底で、そうではないのか、と勘づいていたのかもしれない。
「侵攻のさい、ワラキア公と竜公の戦力は脅威だった。だから、二人の体を入れ替えて、均衡を崩してしまおうって思ったわけ。でも、目的はそれだけではなく――」
何かわかるだろうか、と言わんばかりの視線が送られる。
「答えられるかな?」
「いいえ、まったく」
「考えたくもないって顔だ。いいよ、特別に教えてあげる」
皇帝が呪いを仕込んだ理由。それは私が想像もしていないことだった。
「俺の花嫁となる君を、ベタベタ触られたくなかったからなんだ」
皇帝は立ち上がり、つかつかと私のもとへ歩いてくる。
逃げなければ、と本能が訴えるも、逃げても外はイェニチェリ達がいる。
それにここはアトウマン帝国――敵の本拠地だ。逃げても無駄なのだ。
皇帝は跪き、私の顎を指先で持ち上げる。
「結婚はできても、初夜はできなかっただろう」
余計なお世話である。そんな思いを込めて、私は皇帝の頬を思いっきり叩いた。
牢獄行きになるだろうが、それでもいい。
やられっぱなしでは気が済まない。そう思って彼を攻撃した。
イェニチェリ達が大挙して押しかけるのではないか、と思っていたが、シーーーンと静まり返っている。
叩かれた皇帝は目を見開いていたが、次の瞬間には笑みを浮かべた。
「常にお人形さんみたいにかわいくって、本性なんて現してくれないと思っていたのに、もうこんな一面を見せてくれたんだね。嬉しいよ!」
なんでもプネで出会ったときから、私が貼り付けたような笑顔の裏に冷静で強気な本性があることを見抜いていたらしい。
「プネで出会ったとき、運命だと思ったよ。君の姿絵は持っていたけれど、実際に目にしたことはなかったからね。美しくて、優しくて、柔らかい雰囲気があるのに、内に秘めた強かさもある。いつしか、ワラキア公国抜きで、君だけを欲するようになっていたんだ」
皇帝はワラキア公国の侵攻を諦め、私だけを手に入れられないか、と考えるようになっていたらしい。
「どうせ、ワラキア公国は呪いのせいで自滅するだろうから。もうすぐ、彼らの体は固定され、二度と戻れなくなる。そうなったら、隠し通すのも難しいだろうね」
皇帝は私の耳元で、恐ろしいことを囁いた。
「マジャローグ王国に呪いについて情報提供したら、喜んでワラキア公国を侵攻するだろう。喋るか、喋らないかは、俺の気分次第だ」
ここで彼は提案する。それはありえない交渉でもあった。
「ワラキア公夫人――いいや、エリザベル。君が俺の妻になれば、牛の頭蓋骨の呪いについては、誰にも言わない」