<< 前へ次へ >>  更新
39/119

養蜂家の青年は、雨の朝を迎える

 蕎麦の種を植えてから迎える二日目。

 アニャがやってくることを想定し、早めに起きた。

 服を着替え、寝間着は洗濯物入れの籠に放り込む。

 外は薄明かりの中。日の出はもうすぐだろう。そんな中、アニャの姿はなかった。

 洗面所で顔を洗い、髭を剃って歯を磨く。


 身支度が調ったが、アニャはやってこない。

 はてさて、どうしようか。

 外で腕を組んで考えていたら、母屋の扉が開く。アニャだ。


「おはよう」

「きゃあ!」


 アニャは俺を見て、悲鳴を上げた。手に持っていた洗濯籠を、落としてしまうほど驚いたようだ。


「ちょっと、イヴァン! なんで日の出前に起きているのよ」

「いや、昨日アニャが日の出くらいの時間に蕎麦の状況を見ようと誘いにきたから。今日も見に行くのかと思って」

「あ――そう、だったのね」


 話しているうちに、日が昇る。太陽が地平線から、ひょっこりと顔を覗かせた。

 夜のとばりが、太陽の光によって空の彼方まで押し上げられる。

 この光景は、いつ見ても美しい。


「アニャ、蕎麦を、見に行こう」

「ええ、そうね」


 まだ薄暗いので、転ばないようにと手を差し出す。

 アニャはポカンとしたまま、俺を見つめていた。


「その手、何? 食べ物を、ちょうだい?」

「違う。アニャが暗い中で転ばないように、手を貸そうとしているの」

「あ、そう、だったのね。ごめんなさい。誰かの手を借りたことなんて、なかったから」


 アニャはいつもいつでも、マクシミリニャンの背中を追いかけていたらしい。手と手を繋ぎ、並んで歩いた記憶はないと。


「おじさんって、厳しいんだ」

「厳しくないわ。普通よ」

「ふーん」


 俺は山のルールに則って、アニャを厳しくする理由はない。だから、手を握って歩き始める。


「あ、えっと、イヴァン、私、一人で歩けるわ」

「そうかもしれないけれど、俺が心配だから」


 そう返すと、アニャは大人しくついてきた。蕎麦の種を蒔いた畑にたどり着くと、小さな声で「ありがとう」と言う。


 太陽の光が、畑を淡く照らしてくれる。

 蕎麦の芽は――残念ながら、出ていなかった。


「今日も、ダメなのね」

「まだ二日目だしね。今日は太陽も出ているから、それにつられて芽が出るかも」


 もしも発芽するとしたら、明日だろう。まだ、諦めるのは早い。

 と、前向きな姿勢でいたのに、自然は容赦ない。

 畑の前でしょんぼりする俺たちから、太陽の光を奪う。

 厚い雲が、太陽を覆ってしまったのだ。それだけではない。ポツポツと、水滴が落ちてくる。


「うわっ、雨だ!」


 一粒一粒が大きな雨粒だ。これは、あっという間に大雨になるだろう。

 畑の前でボーッとするアニャに声をかけたが、いまいち反応が悪い。


「アニャ、抱き上げるよ!」

「え?」


 アニャを横抱きにし、母屋へと繋がる斜面を下る。


「ひゃあ! ちょっと、イヴァン、どうして――!?」


 アニャが「自分で歩けるから」と言った瞬間、大粒の雨が降り始めた。


「うわ、最悪!!」


 走って母屋にたどり着く。たった数秒の間だったのに、びしょ濡れになってしまった。 アニャを下ろしてやると、顔が真っ赤なのに気づく。


「アニャ、大丈夫? 風邪でも引いているの?」

「イヴァン、あなた、力持ちなのね」

「え、そうでもないけれど」

「だって、私を抱き上げたじゃない」

「いや、アニャはものすごく軽いほうだから」


 マクシミリニャンと川まで運んだ丸太は、信じられないくらい重たかった。それに比べたら、アニャは羽のように軽いと言える。


「それよりも、早く着替えたほうが――へっくしゅん!!」

「やだ、着替えが必要なのは、あなたのほうじゃない」


 アニャは目にも止まらぬ速さで走り、大判の布を持ってきてくれる。

 昨日洗濯して乾かした服に着替えるよう、命じられた。


 ◇◇◇


 今日は雨なので、家で作業するらしい。先程の勢いはなくなり、霧雨のような静かな雨が降っている。


「アニャ、マクシミリニャンは?」


 朝から一度も顔を出していない。朝食は食べたのか、心配になる。


「雨の日は、家畜のお世話以外で離れから出てこないわよ」

「え、なんで?」

「雨に濡れると、病気になると言われているの」


 離れにも簡易的な台所があり、食料も豊富にあるらしい。

 今日みたいな雨の日は、母屋と離れの行き来を止めて、家の中で静かに過ごしているようだ。


「刺繍をしたり、編み物をしたり、保存食を作ったり。まあ、仕事は探さなくてもいろいろあるわ」

「なるほど――くっしゅん!」

「イヴァン、暖炉を入れてあげるから、火の前から離れないように」

「ごめん」

「いいわ。私も、寒いと思っていたから」


 アニャは暖炉に火を点け、ヤカンを吊す。沸騰したら、カップに湯を注いでいた。


「蜂蜜生姜湯よ。風邪には、これが一番だから」


 カップには、スライスした乾燥レモンがぷかぷか浮かんでいた。飲むと、体がほっこり温まる。ピリッとしているけれど、優しくて甘い。まるで、アニャのようだ。

 アニャも、暖炉の前に座り、蜂蜜生姜湯を飲んでいた。


 働かずにまったりする時間が、不思議と心地よい。

 雨がサラサラ降る音を聞きながら、蜂蜜生姜湯をちょびちょび飲み進める。

 なんだか、癒やされてしまった。 

<< 前へ次へ >>目次  更新