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養蜂家の青年は、草木染めの達人と別れる

 ツヴェート様は別れ際に、顔が見えなくなるくらいのつばが広い帽子をくれた。


「イヴァンよ。ほれ、これを被ってお行き」


 アニャにはない。なぜ? という視線を向けたが、ジロリとにらみ返されてしまう。


「ねえ、どうして俺にだけくれるの?」

「あーもう! あんたはどうして、人の親切を黙って受けられないのかい!」

「ごめんなさい」


 帽子は好意。それはわかるけれど、俺にはあってアニャにはない。その意味を知りたかったのだ。そんな疑問を伝えると、ツヴェート様は「はーーーーーっ!」という、この世の深淵にまで届きそうなため息をついていた。


「まあ、いい。あんたは、自分がどう見えているのか、よくわかっていないからな。この際、はっきり言わせてもらうよ」

「んん?」


 自分についてはよくわかっているつもりだ。アニャのほうを見たが、彼女も意味がわからないのか小首を傾げている。

 小首を傾げるアニャがすこぶる可愛い……ではなくて。


「イヴァン。あんたはね、村の娘たちの誰もが羨む、超優良物件なんだよ」

「超優良物件?」


 そう言われても、いまいちピンとこない。

 アニャのほうを見ていたら、何やら考え込んだのちに、こくこく頷いていた。

 俺は、超優良物件らしい。


「昨日も言ったが、体は丈夫。足腰も問題ない。歯もぜんぶあるし、肌はツヤツヤ、顔色はすこぶるいい。毛並みも抜群で、目も濁っていない。健康で若い。さらに、真面目で女を見下さず、性格がいい。おまけに働き者。村にこの条件を満たす男は、まずいないね」

「え、なんで?」

「みんな、都会に出稼ぎに行くんだよ。大抵、そこで出会った女と結婚する。村を出て行く前に結婚を約束して、裏切られた村娘を、私は何人も見ているんだよ」

「そうなんだ」


 ツヴェート様は手にしていた鍬の柄で、俺の帽子をあげる。


「さらにあんたは顔がきれいだ。私が若い娘の親ならば、土下座してでも結婚してくれと頼むだろう。そんな男と結婚したアニャは、村の娘達から顰蹙ひんしゅくを買うんだよ。村に残った娘達は、だいたい妥協して結婚しているからね」

「そ、そうなんだ」

「だから、アニャが村の娘達に妬まれないように、帽子で顔を隠しておけと暗に伝えたかったのに」

「その……なんていうか、察しが悪くて……」

「まったくだよ」


 村がそういう状況だったとは、知らなかった。

 故郷の町でも、同じように都会に出稼ぎに行く男は多い。

 けれどあそこは観光の町だから、残って働く男も多いのだろう。


「ツヴェート様、ありがとうございます」

「わかってくれたら、いいんだよ。アニャを守るのは、あんたしかいないんだ。だから、頼むよ」


 ツヴェート様のありがたい言葉に、深く頭を下げる。

 鍬を振り回して「早く帰りな!」と言うので、手を振って別れた。


「アニャ、ツヴェート様、なんていうか、すごいね」

「ええ。すごいのは草木染めの技術だけじゃなくて、お人柄が本当にもう、大好き」

「俺も」


 また、村にやってきたときに、会いに行きたい。そう思えるような人だった。


「ツヴェート様、お父様には厳しいの。ずっと、怒っているのよ」

「俺に対しても、似たようなものだと思うけれど」

「そんなことないわ。イヴァンには、優しいわよ」


 あれで優しいとは。まだ、俺はツヴェート様の本気を見ていないようだ。


「どうして、お義父様には厳しいの?」

「さあ? ここに移り住んだときからの知り合いみたいだから、何かあったのでしょうね」

「移り住んだ?」

「ん?」

「アニャの一家が、代々養蜂を営んでいたのではないの?」

「違うわよ。お父様は、お母様と結婚したときに、ここに移り住んで、山に住むおじい様と養子縁組みしたのよ」

「え、そうだったんだ」


 なんか前に、一族は代々養蜂を営んでいた……みたいな感じで語っていたから、生まれたときから養蜂家だと思っていた。

 たしかに、言われてみればマクシミリニャンは、養蜂家をしていた者の体つきではない。

 町で見かけていた、軍人みたいにガッシリしていた。

 もしかしてマクシミリニャンは――とここまで考えて、首を横に振る。

 他人の事情について、いろいろ考えるのは止めよう。


「アニャ、このあと、どうするの?」

「食料を買って、それから――そうだ。お父様に、お土産屋さんで売り上げを受け取るように言われていたんだわ」


 マクシミリニャンは村にある土産屋に、工芸品を卸しているらしい。木彫りの鹿や熊は人気で、毎回追加注文が入るほどなのだとか。商品が売れたら、伝書鳩を使って知らせが届くという。


「お土産屋さんもあるんだね」

「ええ、でも、今は都会からやってきた商人の買い付けが、主な収入みたい」


 その昔、ボーヒン湖は貴族の保養地としてそこそこ栄えていた。

 しかし、お隣さんである帝国の帝政が崩壊し、特権階級であった貴族も次々と凋落してしまった。そのあおりを、この村も受けたようだ。


「まあでも、貴族に仕えていた元使用人が、懐かしく思って遊びに来るらしいのよ。だから、状況はそこまで悲観的ではないわ」

「だったらよかった」


 山の麓の村が衰退したら、山で暮らす俺達の生活も成り立たないだろう。


「そういえば、土産屋のご主人、最近再婚したとか言っていたわね」


 前妻は一年前に病気で亡くなったらしい。ご主人は三十三歳と若く、子どももいなかったので、新しい妻を迎えたようだ。


 土産屋さんに到着する。欠けのないレンガで造られた店舗は、雑貨屋さんよりも立派だった。


 窓を覗き込んだアニャが、ハッと驚いたものとなる。


「アニャ、どうしたの?」

「知り合いがいて、目が合ったから驚いただけ」

「ふうん」


 なんだか、アニャの表情に緊張が滲んでいるような。

 そんなことを考えていたら、扉が開かれる。

 眼前に扉が迫り、慌てて後退する。危うく、扉に張り倒されるところだった。


「やっぱり、アニャじゃない。いらっしゃい」


 アニャに親しげに話しかける声が聞こえた。扉のせいで、姿は見えないけれど。

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