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養蜂家の青年は、甥と話をする

 水切りを成功させたツィリルは、笑顔で戻ってくる。


「イヴァン兄、さっきの、見た?」

「見た、見た。天才じゃん」

「でしょう?」


 短い間に、ツィリルはすっかりアニャと打ち解けたようだ。水切りを教わりつつ、いろんな話を聞いたらしい。


「でっかい山羊に乗って、崖を登っているんでしょう?」

「まあ……うん」

「いいなー! 見てみたい。イヴァン兄、カッコイイんだろうなー」


 いや、決してカッコよくはない。今現在も必死で、毎回冷や汗をかいている。おそらく一生、慣れることはないだろう。


 ツィリルはキラキラした瞳で、こちらを見つめていた。夢を壊してはいけない。そう思って、笑って誤魔化しておく。


「おれも、イヴァン兄とアニャ姉と、一緒に山で暮らしたい!」

「あー、いや、山の暮らしは、街より過酷だから」

「それでも、イヴァン兄と暮らしたい!」


 ツィリルはしゃがんだ姿勢から、弾丸のように懐に飛び込んできた。受け止めきれず、ツィリルともども背後に倒れ込む。


「どわー!」

「わー!」


 ツィリルは俺の腹の上で、楽しそうに笑っていた。その頭を、ぐしゃぐしゃに撫でる。

 大人しくなったので、起き上がって顔を覗き込んだ。なんだか、シュンとしている。


「ツィリル。ねえ、どうしたの?」

「家に、帰りたくない」

「どうして?」

「だって、誰も、おれのことを、見ていないんだ。みんなバタバタしていて、忙しそうで……。イヴァン兄はどれだけ忙しくても、おれと、遊んでくれた。だから、寂しくなかったんだ」


 ツィリルをぎゅっと抱きしめる。こんなに小さな体で、毎日孤独に耐え、養蜂園の仕事を頑張っていたのだろう。


「うーん、でもなー、せめて十三歳くらいになるまで、親元にいたほうがいいんだよなー」


 親の愛情をたっぷり受けて、すくすく育ってほしい。

 しかしそれは一般的な子どもに当てはまるもので、大勢の家族の中で暮らしているツィリルには当てはまらないのかもしれない。

 冷静に考えてみると、ちょっと待てよ、と思う。

 いっそのこと、うちで引き取って俺やアニャ、マクシミリニャンが愛情込めて育てたほうがいいのではないか。

 よくよく見たら、ツィリルはこの辺で見る子どもより痩せている。食事も、満足に食べていないのかもしれない。

 収入が減ったというので、この先もしかしたら食生活にも影響が出る可能性がある。

 小さな子どもが、食事を我慢するような環境なんてあってはならないだろう。


 それに、養蜂園の仕事が忙しくて、最近勉強もしていないと話していた。

 俺のところにいれば、学習も再開できるだろう。


 可能であれば、ツィリルを引き取りたい。

 しかしそれは、ひとりで決めていいものではない。


「アニャは、どう思う?」

「私は、親御さんがいいと言うならば、問題ないわ。お父様も、子どもが大好きだから、賛成するはず」

「そっか。ありがとう」


 問題があるとしたら、ツィリルの両親だろう。


「ツィリル、あまり期待はしないでくれると助かるんだけれど、俺やアニャと山に住む話を、ツィリルのお父さんとお母さんに聞いてみるから」

「え、いいの!?」

「うん。まあ、断られるだろうけれど」

「それでも、嬉しい!!」


 跳び上がって喜ぶツィリルを眺めていたら、子どもがいる生活もいいな、なんて思ってしまう。

 まあ、実際、子育ては大変なんだろうけれど。


「あ、ミハル、ごめん。身内の話をしてしまって」

「いいって、気にするな。アニャさんと挨拶して、ツィリルをイヴァンに会わせるという任務をしに来ただけだから」

「そっか」


 一泊していくのかと思いきや、日帰りらしい。


「宿屋に集合とか言っていたから、てっきり一泊するものだとばかり」

「こう見えて、俺たちは忙しいんだよ。なあ、ツィリル」

「そうそう」


 ツィリルの尊大な物言いに、笑ってしまったのは言うまでもない。

 ひとまず、ツィリルにも土産とマクシミリニャン特製のベリージャム、それから採ったばかりの蜂蜜を手渡す。

 アニャ特製、鹿の角のナイフをたいそう気に入ったようだ。


「ツィリル、それ、手もスパンと切れるから、扱いには気をつけるのよ」

「わかったよ、アニャ姉!」


 アニャ姉と呼ばれたアニャは、少し照れくさそうにしている。兄妹がいないので、姉と呼ばれるのは新鮮なのかもしれない。

 馬車の時間となり、別れのときがやってきた。


「ツィリル、すぐに、兄さんに手紙を送るから」

「うん、待っているね」


 手をぶんぶんと振り、馬車へ乗り込む。


「ミハル、ツィリルを連れてきてくれて、ありがとう」

「おうよ。またな」

「うん。冬くらいに、そっちに行くと思う」

「わかった」


 ツィリルは窓を広げ、見えなくなるまで手を振っていた。

 兄は、ツィリルを引き取ることに対して、どういう反応を示すものか。


 ふたりを見送ったあと、アニャを振り返る。


「アニャ、今日は、ツィリルと遊んでくれて、ありがとう」

「気にしないで。私も、楽しんでいたから」


 ミハルも、明るくて喋りやすかったという。


「あなたがツィリルと話しているときに、イヴァンをお願いしますって、言っていたわ」

「ミハル、どこ視点からの言葉なんだよ」

「イヴァンのお兄さんみたいな口ぶりだったわ」

「同じ年なんだって」


 今回、ミハルとツィリルに会って、思いがけず実家の近況を知ることができた。

 いいことも、悪いこともあった。

 もっとも気になるのは、ロマナについてだろう。

 このまま、黙っておくのも不誠実である。

 勇気を振り絞り、アニャに話しかけた。


「アニャ、あのさ」

「何?」

「ロマナについての話を、聞いてくれる?」

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