静かな夜を
『すまない。自分の部屋で眠ろうとしたのだが、父とモフモフが占領していて』
「そうだったのですね」
『父上は前まで寝台で眠るという習慣などなく、その辺に眠っていたのだが、いつの間にか布団の上で眠れるようになったらしい』
それ以前は、母君の寝台の傍で丸くなっていることが多かったようだ。
『母上が亡くなってからは、廊下で眠っていたり、庭に転がっていたり、と私の体なのに、好き勝手してくれていたのだ』
「ふふ、想像したら、なんだかかわいらしいです」
『ぜんぜんかわいくないぞ!』
なんでも今日、初めて寝台で眠っていたという。ストイカ曰く、モフモフに教えてもらったのだろう、と。
『それにしても、ストイカの奴、自分が言いたいことを一方的に喋ってからいなくなりやがって……! エリザベルがいなければ、誰とも話せないのが少々もどかしいな』
「わたくしのことは、いつでもお呼びくださいませ」
『いや、お前の都合もあるだろうが』
「でしたら、常に一緒に過ごせばいいだけのお話です」
『鬱陶しくないのか?』
「いいえ、まったく。先ほども、モフモフがいなくて寂しく思っていたところでしたの」
『そう、だったのか。ならばよかった』
ブラッド様が私を見つめながら、布団に尻尾をぺたん、ぺたんと叩きつけている。
これは、何か聞きたいことがあるのだろう。
「ブラッド様、何か?」
『ん?』
「わたくしに聞きたいことがあるのではないですか?」
そう問いかけると、ブラッド様はまんまるの瞳をさらに大きくさせる。
『エリザベルは私の心までわかるのか?』
「いえ、なんとなく、です」
尻尾を叩きつける癖がかわいいので、指摘しないでおく。
ブラッド様はしばし爪先をいじいじさせたのちに、私にある質問をした。
『昼間、コーマン卿が話していた刺繍とは、なんのことだ?』
「ああ、それはトランシルヴァニア公国からワラキア公国の旅が馬車で十日と聞いていたものですから、安全を祈って騎士様全員に贈った刺繍のハンカチのことです」
『全員分、作ったのか?』
「はい」
ブラッド様は何を思ったのか私に背中を向け、再度尻尾をぺたん、ぺたんと布団に打ち付ける。
刺繍以外にも、まだ気になることがあるようだ。
「あの、刺繍がどうかされましたか?」
『……ない』
「はい?」
『私は、貰っていない』
「まあ!」
まさか、拗ねているというのか。
ブラッド様の顔を覗き込むと、頬が少しだけぷくっと膨らんでいた。
どうやら間違いないようだ。
「あの、申し遅れましたが、ブラッド様への刺繍はたくさんあるんです」
『たくさん?』
「ええ。わたくしの実家では、手書き刺繍という、魔法の刺繍を作る技術が伝わっておりまして」
『では、コーマン卿が言っていたのも、手書き刺繍だったのだな』
「いいえ、あれは違います」
『しかし、エリザベルの刺繍に助けられた、と言っていたではないか』
「ええ、ですが、手書き刺繍は夫となったお方にのみ、お渡しする特別な品なんです」
『そうだったのか』
なぜ、コーマン卿が話していたような効果が出たのかは謎でしかない。
戦闘中、コーマン卿が興奮状態だったので見間違った、という可能性もある。
「手書き刺繍は幼少期からせっせと作る物なんです」
『だからこのように、たくさんあるのだな』
「はい」
寝台の下に入れていたウォールナットの木箱に手に取り、中の刺繍を寝台に広げていく。
『こ、こんなにあるのか?』
「ええ。すべて、未来の夫のために刺した刺繍です」
『魔法の刺繍、と言っていたが、使い方があるのだろうか?』
「ブラッド様の血を一滴、垂らしたら魔法が発動するものなんです」
刺繍はただの布切れから、ハンカチ、ジャケット、ズボン、靴、手袋と布製品ならばなんでも入れている。
これは手書き刺繍を施した物を身につけ、何か危険が迫ったときに魔法が使えるようにしているのだ。
『なるほど、便利だな』
「魔法の効果は一度きりですが、これから先もどんどん作る予定ですので、遠慮なくご利用ください」
『いや、もったいないな。見事な仕上がりだから、飾っていたいくらいだ』
飾れないようにブラッド様の下着や腹巻きなどに刺繍しなければ、と思ってしまう。
実はもう一つ、刺繍を刺していたのだ。
「ここにある刺繍はブラッド様との婚約が決まる前に作った物なのですが、こちらは婚約が決まってから刺したものです」
ベルベット張りの箱の中に入れていたのは、挙式用のシルクのタイ。
「銀糸でアカシアの葉と花を刺してみました」
愛らしい黄色の花を咲かせるアカシアは、幸せの象徴とも言われている。
「ブラッド様の人生が幸せで満たされますように、という願いを込めながら刺繍しました」
『私に、このような品を用意してくれていたとは……!』
ブラッド様は小さな手でタイを受け取り、じっと刺繍を見つめている。
『なんて美しい刺繍なのだ! 素晴らしいとしか言いようがない!』
「大げさですわ」
『そんなことはなかろう!』
ブラッド様は受け取ったタイを、自らの体に当てていた。
けれどもその様子は紳士というよりも、よだれ掛けを巻かれた赤子である。
ブラッド様ご自身も、違和感に気づいたようだ。
『くそ! この幼い体では、まったく示しが付かない!』
「十分、お似合いですよ」
『どこがだ!!』
ブラッド様は丁寧にタイをたたみ、ベルベット張りの箱に戻していた。その背中はなんだか寂しいものである。
『このような短い腕では、エリザベルを抱きしめることでさえ叶わないのか』
「そんなことはありませんよ。よろしければ今、抱きしめていただけますか?」
『しかし』
「物は試しです」
ダメ元で提案すると、ブラッド様は少し遠慮した様子で、私の体にぴと、と密着する。
そのかわいさと言ったら!! その場でもだえ苦しみそうになってしまった。
『エリザベル、明日はせっかく結婚式だと言うのに、私は何もエリザベルに贈り物を準備していなかった』
「ブラッド様が知らない間に結ばれていた婚約ですもの。無理はありませんわ」
『しかし、お前のように、未来の花嫁を想って、何か用意できたはずなのに』
「お気持ちだけで、わたくしは嬉しく思います」
そう答えると、ブラッド様はぶるぶる震え始める。
離れたかと思うと、潤んだ瞳で私を見つめていた。
『いつか私は、エリザベルに贈り物を選んで渡す。いつになるかわからないが、受け取ってくれるな?』
「はい、もちろんです」
ホッとした表情を浮かべたブラッド様は、気が抜けたように布団の上にころんと寝そべった。
『私はエリザベルのような花嫁を娶ることができて、果報者だ』
寝言のように呟くと、ブラッド様は眠りに就いてしまった。