0026 スローライフの危機
片目との決戦、ルウィンとの邂逅から時は過ぎ…涼の体感で二十年ほど時は過ぎた。
そして、涼のスローライフに危機が訪れる。
その日、涼は海に向かっていた。
塩の調達と、久しぶりに海魚の塩焼きを食べてみたくなったからである。
以前、海に潜ってクラーケンに殺されかけて以来、クラーケンには出会っていない。
まあ、そうは言っても、年に二、三回しか海の方には足を向けないのであるが…。
やはり海の中で何度か死にかけたその記憶が、涼に無意識下で働きかけるのかもしれない。水の魔法使いなのに海は苦手なのである。
「いや、海が苦手なんじゃない。クラーケンが苦手なだけだ! 実際にあのエビは食べてやった!」
そう、一度目に海に潜った時、涼を気絶させた例の気泡を出すエビ、あれは倒してちゃんと食べてやったのである。
大きい片腕の構造もよく調べた。
一番驚いたのは、あれほど強力な気泡を放つのに、魔物ではなく普通のエビであった点である。
日本近海にもいた、テッポウエビというやつの巨大版であることに気づいたのは、テッポウエビの動画を思い出したからであった。
大きく成長したハサミを噛み合わせることによって、気泡が発生、その気泡が破裂する際に衝撃波が発生する。
気泡圧壊やキャビテーションと呼ばれる現象であるが、この際にプラズマが発生し、4400℃もの高温が生じる。
日本近海にいるテッポウエビは体長五センチほどだが、その大きさでプラズマを発生させるのである。
物質の三様態、固体、液体、気体…そのさらに上、四つ目の状態がプラズマである。
それをハサミの形状のみで発生させてしまうのだから、自然の力恐るべし…。
そんなエビは食べることによって、恐怖は克服した!
だが…クラーケンについては、未だにその恐怖を乗り越えたとは言えない状態である。
さて、そんな涼が海について見た光景は…散らかっていた。
いつも、白く美しい砂浜、その先の青い水平線とのコントラストが、この世の物とは思えない造形を成している海岸なのであるが…そう、散らかっていたのである。
まるで、船が難破してその残骸が海岸に打ち上げられたかの様な。
そういった残骸の中に、人も転がっていた。
三人?
実に、地球からこの『ファイ』に転移して二十年ぶり(涼の体感時間)の人間である。
涼は慎重に近付いて行き、首筋に手を当てて脈を確かめる。
二人はすでに亡くなっているようだ。
ただ一人、二十台半ば、くすんだ赤毛にがっしりとした体格、手には剣だこ、腰には何か存在感を感じさせる剣を差している。
剣に生きる男なのは、すぐにわかった。
「このまま放置するのは、さすがに寝覚めが悪いよね」
けっこう酷いことを考える涼である。
「<台車>」
氷でできた、全長二メートル程の荷車が生成される。
いわば自走式の台車で、涼の後をついてくるだけの簡単な動きしかしない。
元々は、アイスバーンを発生させて、その上を滑らせるように荷物を引っ張っていたのだが、面倒になったのと、一回の狩りで多くの獲物をとると運ぶのが大変、ということで考え出されたものである。
本当はゴーレムの様な、二足歩行のものを作りたかったのだ。どんな悪路でも移動可能な。だが、ゴーレムは何度やっても上手くいかず、二十年たった現在でも上手くいっていない。
とりあえず、この海岸から家までは、年に数回は行き来するために、石畳の道路を作ってある。そのため、この<台車>でも十分に移動可能であった。
その台車に、生きている剣士とおぼしき男性と、その周りに転がっていた使えそうなものを積み込む。
「塩は…また後で来ればいいか」
だが、詰め込んだところで涼は気付いた。
剣士の左腕に、相当深い切り傷があり、血がどくどくと流れ出ていることに。
「鮮紅色の血…動脈が傷ついているってことか。このままだと失血死ですよね…う~ん」
何か使える物が無いかと辺りを見回す。
止血の基本は圧迫止血。
布か何かで出血点を押さえるだけでも効果があるのだが…流れ着いた物は汚れており、さすがに感染症を懸念せざるを得ない。
だがそれ以外となると…そう、ここには布や糸といったものは存在しなかった。
「仕方ない」
涼は一言、そう呟くと、剣士が着ている服の袖を上から押さえて、そのまま圧迫し始めた。
「成人の身体の六十%は水。三分の二は細胞の中、残りの三分の一は細胞間液と血液。ということは、水属性魔法使いである僕は、人間の血液も操れたりするんじゃ…」
涼はイメージする。
目の前の剣士の腕の中を。
添えた手を通して、剣士の腕の中が見える気がする…おそらく体内の水を通して見えている…気がする。
その中でも血管に集中してみる。
「出血点発見!」
出血している血管を、外側から水の膜でコーティング。その際、血管を潰してしまわないように、慎重に、慎重に…。
「出来た」
涼のイメージの中では、血管からの出血は止まっているが、実際に止まっているかどうかは圧迫止血を行っている手を外して、見てみるしかない。
ゆっくりと手を離し、しばらく見てみる。
血が滲んでくることは…ない!
「ふぅ。なんとかなりましたね」
そうして、少しだけゆっくりと、剣士が入った台車を引き連れて、涼は帰宅するのであった。
アベルは目を覚ました。
周りを見回す。
「助かった…のか」
手足は自由。鎖につながれてもいない。
いつも肌身離さず身に着けているペンダントはちゃんとある。
相棒の剣と革鎧もベッドのすぐ脇に立てかけてある。
腕、足も問題なく動く。
服は…ズボンは履いたままだが、上着は着ていない。
左腕には深い傷があるが出血はしていない。
状況は概ね良好。
誰かの奴隷になったわけではなさそうだ。
アベルはベッドから降り、立ち上がって、立てかけてあった剣を腰に差した。
「民家…にしてはやけに広いな。村長の家か?」
居間を抜け、扉を開けて外に出る。
そこには、燦々と降り注ぐ太陽と、広い庭があった。
「村…じゃない? ここはいったいどこだ」
「あ、起きたんですね。助かって良かったです」
アベルは驚いて振り向いた。全く気配を感じなかったのである。
だがそれ以上に、声をかけてきた男の格好に驚いた。
身長はアベルより頭一つ低い。十代後半、黒髪黒目、肌は日焼けしているのか浅黒い。
だが、それよりなにより着ている物が、サンダルと腰布のみ…それも何かの皮をなめしたもの。『服』と呼べるものを身に着けていない。
(スラムの子供達でも、もう少しまともなものを身に着けていると思うが…いや、まず言うべきことはそれじゃないな)
「俺はアベルと言う。お前さんが助けてくれたのだな。感謝する」
そう言って、アベルは頭を下げた。
「ああ、気にしないでください。海に打ち上げられていたのを、家まで運んだだけですから。ただ、助かったのはアベルさんだけで、他の人たちは残念ながら…」
「ああ、他にも打ち上げられてたのか。気にするな、あいつらは密売人だ」
「密売人?」
状況がよくつかめない涼は首を傾げた。
(彼らは密売人…なら一緒に打ち上げられていたこのアベルさんは…何? 密売人? いや、自分も密売人ならわざわざそんな風には言わないよね。ぶっきらぼうな口調ではあるけど、悪い人には見えないし。ぶっきらぼうな口調…あっ、言葉通じてる。日本語じゃなさそうなのに、なぜか言葉は通じるんだ…よくわからないけど、さすがミカエル(仮名)、出来る男だ)
「とりあえず、ご飯にしましょう。アベルさんの服は、そこに干してあります。多分、もう乾いているとは思いますよ。あ、そうだ、僕の名前は涼と言います、どうぞよろしくお願いします」
リョウと言う名の命の恩人は、色々と変わっていた。
まず食べ物、パンは無いのだという。
ただし『ライス』が出てきた。
中央諸国の中でも南方の地域でだけ作られる穀物で、アベルも食べたことがある。
いろいろ香辛料を効かせたドロッとした…何と言ったか、そういう料理との組み合わせは絶品だったのを覚えている。
リョウが提供してくれた、香辛料を効かせた炙り肉は絶品であった。
ライスを固めた『オニギリ』と炙り肉の組み合わせは、パンと肉の組み合わせよりも美味しく感じられたほどであった。
リョウが着ている服、というか腰布はボア系の皮をなめしたものである。
聞けば自分でなめしたのだという。
確かに、いろいろと苦労の跡がしのばれる。
だがそれ以上に驚いたのは、他に服は無い、ということであった。
「他に服が無い…?」
「ええ、布とか糸とか手に入れてないので作ってないのですよ」
「いやいや、作らなくとも買えば…」
そこまで言って、アベルは後悔した。
お金が無ければ買いたいものも買えない、当たり前ではないか。
命の恩人を侮辱するような言葉になってしまったのではないか。
「この周りには町どころか、人っ子ひとり住んでいないのですよ」
アベルの想像を超える答えであった。
聞けば、ここは『ロンドの森』と呼ばれる場所で、この辺りには人は住んでいないらしい。
「ロンドの森? 悪いが聞いたことのない地名だ。船に乗っていた時に、だいぶ南に流されたという声は、連中が言ってたのが聞こえてきたのだが…」
「ああ、そうなんですね。そもそも、アベルさんたちの船に何が起こったのですか?」
アベルは、船に起きたことをかいつまんで話した。
予定より港を早く出港したこと。そのためにアベルは降りられなかったこと。
沖合に出たところで嵐に遭遇し、マストや舵がやられ、その時点で相当に南に流されたこと。
しかも運の悪いことに、二日後、また嵐に遭遇し、そこでもさらに南に流されたこと。
そして最後は、クラーケンに船を破壊された、と。
「クラーケン!」
涼の身体を悪寒が走った。
「よく生きてましたね…」
「いや、まあ、運がよかったんだろうな。だから、他の連中はみんな死んだんだろう?」
「ああ、確かに」
アベルが不思議に思ったのは、リョウの武装に関しても、であった。
左右の腰に、二本のナイフを刺している。
武装的にはナイフ使いなのだろうが、それにしては防具が無さすぎる。
腰布のみ、とは…。
ナイフ使い、あるいは斥候が軽い装備を好む、というのは知っているが、これは軽すぎであろう。
周りに街も無く、人っ子ひとり住んでいないと言っていた。
だが絶品であった炙り肉はラビット系の肉である。
恐らくリョウが獲ってきたのであろう。
つまりそれなりに戦えるはずである、そうでなければ沖合にクラーケンがいるような土地で生きてはいけないだろうし。
「先ほどの炙り肉は絶品だった。あれはリョウが獲ってきたのだろう?」
気にはなるが直截的に聞くのはさすがにはばかられる。
遠回しに聞いてみることにしたのだ。
「ええ。ここの東の森でよく獲れるんですよ。レッサーラビットのモモ肉です」
「その…リョウはナイフ使いなのか? ナイフだとレッサーラビットを獲るのはけっこう難しい気もするのだが」
遠回しに聞くのは、アベルは苦手だった。結局ズバッと…である。
「あ、僕は水属性の魔法使いです。このナイフは護身用と言うか解体用と言うか…」
涼はちょっと照れながら答えた。
魔法を使えるのは、『ファイ』全体で二十%程度しかいない。
残り八十%の人たちは魔法を使えないのだ。
かつてミカエル(仮名)が言った言葉を覚えていた涼は、照れたのだ。
「おぉ、すごいな魔法を使えるなんて」とか「選ばれた人だな」とか、「憧れるなぁ」と言った反応を期待したのである。
だが…、
「魔法か。中央諸国でも半分の人間しか使えないからなぁ。ちなみに俺は使えないし」
「半分…」
(ミカエル…二十%って言ったじゃん! 話が違うよ!)
劇画調の「なんてこと!」な顔で落ち込む涼。
「ん? リョウ、どうかしたか?」
「い、いや、何でもないですよ…」