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養蜂家の青年は、草木染め職人の老婆を訪ねる

 アニャと共に、草花染め職人であるツヴェート様の工房に立ち寄った。

 今日も今日とて、ツヴェート様は自慢の庭で草花の世話をしているかと思っていたが――。


「あら、いないのかしら?」


 庭を見渡す限り、ツヴェート様の姿はない。

 しゃがみ込んだ姿を隠すほど、高く生い茂った草花はないので、ひと目で庭にいるかいないかわかるのだ。


「工房で作業しているとか?」

「作業中ではないと思うの」


 そう言って、アニャは屋根から突き出た煙突を指差す。何か作業しているのならば、もくもくと煙が出ているはずだという。


「町に買い物に出かけているとか?」

「ツヴェート様は滅多に町にはいかないわ」


 生活に必要な品は週に一回、商人が運んでくるようだ。知り合いも用事があれば度々訪ねてくるというので、特に不便はないらしい。

 常に工房を開けておくために、なるべく外出しないようにしているようだ。


「もしかしたら、都のほうへ行っているのかもしれないわね」

「都に? どうして?」

「ツヴェート様の息子さんがいらっしゃるの。年に一度、迎えにやってきて三日間くらい滞在するんだけれど」

「そうなんだ」


 ここから都に行くまで、馬車で一日かかる。その間、人を雇って草花の世話をさせているらしい。


「息子さんの家族からは、一ヶ月くらい滞在したらいいのにって言われるみたい。でも、庭の草花を人任せにはできないから、都での滞在は三日が限界なんですって」

「さすが、職人」


 どうやら、ツヴェート様は不在らしい。

 怒号のひとつやふたつ浴びてから帰ろうとしていたが、それも叶わないようだ。


「持ってきた蜂蜜、どうする?」

「扉の近くの日陰に置いて帰りましょう」

「そうだね」


 庭に咲いたエニシダの黄色い花と、赤いダリアに囲まれた道を通り過ぎる。

 家の前に、赤い鉢がひっくり返した状態で置かれていた。そこに、アニャは蜂蜜の瓶を入れる。上に石を置いたら中に何か入っていますよ、という印となるらしい。


「これでよしっと」

「アニャ、一応、声をかけてみる?」

「そうね。もしかしたら、お昼寝をしているかもしれないし」


 アニャはコンコンコンと扉を叩いて、「ツヴェート様ー!」と叫んだ。反応はない。


「いないみたいね」

「うーん」

「イヴァン、どうしたの?」

「いや、この前来た時より、植物に元気がないような気がして」

「この前は春だったもの。元気に決まっているじゃない」

「でも、葉っぱが枯れているような気がして」


 きちんと水を与えていたら、あのように萎れないだろう。

 念のためにアニャに見せると「たしかに、枯れているように見えるわ」と呟いていた。


「もしかして、庭の水やりもできないほど具合を悪くしていて、寝込んでいるとか?」

「だったら大変だわ!」


 寝室のある方向の窓の前で、アニャは叫ぶ。


「ツヴェート様、私、アニャよ。そこにいるの?」


 返事はない。窓に耳を当ててみたが、中から物音などは聞こえなかった。

 どこもかしこもしっかり施錠されている。


「ど、ど、どうしよう。もしも、ひとりで苦しんでいたら――!」


 ガタガタ震えるアニャを、ぎゅっと抱きしめて落ち着かせた。


「アニャ、冷静になるんだ」

「え、ええ、そうね。でもイヴァン、どうやって、家の中に入ればいいの?」

「煙突から入ってみよう」

「煙突から、ツヴェート様の家に入るの!?」

「うん。ちょうどそこに、縄が落ちているし」


 アニャが信じられないという表情で俺を見つめる。もちろん、冗談ではない。本気だ。


「これまで、何度も実家の煙突を潜り抜けてきた。ここでも、上手くやれると思う」

「なんで煙突を潜り抜けるような状態になるのよ!」


 アニャの疑問に、思わず遠い目をしてしまう。

 仕事から戻ってきたら、家に鍵がかかっていた記憶はひとつやふたつどころではない。

 しかし、それをアニャに語って聞かせるつもりはなかった。


「男ならば、誰でも煙突を通っているはず」

「お、お父様も?」

「まあ、そうだね」


 果たして、マクシミリニャンほどの大男がすんなり入る煙突があるのか。わからなかったが、ひとまず仲間に入れておいた。


「危険じゃないの?」

「大丈夫」


 幸いにも、ツヴェート様の家は平屋建てだ。落ちて怪我することもないだろう。


「ツヴェート様が倒れていたら大変だ。すぐに、中の様子を調べなきゃ」

「え、ええ。そうね」

「アニャは玄関で待っていて」

「わかったわ」


 さっそく、屋根に登る。

 山羊に跨がって崖を駆け上がることを考えたら、屋根によじ登るなんて簡単だ。

 木箱を積み上げ、それを踏み台にして登った。

 赤粘土で作られた屋根を伝い、煙突までたどり着く。中を覗き込んだが、部屋が薄暗いからか何も見えなかった。

 しかし火が点いているわけではないので、大丈夫だろう。

 煙突の縁に縄を巻き付け、中へと下ろした。


「イヴァン、落ちないでね」

「心配いらないから!」


 アニャの声に応えてから、縄を伝って暖炉を下りる。

 毎日、暖炉で草花を煮ていたのだろう。森の中にいるような匂いが染みついていた。

 だんだんと、喉に違和感を覚える。イガイガしてきた。口元を、布で覆っておけばよかったと後悔した。

 夏なので、暖炉は使っていないのだろうと思い込んでいたのだ。

 一回でも咳をしたものならば、煙突の中に灰が舞って大変なことになるだろう。

 下りるまで、我慢だ。


 残念なことに、縄は途中で途切れていた。思っていたよりも、短い縄だったようだ。

 しかしまあ、真ん中よりも下まで下りているだろう。

 暗くてよく見えないけれど、現在地から暖炉までそこまでないような気がする。

 意を決し、縄から手を離した。


「ぶはっ!!」


 着地のさいに舞い散った灰を、思い切り吸い込んでしまった。

  ゲホゲホと咳き込みながらも、なんとか暖炉の底に着地できたことに安堵する。


 と、ここでぼんやりしている場合ではない。アニャを部屋に引き入れて、ツヴェート様を探さなければ。


 カーテンが閉まっているので、中は薄暗い。慎重な足取りで、暖炉から出る。

 ちょうど、外からアニャの声が聞こえた。


「イヴァン、植え込みの下から、合い鍵を見つけたわ。今、開けるから!」


 暖炉から一歩踏み出したのと同時に、扉が開かれる。

 外の明かりが、部屋を照らした。


「きゃあ!!」

「なっ!?」


 扉のすぐ傍に、ツヴェート様が倒れていた。 


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