バートリ家の不穏な集まり
朝――目覚めると、拳大のモフモフした塊が私を心配そうに覗き込んでいた。
『オハヨウ』
モフモフが朝の挨拶をしたので、私も「おはようございます」と言葉を返す。
このモフモフは古くからバートリ家に居着く屋敷妖精だ。ちりや埃を糧とし、家の中をピカピカにしてくれる頼れる存在である。
『元気?』
「ええ、まあ」
皆が皆、モフモフの声が聞こえるものだと思っていたのに、そうではなかった。
私にだけ幼少期から精霊や妖精、幻獣の声を理解できていたのだ。
なんでもそれは、特別な者にだけ神様から与えられる祝福らしい。
特にこの子には懐かれており、モフモフという名前もつけてあげた。
起き上がって背伸びをしていると、侍女のゾフィアがやってきた。
「エリザベル様、おはようございます」
「ええ、おはよう」
「あら、顔色が悪いですねえ。悪夢でも見ましたか?」
ゾフィアの言うとおり、実は昨晩、夢見が悪かった。
巨大な黒い竜が私を咥えて攫い、どこかへ連れ出してしまったのだ。
「黒い竜、ですか?」
「ええ。きっと、ワラキア公との結婚話を聞いたせいかと」
ワラキア公の父は神聖帝国の皇帝から竜騎士団の隊長に指名され、勇猛果敢な戦いをしたことから、竜公の名を馳せていたらしい。
竜公の息子であるワラキア公は、小竜公と呼ばれているようだ。
ワラキア公が竜の異名を持っているので、黒い竜が出る夢なんかみてしまったのだろう。
「エリザベル様がワラキア公と結婚するわけではありませんよね?」
「ええ……お父様はそうおっしゃってくださったけれど」
果たしてそれでいいのか、疑問に思ってしまった。
◇◇◇
バートリ家の娘とその親が、早急に集められる。
ワラキア公との結婚話が浮上して早くも三日が経っていたのだが、私の中で気持ちに変化があった。
母はそれに気づいたのか、どうかしたのかと問いかけてくる。
「その、ワラキア公との結婚についてですが、やはり、トランシルヴァニア公国の公女であるわたくしがするべきだと思うようになりまして」
正直、今でもワラキア公について考えたら鳥肌が立ってしまう。
一生独身でもいいから、今回の縁談だけはお断りしたい。
けれども私はトランシルヴァニア公の公女として特別な教育を受けた。
それらを役立てるときなのではないか、という考えに至っていたのだ。
「なりません!!」
母はそう言って、私を抱きしめる。
「ワラキア公に嫁ぐなんて、親不孝者です! 自らその禍に飛び込むなんて、冗談でも言わないでください!」
「お母様……」
母の言葉を聞いて、胸がぎゅっと締め付けられる。
親不孝者にはなりたくないのだが、今回ばかりは仕方がない話だろう。
「エリザベル、一族の中には、権力者に嫁ぎたい野心溢れる娘がいるかもしれません。一度、皆の話を聞いてから考えましょう」
「ええ、そう、ですね」
十八歳の従妹ギゼラは分家の娘ながら、将来は大貴族の妻になりたい、なんて夢を必ず叶えると宣言していた。
彼女くらい野望の持ち主であれば、ワラキア公との結婚話を受け入れる可能性がある。
母の言うとおり、始めから私が結婚すると宣言するよりは、一族の娘達の反応を見るのもいいだろう。
そんなわけで、バートリ家の話し合いの場に参加することとなった。
◇◇◇
晩餐会を行うための広間には、バートリ家の娘とその親がズラリと並んでいた。
結婚適齢期の娘は私を除いて五名。
一番下から十六歳のクリスティーナ、ノーラ、十七歳のハンナ、ラウラ、それから十八歳のギゼラである。
本家に娘だけが呼ばれることが珍しいからか、皆、緊張の面持ちでいたり、警戒するような表情を浮かべたり、とそれぞれの反応を示している。
最後に父が登場し、すぐに本題へと移った。
「皆の者、急な召集にもかかわらず、駆けつけてくれて心から感謝する――。早速だが、ここにいる者達にマジャロルサーグ王国からある打診が届いた」
ピンと張り詰めた空気の中、父はついに口にした。
「実は、バートリ家の娘に、名誉ある縁談が届いた。相手はワラキア公国のワラキア公だ」
ヒイ! という悲鳴と、椅子から転げ落ちるような物音が同時に響き渡る。
悲鳴はクリスティーナで、椅子から落ちたのはギゼラの父親だった。
「して、ワラキア公との結婚を望む者がいたら、挙手してくれ」
シーーーーーーーン、と静まり返る。
ここにいる誰もが、それはごめんだ、という表情を浮かべていた。
沈黙が続く中、ギゼラが口を開いた。
「どうしてそのお話を私達に持ってきたのですか?」
ギゼラが父に射貫くような視線を向けながら質問する。
父は思わぬ質問を受け、しどろもどろと言葉を返す。
「名誉な婚姻だから、皆にも紹介を、と思って」
「名誉な結婚であれば、エリザベルお姉様に持っていくべきでは?」
ギゼラから指摘を受け、ぐうの音も出ない、という様子の父である。
父の額には脂汗が浮かんでいた。まるで、蛇に睨まれた蛙のようである。
「いや、エリザベルは結婚適齢期から外れているゆえ、相手が望む花嫁像から遠く離れていると思って」
「そうでしょうか? バートリ家でロマンス語をマスターしているのは、エリザベルお姉様だけです」
ロマンス語というのはワラキア公国の言語を含む、八カ国の外国語の総称だ。
「ワラキア公国は多民族国家です。さまざまな言語を習得していたほうがいいのでは?」
さらに、追い打ちをかけるようにギゼラは言った。
「ワラキア公は竜と人間の間の子ですから、竜の言葉を解するエリザベルお姉様以上に適任な花嫁はいないでしょう。噂では、ワラキア公は人語を喋れない、という話ですので」
「ギゼラ、ちょっとお待ちになって。ワラキア公が竜と人間の間の子、というのはいったいどういう意味ですの?」
「その通りです」
ワラキア公が竜と人間の間の子なんて、耳にした覚えは一度もない。
信じがたい気持ちで聞き返す。
「竜公や小竜公の謂われは、ワラキア公の父君が竜騎士団に所属し、竜公と呼ばれていたことに由来するのでは?」
「そんなの、子どもが眠るときに聞くおとぎ話ですよ。真実は異なっていて、竜公は本物の竜で、ワラキア公は竜に変化できる人間だ、という噂ですよ」
「そ、そんな!」
「エリザベルお姉様はあまり社交場に顔をお出しにならなかったので、ご存じなかったのですね」
ギゼラが勝ち誇ったような表情で言ってくる。
ワラキア公に串刺し以外の噂があったなんて知らなかった。
ギゼラはくすくす笑いながら、指摘してくる。
「バートリ家の吸血姫と、ワラキアの串刺し小竜公なんて、お似合いではありませんか! 化け物同士、仲良くなさっては?」
「ギゼラ、それ以上娘を愚弄することは許さない!!」
父は我慢できなかったのか、顔を真っ赤にし、立ち上がってギゼラを叱りつける。
ギゼラは悪びれた様子など一切見せずに、用意されていたワインを水のように飲み干した。
「愚弄もしたくなりますよ。我がバートリ家が吸血鬼の一族だと噂されるようになったのは、伯父様のせいでもありましたし」
その言葉が父にとって止めとなったのだろう。
すとんと椅子に座り込み、今にも消えそうな声で「全員下がってくれ」と命じたのだった。